CASE 1:妻を捜した男の場合


 ––––あぁ、困った。とても大切なことなのに。

 どうしよう、思い出せない。せっかく、あの人が尽力して下さったのに。




「悪魔ぁ?」

 落ち着いた調度品が並ぶ部屋の中央、男は素っ頓狂な声を上げた。

「えぇ。悪魔です」

 対して男の目の前、背凭れの高い椅子に腰掛けた青年は、笑顔で頷いた。

「私はあくまでも仲介人。貴方の依頼をこなすのは、悪魔です」

「悪魔だと? 馬鹿馬鹿しい」

 男は吐き捨てるように言った。無理もない。書物やインターネットに聞き込み、あらゆる情報ツールを駆使して調べた先で辿り着いた、「どんな難しい依頼でも承ります」と宣伝文句を掲げた請負人が、いざ依頼を持ち込んで見ると、「悪魔が貴方の依頼をこなします」なんて言い出したのだから。

 それでけではない。遠路遥々ここまで来て、真剣な話の中で持ち出されたのが、非科学的なそれである。男が気分を害されるのも仕方のない話だった。

「では、お辞めになりますか? 私はそれでも構いませんよ。貴方の会いたい人は、何も私でなくとも何れ警察の方が見付けてくれるでしょう。なに、日本の警察は馬鹿ではありません、むしろ優秀です。……まぁ、時間は掛かるでしょうがね」

 青年はさらりと言い、近くの引き出しから一冊の本を取り出した。薄い背表紙には、マジックで付け足されたのだろう字で「Police Map」と書かれている。付箋がバラバラと貼ってあるのを指でなぞっている所を見るに、どうやら、近場の警察署でも教えようとしているらしい。

「ま、待て、それでは困る。私は、今すぐ彼女に会いたいのだ」

「えぇ、それは先程お聞きしました通り、存じています」

 男は地図を広げる手を掴んだが、作業を遮られた青年は、その手をやんわりと退けて、しかし落ち着き払った口調で首を縦に振る。

「ですが私の手段は、貴方が馬鹿馬鹿しいと仰った悪魔を使う以外にありません。私はこの方法でやってきております故、嫌だと仰るのであれば、警察に頼む他ないかと」

 その口調は言外に、「藁にも縋りたいのでしょう?」と言っていた。また同時に、強い誘惑を伴って男の耳に入り込んでいく。

 男はぐっと言葉に詰まった後、何かを思案するように腕組みをしてから、噛み付くように言った。

「わかった、お前に頼む」

「ありがとうございます」

「ただし、三日だ!! 三日以内に妻を見付けろ! 三日以内だぞ、いいな!!」

「承りました、必ず」

 半ば脅すような語調の荒さにも怯まず、青年はにこりと笑い、朗らかに引き出しを開く。

 そこから真っ白い羊皮紙を一枚取り出すと–––––羊皮紙には、間隔をあけて英語で文章が書いてあった––––––ペン立てから上等そうな万年筆を抜き出した。

「では、契約内容の確認を致します。ご依頼内容は、奥様の捜索でよろしいですね?」

「あぁ」

「最低三日、捜索範囲の指定は無し、無制限。奥様を発見した場合、身柄の安全も確保する」

「そうだ」

 男が肯定する度に万年筆が走ったが、彼にはそれが何を書いているのか判別としなかった。恐らくは筆記体の英語なのだろうが、もはや殴り書きとも言えるくらいに字体が崩れており、何かの記号に見えてくる程だ。

 ガリガリと文字を綴り、次々と何かを書き進めていった青年は、最後までペンを滑らせると、羊皮紙をくるりと反転させて男に差し出した。

「……畏まりました。では、こちらの誓約書に」

「サインか」

「いいえ、血胤を」

「は?」

 何事でもないように言った青年に、男は目を丸くする。

 昨今の時代に、血胤で契約を結ぶなど、時代錯誤ではないか。

 そう思ったのだ。

 だが青年は、ここでもさらりと、落ち着いた声で何でもないことのように言う。

「先程申し上げました通り、貴方の依頼をこなすのは悪魔です。悪魔に人間社会の道理は通じません。悪魔との契約は、血胤で行っていただきます。その代わり、私には絶対に依頼を成功させる自身があります」

