『兄』と『妹』で
朝、起きたとき、自分がベッドで寝ている状況に首を傾げた。昨夜、部屋に戻った記憶がないような気がしたのだ。
髪の色が黒ではなくて、どうやら染める前に寝てしまったようだ。
今日は休日。
今日一番の予定は、髪を黒にすることに決まった。侍女が丁寧に作業を進めていく。
一週間に一度、髪を黒に染める。一旦黒を落としてしまうのは、元の髪の手入れをし、それから、少しでもムラを無くすためだ。
最初の予定が終わると、やることがなくなった。
最初の予定と言えど、他にやることは決まっていなかったのだ。ふと、図書室に行って、久しぶりにこの時間からじっくり本を読むのもいいかもしれないと思った。
騎士団に入ってから、何かと忙しい毎日だ。
そうと決まれば、部屋を出た。図書室へ向かうのだ。
養父は午前は城へ。養母は家にいるはずで、アルバートも仕事は休みで、今日は予定がないと聞いている。
とはいえ、シルビアは騎士団で勤める生活だけと変わらないが、周りはまだまだこの時期忙しい。
アルバートも、仕事の他にジルベルスタイン家の者としてのパーティー出席など忙しい。それこそ、日によっては朝から夜までだ。
剣の稽古をするとしても、一人でしよう。
「母上、いつものことだが俺がいる意味はないと思う」
アルバートの声が聞こえた。
あそこは、養母の部屋だ。養母の部屋の前に、アルバートがいた。
扉にもたれかかる彼は、いかにも面倒そうな横顔をしている。
部屋の中に養母はいるようだ。シルビアは何となく様子を窺いながら歩いていく。ここは通り道なのである。
しかし、シルビアに気がついたアルバートが目をこちらに向けて……微かに首を横に振った。
「?」
シルビアは意味を汲み取れず、そのまま歩く。
数歩歩いたらところで、アルバートの手の動きに気がついた。何か、意味のあると思わせる動き。
あ、と思い当たった。
第五騎士隊で、会話無しに素早く指示や意図を伝える手段、サインを習った。
騎士団に入る前に習ったことはたくさんあるが、サインは入ってから教えられた。
幸いにもか実践で使う機会はまだなかったが、シルビアはそれを暗記しており、アルバートの手の動きが当てはまる。
『止まれ』だ。
頭の中でサインと一致した瞬間、シルビアはその場に止まる。
しかし、止まったはいいが、この先どうするのか。なぜ止まれ、なのか。
アルバートに視線を注いでいると、彼は視線を一瞬部屋の中へ向け、今度はシルビアの方に顔ごと向けた。
静かに、という仕草をしてから、手招きされる。
シルビアは何が何だか分からないながら、指示の通り静かに歩いていき、扉のところまで来た。中は見えない。
「迂闊にこの部屋の前を通ると、母上に捕まる」
アルバートはまさに、『捕まった』ようだ。
「今年も今になってまたドレス選びに迷っているらしい。今は着替えているところだが、そのうち出てくる。今のうちに通れ」
「私がお母様のドレス選びを手伝いしましょうか」
「お前は最後まで付き合うだろう。俺ならあと十分くらい付き合って、離れられる。せっかくの休日を潰すな」
行けと言われたので、素直に先に進むことにした。
図書室に入ると、本のにおいがした。独特のかおりだ。
本棚の一つの、本と本の間のから飛び出している印の右側から、本を一冊抜いて椅子に座る。
読み始めるのは、部屋に持ち帰っていた本の途中からだ。
途中からの本を読み終えると、もう一冊の本に入る。内容は難しいが、とりあえず読み進めていく。
ジルベルスタイン家の図書室の蔵書は、かなりの数があり、その蔵書の中には最新のものもあれば、とても古くて貴重なものも含まれている。
また、本の内容としては巷に娯楽として広がる、創作の小説もあるにはあるがほんの一部にすぎない。
ほとんどが、ジルベルスタイン家の人間が代々就く職と地位に左右された内容のものが多い。つまり、かなり堅苦しい本。
それから、淑女が興味を持ちそうな刺繍などの指南書の類いもある。
シルビアは、図書室の本を端から順に読んでいっている。
興味のあるものを探してぽつぽつと読んでいくより、無駄なものはないのなら、全て読んでいこうという感覚だ。
もう一冊も最後の頁まで読み終わると、立ち上がり、本棚の間を歩く。どれくらい時間が経っただろう。
時計を見ようと、本棚の間から出ていくと、時計の下の椅子にアルバートがいた。
室内に誰かが入ってきたと気がついていなかったため、シルビアは少し驚く。
どうやらアルバートは、言葉通りにほどほどで養母の元を離れたようだ。単に時間が経っただけかもしれないけれど。
そもそも、彼もシルビアと同じように図書室に来ようとして、あの部屋の前で養母に呼び止められたのだろうか。
アルバートが、静かに頁を捲る。
その姿を見て、上の方にある時計で時刻を確認し、シルビアはそっと身を引っ込めた。
もう一冊、本を読んで行こう。
*
アルバートとニーナのお見合いの話は、元々限られた人しか知らなかった。
ジルベルスタイン家と、ニーナのミュート家。
例外がレイラの情報の元だった、レイラの家だろうか。
そのレイラも、数日のずれはあったようだが、話がなくなったことを聞き付けた模様だ。
「とうとう結婚かと思ったのに」
そのまま、すんなり進んで行くかと思っていたのに、とレイラは言った。
第三者の目から判断するとして、家柄、当人の地位や評判など、からしてもそう思えるものだろう。
けれど、理由はさておき、結果は破談。
「今年は、夜会の類いに参加したらアルバートが女性連れなんていう初の光景が見られるかもしれないと思ったのに」
「『今年は』、ですか?」
「ん? うん。私、あまりそういうのに行かないんだよね」
「そうなのですか? この前のお茶会は……」
「あれはシルビアに会えるかもと思って。それと、ニーナも参加するんじゃないかって、野次馬ね。私、別に家を継ぐわけでもなく騎士団に入ってるし、あまり参加する必要ないのよ」
レイラはドレスは見ているのは楽しいけれど、窮屈であまり着るのは好きではないのだと笑った。
確かに、制服と比べると、ドレスはどうしても窮屈になってしまう。
「でも、本当、いつ結婚相手が決まるんだろう。お見合いの話聞いて、そういえば婚約者はいてもいいくらいなのにって思い出したわ。……ま、余計なお世話か」
レイラはばっさりと、自らの呟きに終止符を打った。
「シルビアも、お姉ちゃんが出来るのはまだもう少し先みたいね」
「そうですね」
シルビアは至って普通に、同意した。
自分は『妹』で、アルバートは『兄』で。
それで、充分だ。
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