どうか







 付き合いの関係で夜会に出かけていたアルバートは、日付が回る前に家に帰った。

 元々早くから参加していたこともある。明日は仕事は休みだが、そこまで長居することなく帰って来た。父は一緒ではない。


 帰ると制服を着替え、風呂に入った。部屋に戻る前に、家族用の居間に足を向ける。

 帰宅したときの出迎えの使用人の受け答えから、どうやらまだ起きていて居間にいるようだと思ったのだ。

 いるのは母か、母とシルビアか、だろう。

 帰ったと、一応直接挨拶しに行こうと思った。

 濡れた髪に微かな風が当たり、僅かに冷たさを感じた。髪に手を通し、後ろに撫で付ける。

 予想通り、居間は明るかった。扉が片方開いていて、廊下にまで明かりが漏れている。


 扉の外に、中を窺っている侍女がいた。シルビアの侍女だ。


「どうした」

「──若様」


 侍女がアルバートに気がつき、一礼する。


「お嬢様がお眠りになってしまっているようで……」


 侍女が持っているものが目に入った。ああ、なるほど。『その前』に寝てしまったから、そんな様子なのか。


「明日は休みだ。染め直すのは、明日でいい」

「承知致しました」


 一礼した侍女の横を通り、アルバートは部屋の中に入った。

 ソファの内、こちらに背を向ける形で置かれているソファに、母の後ろ姿のみがあった。

 近づくと、母が振り向いた。しー、という仕草をするので、頷く。


「お帰りなさい、アルバート。ルーカスは?」


 小声での会話に合わせ、アルバートも抑えめの声で応じる。


「父上はまだ付き合うようだった」

「あら、最短時間で帰ってくると言ったのに」

「じゃあ、そのうち帰ってくるだろう」


 そういう父だ。最も母を愛し、誰よりも母を優先する。母との約束を違えない。


「お酒は飲み過ぎていなかった?」

「……どうだろうな」


 数秒は会ったが、ずっと一緒にいたわけでも、見ていたわけでもない。だが、酒には強いから大丈夫だろう。

 答えてから、視線を下に。母の顔より下の、ソファの向こう側を見下ろす。


「起こし難くて」


 母も、視線を下方へ。

 手で、『彼女』の頭を撫でた。


「そのまま寝かせておけばいいだろう。髪は染めるのは明日でいいと言っておいた」

「そう」


 母の脚の上に頭を乗せる形で、シルビアが眠っていた。

 傍らに本が二冊避けられていることから、一緒に読書していたのだろう。

 シルビアは、起きる気配がなかった。静かにという配慮がされている室内が静かで、微かな寝息が聞こえ、体が呼吸に合わせてわずかに動く。

 シルビアを撫でる母の指を、銀色の髪が滑っていく。髪が落ち、白磁のごとき頬にかかる。


「……ん」


 瞼が少しだけ開き、うっすらと目が覗く。

 その目を見ると、一瞬、息が出来なくなりそうになる。

 角度によって色が変わる、不思議な瞳。

 いつもは水色に見えている目は、今その様相を変えていた。シルビア本人が寝ており、意識していないからだろう。これが本来の色だということを、示しているようだ。

 ぼんやりとした目は、アルバートを映したが、そのまま閉じられた。きらきらとした色彩が隠れる。


「こうして見ると、触れるのも躊躇われるくらい」


 ゆっくりとシルビアを撫でていた手が、止まり、離れる。


「本当に、美しいわ。シルビアは、美しいという言葉があまり好きではないようだけれど……」


 可愛いとか、凛々しいとかいう言葉は照れてもくれるのにね、と母は呟いた。

 母は、養女を撫でることをやめた手を伸ばした。

 その先には、シルビアが投げ出している腕があり、寝衣の袖が捲れてしまっていた。白い肌に、一筋の線が目立っており、母の手は袖を直すことでそれを隠した。


「アルバート、シルビアを部屋に運んでくれる?」

「……分かった」


 アルバートは、シルビアを起こさないよう抱き上げ、部屋を後にした。

 廊下を歩く。

 腕の中を見下ろすと、眠るシルビアがいる。


 先程の母の言葉に、アルバートもそうだな、と内心で同意した。

 いつもは黒に染めている髪は、元は美しい銀色。今は閉じられている瞼の下には、この世のものとは思えない煌めきを秘めた瞳が隠れている。

 その色を纏う彼女が、どれほど美しいか。


 彼女を見ていると、思い出した。

 どうして、ジルベルスタイン家はシルビアを養女にしたのか。シルビアの配属初日、レイラに聞かれたことだ。

 他の機会にも、他の人間から聞かれたことがある。

 その全てに、父も母もアルバートも、遠回しにとても優れた神通力を持っているからだと答えた。それ以外に、それ以上に周りが納得する理由などない。


 自分は『兄』で、シルビアは『妹』で。それ以上ではなく、以下でもない。

 これが彼女を守る最善、最大限の形だ。自然な形で、彼女を庇護する。


 自分は友に誓ったのだから。彼女を預かり、守ると。


「……ヴィンス、俺は、お前が思ったような環境をシルビアに与えられているだろうか」


 腕の中の存在を支える手に、わずかに力が入った。

 思わず零れた問いに、答えは返ってこない。当たり前だ。唯一無二の友は、ここにいない。

 ただ、友から託された彼女が腕の中にいる。

 大切な、大切な存在。


「神よ、どうか」


 アルバートは、小さく、小さく神への祈りを口にした。

 シルビアが寝ている間に。彼女には聞こえないように、密かに。


 ──どうか、完全なる平穏を、一時でも早く彼女に


 そして、願わくば、彼女の望みが叶いますように。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る