「……分かった」

 最後の方は至って真面目な口調でそう言われ、「絶対」を強調された男は、こくりと頷いた。どうもこの青年の言葉には、強烈な媚薬でも含まれているかのように誘惑が伴うようだ。

 男が頷くと、青年がどこからか取り出したナイフを差し出す。

 何とも大振りで、重みのある銀色のナイフだ。

「契約書の内容は、お読みいただけましたか? 悪魔は貴方の依頼を遂行する対価として、それ相応の代償をいただきます」

「なに? 金以外に更に取るというのか」

「私がいただくのは、あくまでも手数料です。悪魔を呼び出すのにはそれなりのリスクが伴いますので、その保障金という事ですね。何事もただでは行かないのが今の社会です。実際、救助隊を依頼すると、お金が掛かるでしょう? それと同じです。ですがよく考えてみて下さい。今、貴方の奥様以外に、それ以上に大切な存在があるのですか?」

 子供に言い聞かせるような口調は男の神経をざらざらと撫で付けたが、やはり同時に、蠱惑的な響を多分に含んでいた。それこそ、決心を付けさせるのには充分に。

 男はやや苛立ち混じりに「そんなわけないだろう」と言い返し、ナイフの切っ先で親指を引いた。線を引いたそこから、じわりと赤い色が滲み出る。それを羊皮紙に押し付けると、指の形に契約印が滲む。

 それから青年が示した金額を支払うと、彼は満足そうに笑って羊皮紙を巻き取った。

「ありがとうございます。これで契約は完了しました。ご安心ください、ご満足いただけなかった暁には、全額お返しいたしますよ。それから、奥様の写真もね」

 男は何か言おうとして黙り、ふんと鼻を鳴らし、席を立ち上がる。言外に、「失敗したらどうなるか分かっているだろうな」と脅しをかけながらその場を離れた男の背が消え行くのを見送った青年は、徐に指を打ち鳴らした。

「……金持ちは、金さえあれば何でも叶うと思ってやがるな。なぁ、マモン?」

 パチンと軽快な音と共に、それまで誰もいなかった彼の隣にまるで初めからそこにいたかのように姿を現した影がある。

 影はその身に色を纏いつかせながら、嘲笑交じりに笑う。

「ハッ、でも、あぁいう奴が一番のカモだよなァ。そうだろ、廣畑?」

 完全に姿を現したそれは、全身黄色を基調とした服に身を包み、黄色いレンズサングラスを付けたまだ若い男だった。彼は青年––––––廣畑と目が合うと、にぃっと唇を三日月型に歪ませる。

「そうだな。いや、全くその通りだ。ああいう自分の望みに嵌り込んでるやつは、これ以上とない収入源になる」

「ははっ、辛辣だなァ」

「先に言い出したのはお前だろう。側で話を聞いていたんだ、依頼内容は分かるな?」

「ハハハ、当たりめぇだろ。きっちり血は貰ったんだ、ちょっくら行ってくるぜ」

 けらけらと、さも楽しそうに笑いながら、黄色い男は顕現して数分も経たぬうちに溶けるようにして宙へ消えた。

 突然現れ突然消える。本来なら誰もが目を丸くし驚く現象だが、青年は涼しい顔で受け流していた。

 むしろ楽しむように、消えた男のように喉の奥でくつくつと笑う。

「もっと冷静な思考回路を持たねえと、破綻しちまうぜ? 死に急いだら、人生損だ。金があるなら、尚更な」



◇ ◇



「さーて、と。そんじゃ、仕事するかね」

「あ、マモン!」

「よォ、リコ。奇遇だな? 買い物の途中か?」

「そうだね。買い出しの途中だね。そういうマモンは仕事?」

 上着の裾を整えた男に、買い物袋を下げた少女が声を掛ける。マモン、と呼ばれた男は、先程廣畑の元から姿を消した、全身黄色の彼だった。

 マモンはサングラスの奥の瞳を愉しげに細めながら、リコと呼んだ少女に言った。

「あぁ、まぁな。とある金持ちの奥方が行方不明になっちまったから、探してくれとさ」

「へぇ、アスモデウスじゃないんだね」

 マモンが少女–––––リコの買い物袋の中身を覗きながら皮肉たっぷりな声で言うと、少女は不躾なその行いに気を悪くした素振りもなく、意外だねと瞬きをする。首を傾げるようなその問いに、マモンは肩を揺らした。

「男女間の問題だからって、すぐにあのビッチに話が行くと思ったら、大間違いだぜ。リコ」

「そうなの?」

「あぁ。いいか。今回の依頼人は、どっか行っちまった嫁さんを探してくれって頼んできてんだ。別にその嫁さんとアバンチュールがしたいわけじゃねぇ。ただ、大切な人だから心配だっていう、って強い想いだけだ。その強いを叶えるために、俺が選ばれたってわけだ。理解したか?」

「うーん……? それはなの?」

 今度こそ本当に首を傾げるリコに、あからさまに肩を竦めて嘆息するマモン。先程まで愉悦で細められていた目が、今度は呆れたと言わんばかりの色に変わる。

「そんな初歩的な質問を、今更になって俺にするとはな。……答えてやってもいいが、そうだな、その袋の中の物を寄越せ」

「え?」

「いいから、寄越せ。そうだ、リンゴだ、リンゴがいい。リンゴをくれ」

「……一個くらいなら、はい」

「チッ、しけてんな。まぁいい」

 やや渋りながらも少女が買い物袋から差し出した林檎を、男は舌打ち交じりに引っ手繰った。

 小振りのそれを光にかざすように見て憚ることなく「あんまり熟してねえな」と文句を口にしたマモンは、一口齧ってから口元を拭う。

「いいかリコ。廣畑にこれからも関わろうってんなら、そこらへんの人間が目を背けてる人間の深層心理を常考しときな。だとか、だとか、幾ら綺麗なオブラートで包もうと、って感情の原点にあんのは己の心を満たす為の欲だ。今回で言えば、金持ちの男が奥方に会いたいと、強く望み欲しているから、この俺の出番ってわけだ」

「なるほどねぇ。ひろくんが考えそうな事よね」

「まぁな。それに依頼人の男、欲望でドロッドロで汚れてるから、ちょいと楽しみでね」

 文句を垂れた割には、シャクシャクと林檎を次々口に入れながら、にやりと目を細めるマモン。抉り取るように齧る男に、リコはもう一個林檎を取り出し差し出しながら、「汚れてる? 成金とか汚職とかしてるってこと?」と尋ねてみる。

 マモンは空いた片手で奪い取るようにそれを受け取ると、服の裾で磨いてからポケットにしまい込んで答えた。二つ目の林檎で、気を良くしたらしい。

「あぁ、そうさ。だって考えてもみろよ。身内が行方不明になったら、まず真っ先に警察に届け出るのが人間だろ。個人経営の得体の知れねえ店に頼るのは、警察に頼んだ後が常理だ。少なくとも、まともな人間ならそうしてるぜ。それをしないってことは、何か後ろめたい事があるってことだ」

「うーん……廣くん絡みでとなると、確かに、まともな人じゃないんだね」

「よく分かってんじゃねぇか。そういうこった。そもそも、魂が綺麗なら、俺らみたいな得体の知れないモノに頼んだりしねぇからな。それはそうと……」

 マモンは徐に林檎を齧る手を止めると、リコの身体を頭の天辺から足の爪先まで、じろじろと眺め始めた。

 舐め回すような視線を受けたリコが「何?」と怪訝な顔で尋ねると、彼は大きな一歩でぐるりと彼女の周りを一周し、肩口から胸元を覗き込む。

「前々から思ってたが、お前、美味そうだよなァ。その目とか髪とか、綺麗で良い。なぁ、それ、俺にくれないか? 子宮でもいいぜ。……いや、肝臓も美味そうだ。心臓も悪くねぇな。おい、リコ。それ、くれよ」

「……嫌だね」

「あ? 何でだよ」

「だって生を謳歌できなくなるか……」

「この俺が欲しいって言ってんだぜ、この俺が?」

 リコの言葉を最後まで言わせず、マモンはまくし立てた。ギラギラと獰猛に光る目は、先程とは打って変わって理性が欠けているように見える。

 マモンはリコの肩を掴みながら、徐々に声を荒げてにじり寄った。

「いいだろリコ! 俺はお前の血肉が欲しいって言ってんだよ。目玉一個くらいどうってことねぇだろ。なァくれよ! 構わねぇだろ死にやしねぇんだから! 寄越せよ、俺が寄越せって言ってんだ、寄越せぇええ!!」

「……後で廣くんに怒られてもいいならね?」

 まるで噛み付かんばかりの勢いで吠えたマモンは、しかし、取り乱した様子もないリコの冷静な一言を聞いた途端、ピタリと動きを止めた。

 まるで一時停止をしたかのような硬直状態の後、彼は理性を取り戻した目で盛大に舌打ちしながら少女から手を離す。

「チッ! 俺たちに似て、狡賢い女だ」

「あなたたちと一緒にされたくないね」

 二歩、三歩退がって悪態を吐いたマモンに、リコが肩を払いながら息を吐く。それを聞いたマモンは、即座にそれを嘲笑うように肩を竦めて見せた。

「ハッ、どうだか。この世で最も俺たちに近い生物は人間なんだぜ? 我儘で傲慢で、他人と比べて優劣を生まないと幸福も悦楽も感じられない。必要な人間には胡麻擦って媚びを売り、要らない奴は都合良く悪い所ばかり取り上げて捨てる。それで切り捨てられた奴の事なんて考えもしねぇ。甘言と批判。ほぉら、俺たちにそっくりだ」

「……そうね」

 リコはふぅと一つ息を吐いてから、短く肯定する。

「……ちぇっ。あーあ、つまんねぇ女。お前の言う通り、ここで油売ってたって廣畑に怒られるだけだ。俺はもう行くぜ」

 諦めたような溜息を見るに、マモンはすっかり興醒めしたらしい。何事もなかったかのように服の襟元を正すと、ひらひらと手を振りながらリコの隣を通り抜けて、彼はそのまま去って行った。

「行ってらっしゃーい」

 その背中を見ながら手を振るリコ。マモンは彼女の声など聞こえていないかのように大股でひょいひょい進み、すぐさま雑踏に紛れて見えなくなった。

「でも人間は、あなたたちと違って生涯で一人は、心から信頼できる他人ができるものよ。……例外はあるけどね」

 黄色い悪魔の気配が完全に遠退いたのを認めたリコは、どこか自嘲気味に独白すると、くるりと身体の向きを変えて呟いた。

「まぁ、だからこそそれ以外の人には関心が軽薄になるんでしょうけどね」

 それから彼女は袋の中を覗き込んで、

「リンゴ二つもあげちゃったから、これじゃアップルパイ作れないね。……別に私は困らないけど、ベルフェゴールが文句言ってきそうよね」

 などと、明らかに心には思っていないだろう台詞を口にして、マモンとは逆方向へ去って行った。



◇ ◇



「ねぇ廣畑くん。私、珍しく仕事したでしょう? ですから、リコさん手製のアップルパイを食べる権利があると思うんですよ」

「珍しく、って自覚できてるならもっと働けこの穀潰し。お前も聞いてただろ、昨日道中でマモンにリンゴやったから作れなくなったって言ってただろうが」

「まーたあの強欲ですか。まったく、すぐよそ様の物を欲しがって何でもかんでも手に入れようとするんですから……仕事をするまでは、他人から施されたとはいえ、飲み食いしてはいけませんよねぇ。働かざるもの食うべからずですよ」

「お前の事だから分かってて言ってるとは重々承知してるが、よくもまぁそんな特大のブーメランを平然と投げられるな、ベルフェゴール」

「何を言っているんです。私、ちゃんと働いたじゃないですか」

「今回だけな」

 傍で頬杖を付きながら柔らかな物腰で話し掛けてくる男に、廣畑は諭吉の枚数を数えながらぶっきらぼうな声で応じる。全身銀色の服に身を包んだ穏やかそうな目をした彼は、マモン同様に、悪魔の一人だ。

 確かに、ベルフェゴールは働いた。今廣畑が数えている札束は、依頼人の要望を彼が叶えた結果だ。働かざる者食うべからずと言うのであれば、彼がアップルパイを食べたいと要求するのは至極当然のことである。廣畑がその要求を突っぱねるのは、彼が普段の自分を見事に、しかも堂々と棚に上げているからだ。

 そう、ベルフェゴールは普段、まったくと言っていいほど働かない。

 怠惰を司るこの悪魔は、自身が司っている大罪を自ら体現しており、〝怠惰の悪魔〟というよりは〝怠惰の化身〟そのもので、何事に対してもやる気を見せない。他の悪魔が依頼人を経由して廣畑から示された仕事でしばしば働きに外へ出て行くのに対し、彼は四六時中ソファやベッドでごろごろしていて一向に室内から出ようとしない。挙句、力を消耗しやすい現世にずっと留まり続ける上に、空腹を訴えて食べ物を要求してくる。むろん、食べ物を要求してくる悪魔は他にもいる。暴食のベルゼブブなんてしょっちゅうだ。だが彼らは、要求に応じた稼ぎを持ってくる。すなわち彼らには、いわゆるギブアンドテイクの関係がきちんと成り立っており、諭吉を大量に持ってくる悪魔たちに対して廣畑は文句はない。

 一方のベルフェゴールはというと、契約主である廣畑が命令しても「面倒くさい」と断り、一日中何もせずに眠っていたかと思うと、夕飯時に起き出してきて空腹を訴える始末である。何度言っても聞く耳を持たないし、取り合ってもこちらが一方的に消耗するだけで無駄だと理解した廣畑は、まともに取り合うのをやめた。

「リコちゃんに頼めばいいじゃないですか。お金もあるんですから」

「リコは今日用事があるから無理だ。我慢しろ。マモンやルシファーじゃあるまいし」

「確かに、あの我儘な強欲と一緒くたにされたくはありません。ですがねぇ、廣畑くん。大人にだって、我慢したくない時があるんですよ」

「なら、お前が自分でリンゴを買ってこい。そしたら考えてやらんこともな……」

『よォ、廣畑! 頼まれてた金持ちの奥さん、見つけたぜ』

 ベルフェゴールの発言を適当に流しながら札束を数え終わり、金額の値を紙に走らせた所で、マモンの声が響いてきた。

 頭に直接響いてくるようなこの声は、依頼内容の遂行のために遠方に出て行った悪魔たちとの連絡手段で、他の人間にはまず聞こえない。

 その瞬間、廣畑の興味は一気にマモンへ向く。

「でかした、マモン」

『まァな。そっち連れてくから、依頼人に連絡しとくといいぜ』

「あぁ、分かった。ご苦労」

 労いの言葉を言い終える前に、廣畑は既に携帯を取っていた。

 事前に顧客が登録していた電話番号に掛けると、三コールもしない内に反応がある。

『見つかったのか!?』

「えぇ、しっかりと。私の連れが連れてくるそうなので、こちらでお待ちいただければと思います。至急、来られますか?」

『もちろんだ! 今すぐに行く! じゃあな!』

 先程の声のトーンとは打って変わった、営業用とも言える廣畑の応答に、相手は何一つとして疑うことなく二つ返事で電話を切った。

「まるで二重人格ですね」

 携帯を置いた廣畑に、ベルフェゴールが楽しむような口調で言う。

「顧客には、顧客に対する態度ってもんがあるんだ」

「顧客だなんて思っていないでしょうに。それにしても、廣畑くんも私たちに負けず劣らず冷酷非道ですよねぇ。あのお客様、警察に頼めば良かったと嘆きますよ」

「自分で撒いた種だろう」

 含み笑いを浮かべた声でベルフェゴールが身を乗り出すと、廣畑は椅子にどっかりと背を預けながら吐き捨てるように嘆息混じりに答えた。

 彼の答えに、怠惰の悪魔の表情が更に楽しそうになる。

「またまた。分かっててやっているくせに。依頼人の男の奥さんが出て行ったのは、旦那さんが奥さん以外の女性に対する粗相を働いたからで、元々愛想の尽き始めていた奥さんは、これを機に出て行ったんですよ。まぁそんな過去があれば、警察に届け出たって円満な解決はできませんよねぇ。いなくなった理由が理由ですし?」

「俺は円満な解決なんてさせるつもりないけどな」

「おや、言いますね。好きですよ、そういう所」

 素っ気なく加えられた合いの手に、ベルフェゴールはくすくすと笑う。

「とはいえ、旦那さんが奥さんを愛する気持ちは変わっていませんよ。むしろ、悔やんでるくらいです。どうして過ちを犯したのか分からない、と思う程にね」

「さぁ? 何故だろうな。生憎と、俺は他人の事情に興味はない」

「えぇ、えぇ。もちろん知っていますとも。所で廣畑くん、貴方の契約している悪魔には私やマモンを含め、他にアスモデウス……すなわち、色欲の悪魔もいたと記憶しているのですが、彼女的には、今回の案件はどうなのです?」

 知っていて敢えて聞いていると丸わかりなほどわざとらしく、ベルフェゴールが茶化すような口調で訊ねる。問を投げ掛けられた廣畑は、特に思う所は無いと言わんばかりに、眉一つ動かさず、ベルフェゴールを一瞥して一言。

「……客の相手の邪魔だ。失せろ、ベルフェゴール」

 殆どその直後に、インターホンのチャイムが押された。ピンポーンと鳴った電子音が合図のように、悪魔の姿が搔き消える。

「どうぞ、お入りください」

「妻は! 妻はどこだ!?」

 廣畑が入室を促すと、昨日彼に妻を探すように依頼してきた男が慌ただしく入ってきた。

「落ち着いてください、お客様。もう間もなく、こちらへ到着するはずですので。こちらにお掛けになってお待ちください。大丈夫です、奥様の身の安全は保証されております」

 客人用の顔になった廣畑が柔らかな口調で諭すように言うと、男は落ち着かない様子ながらも廣畑の差し出した椅子に腰掛ける。

 それから幾ばくもしない内に、玄関の戸が開く音がした。

「奥様、あちらで旦那様がお待ちです」

 そんな声の直後。部屋の戸が開き、おずおずと一人の女が入ってくる。

「シンジさん……」

「!!」

 若干の戸惑いを見せつつも男に向けられた視線に、依頼人は即座に立ち上がった。が、それと同時に目を見開き、女よりもなお一層濃い困惑を顔に浮かべた。

「シンジさん……何のつもりか知らないけれど、急に呼び出して一体何のつもりなの?」

「いや、その……お前に謝りたくてだな」

 やや冷静さを取り戻した女の問に対する男の声は、未だ不安定に揺れている。

「何のことかしら。私、今更あなたと話す事なんて何もないと思うわ」

「待て! あの時の事は、本当に悪かったと思っている! 自分でもどうしてあんな事をしてしまったのか……私が本当に愛しているのは、お前だけなんだ、信じてくれ!」

「そんなの、男が女に取り繕う時の常套句じゃない。信じられるわけないわ!」

「本当だ! お前以外の誰かと余生を共にするなんて、考えられない!」

「嘘よ! そんな薄っぺらい嘘で私が騙されると思っているの⁉︎ シンジさんが私に対してもう愛が無いのは、とっくに明白だわ!」

「嘘じゃない! 何を根拠にそんなことを!」

「あの、お客様?」

 必死になって喚く男に、廣畑が徐ろに近付き低姿勢で囁きかけた。

「夫婦喧嘩でしたら、外でお願い致します。依頼内容は完遂されましたので」

「今はそれどころじゃない!」

 ヒートアップしている所へ第三者が加入した所で、結果は見えている。案の定、廣畑はあっさり突っぱねられた。だが彼は食いさがる事もせず、まるで今の状況を楽しむかのように一歩下がる。

 目の前では、それなりの年をした男と女の言い争いが続く。

「だったらどうして私のことを名前で呼ばないの!? シンジさんが私のことをなんて呼んだこと、これまでになかったもの!」

「ッ、それは……!」

「理由は簡単よね! 名前で呼ぶ意味がなくなったからでしょう!? 私の他に、私よりも愛する女ができたからよね!」

「ち、ちがう、ちがうんだっ! これは……!」

「もういいわ! 聞きたくない! 嘘ならもっと賢い嘘を吐くのね! もう捜したりしないでちょうだい、さようなら!」

 痛い所を突かれてろくな言葉も出ない男を見向きもせず、女は一方的に捲し立てると荒々しく立ち去ってしまう。

 どこか乱暴な扉の音が反響する中で呆然と立ち尽くす男に、廣畑がわざとらしく問い掛けた。

「どうして名前を呼んでさしあげなかったんです?」

「な、名前が……名前が出てこなかったんだッ!」

「おや」

 長らく妻として共に過ごしてきた愛する女性の名前が分からない。常識で考えればまずあり得ない男の言葉。彼女を愛しているなんて嘘八百だと捉えられても文句の言いようがないその発言に、しかし廣畑はそこを追及することなく目を細める。

「妻の名前が分からなくなったんだ! ここに来るまではちゃんと覚えていたのに! いざ彼女を目の前にした途端、霞のように消えて……!!」

「そりゃあ、あなたの記憶から、あの女性の名前を悪魔が食べてしまいましたからね」

「な…………に……?」

 事も無げに突然告げられた衝撃的な言葉に、男の動きがぴたりとと止まる。凍り付いたその瞳を眺めながら、廣畑は呆れたような声で、憐憫と嘲笑を含んだ視線で答えた。

「契約前にちゃんと説明したでしょう。『悪魔は貴方の依頼を遂行する対価として、それ相応の代償をいただきますよ』と。ですから、貴方の一番大切な奥さんを見つけてきた代わりに、貴方の記憶から彼女の名前を頂戴したんですよ」

「な、何を馬鹿な……騙したな!」

「言いがかりはよしてください。先ほども申し上げました通り、私は事前にお客様に契約についてお話ししました。契約書に目を通すように注意喚起も致しました。お客様は、その上で契約書に血胤を押されています。すなわち、同意されたのですよ。言質も取っていますし、契約書に血胤を押した以上、その契約を違えることはできません」

 肩に掴みかかられて尚、廣畑はその語調を変えることはしなかった。

 その平静さが癇に障ったのだろう。

 男が血走った目で睨み付けてくる。

「私がそうするように仕向けたのだろう!」

「事実を曲解し自分の事を棚にあげるのはやめていただきたい。お客様は〝私に契約させられた〟のではなく、〝自ら契約した〟のですよ。さぁ、ご理解なされましたら速やかにお引き取りください。依頼は終わりましたので」

「っ………」

 廣畑は有無を言わせぬ声でそう言うと、返す言葉もなく力を失った男の手を振りほどき、玄関から外に閉め出した。

「くそ……! くそ、くそぉぉおお……あぁぁああ!!」

 施錠された扉の向こうで、男が泣き崩れる声がする。

「またのお越しを」

 廣畑はそれを聞きながら、歪む口元を手で覆い隠した。

「いやいや、人間の痴情の縺れというものはえげつないですねぇ。愛想が尽きたなら大人しく出て行けばいいものを、ただでは嫌だと言うのですから」

 そんな廣畑の背を尻目に、先ほどまで姿を消していたベルフェゴールが現れる。彼は椅子の上に腰を下ろすと、テーブルに乗せられていた2枚の契約書を見比べて平然と嘯いた。

「『身の安全を確保した上で、三日以内に妻を探す』。『夫と別れる正当な理由を作る。夫に恥辱と苦痛を与えた上で』。……お金がある人の考えることは怖いですね」か

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甘言士廣畑の請負業 鮫と名の付く鱏 @Pumpkin_Shark

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