第16話 鉄槌(後編)
「な、何だぁっ!?」
不意を突かれた親戚達が、一斉に窓の方を振り向く。
部屋と庭を隔てる分厚い窓ガラスが、粉々に砕け散っていた。そこから入ってきたのは、雪色の着物を纏った一人の女。
「お前はっ!」
親戚達は、その女が誰なのか、すぐに理解したようだ。
建宮紺。
彼らが動向を必死に追っていた人物である。
その頭には、毛に覆われた一対の耳。背後に翻るのは、木の葉の形をした二本の柔らかな尾。常人ではあり得ない、狐の耳と尾が生えていた。
紺は、床に散乱するガラスの破片にもかまわず、部屋の中に一歩踏み入ってくる。
「愚かな人の子よ」
斬りつけるような鋭い声には、殺気がたっぷりと塗られていた。切れ長の双眸から禍々しい眼光が放たれる。滑らかな金色の長髪が逆立つ姿は、夜叉を思わせた。
同時に、妖しくも絶世の美貌が際どい均衡を生む。
「ただで済むと思うな」
紺の二本の尾が左右に広がり、身体が陽炎のように揺らめく。それと共に、真っ黒な靄が彼女の周囲を包み込んだ。実体がそこにあるのかも分からない、不可思議な姿だ。
その迫力に呑まれていた親戚達の一部が、荒々しい声で自身を鼓舞する。
「おい、お前ら出てこい!」
大声で指示が飛ばされ、別室に待機していた親戚達の部下が続々と入ってきた。さらに、外で見張りをしていた部下達が、紺の背後に壁となって逃げ道を奪う。その数、二〇名ほど。彼らの手には、刃渡り二〇センチメートルほどのダガーナイフが握られていた。
「へ、へへ。どこでここの情報を手に入れたのか知らねえが、一人で乗り込んでくるなんて、馬鹿な女だ」
真之に煙草を押し当てていた親戚の男が、勝ち誇った笑みを浮かべる。それに釣られて、他の親戚達も我に返り、床に転がされている真之の横顔を踏みつけた。
さらに代表して、リーダー格の親戚の男が冷徹な調子で告げる。
「このガキを助けたかったら、大人しく言うことを聞け」
紺は何も言い返さなかった。
そんなやり取りを、身動きを封じられた真之は見守ることしかできない。せめて、紺だけでも、無事でいてほしかった。
「紺さん、逃げて……」
そう喘ぐ彼の腹に、親戚の一人が激しい蹴りをめり込ませる。一気にこみ上げてきた胃液が口から吐き出され、床を汚した。
それを見た親戚達が、散乱したゴミを眺めるような目を向ける。
「お前は黙ってろ。……おい、早く女を縛れ」
リーダー格の男の命令に従い、黒スーツを着た部下のうち三人が、紺の背後から腕を掴みに行く。荒事を任される屈強な男達だ、女一人に腕力で負けるはずがない。
しかし――
「下郎。汚い手で触れるな」
紺が一言発すると、彼女に近寄った男達がその場に崩れ落ちた。まるで、重力の渦に引きずられるように、揃って床にへばりつく。必死に起き上がろうとしても、指一本さえ動かすことができない。
「な……っ!?」
その場にいたほぼ全員が、何が起こったのか分からないとばかりに固まった。
ただ一人、真之だけは理解する。
(そうだ、紺さんは人間じゃない。妖怪だったんだ)
誰もが思わず見とれるほどの美女だが、あの巨人の怨霊を相手に闘ったほどの大妖怪なのだ。妖力を使って、人間を倒すことなど造作もないことだろう。
「おい、何をしている。早く立て!」
現実を理解できていない親戚達からすれば、ふざけていると見えたのだろう。怒鳴り散らすが、床に這いつくばった部下は返事をすることもできない。ナイフを構えた他の部下達が、紺の周囲を取り囲みながら、じわりじわりと距離を詰めていく。
「やってしまいなさい!」
親戚の女のヒステリックな大声が鞭となり、部下達が同時に襲いかかる。逃げ場を失われた紺は、為す術もなく捕縛される――かに思われた。
その刹那。
紺の影から無数に生え伸びる、漆黒の大きな腕。悪魔の前足を連想させる異形が、一瞬で部下達全員の身体を掴んだ。紺の髪一本にさえ触れることもできず、部下達はその場で動きを封じられてしまう。
「ぐ、え」
おそらく妖力で造られたのであろう黒い腕は、部下達の身体を締め上げていく。殺さない程度には手加減されているのだろう、彼らのうめき声が重なった。
「な、何だ、こいつは」
親戚達はわけも分からないと言わんばかりに、ただ呆然とその様子を見ていた。彼らの目には、さぞや非現実的な光景と映っているに違いない。守ってくれるはずの部下達は全員無力化されてしまった。
紺がゆっくりと真之の方へと近寄ってくる。
「く、来るなぁっ!」
他より先に我に返った親戚の一人が、真之の首筋にナイフの切っ先を当てた。
「それ以上、近づけば、このガキを殺すぞ!」
一方的な狩りのはずが、理由も分からず逆に追い詰められているのだ。混乱と興奮のせいで、いつ手元が狂ってもおかしくない。その他の親戚達の中には、逃げ出そうとする者も現れた。しかし、いつの間にか部屋のドアの前に分厚く黒い壁が出現し、いくら殴っても破ることができない。
「何なのよ、あの化け物はっ!」
その中で、リーダー格の男が冷静さをどうにか取り繕い、交渉を持ちかける。
「わ、分かった、真之は返そう。その見返りとして、我々の身の安全を保証してもらいたい。そちらとしても、真之に傷をつけたくはあるまい? それで、双方手打ちとしようじゃないか」
図々しい言い分だが、彼らがこの場から逃げる手としてはそれが精一杯だったのだろう。
「何か勘違いしておるようじゃな」
紺は、地を這う害虫を見るかの如き目と共に、静かなアルトの音色を響かせる。
「ワシがここに来た理由は二つある。一つは、真之を取り返すこと。もう一つは、お主ら全員を排除し、後顧の憂いを断つことじゃ。二度と、このようなふざけた真似ができんようにな」
それは彼女にとって、既に決定事項か。異端審問官の判決にも似た無慈悲な宣告。
(こんな紺さん、見たことがない)
真之は鬼と化した紺の姿を、金縛りに会ったかのように固まって見つめていた。彼の前ではいつも優しかった義母が、殺意を露わにしている。その現実に、声が出ない。
「ば、化け物めっ!」
恐怖に満ちた声を吐き散らす親戚達。彼らに残された手は一つしかない。一人が真之の首筋にナイフを押し当てながら、全員で紺から距離を取る。
その間に、紺の影が彼らの足元まで伸びていた。
「覚悟せい」
紺がそう言うと、影から生え伸びる先程と同じ腕。影の手は真之の身体を掴み、親戚達のもとから奪い取る。そのまま素早く紺の傍らまで引き寄せた。
最後の希望である人質を失い、親戚達は散り散りになって逃げようとする。
それよりも先に、次の手を打つ紺。影の一部が今度は蛇の顔を形作り、親戚達の背後から出現した。その姿は、床全体を覆うほどにとてつもなく巨大だ。大蛇の口が縦に大きく裂けるようにして開かれ、獲物を呑み込みにかかる。
惨めな絶叫が部屋中を埋め尽くした。
その直後、どこからかパトカーのサイレンが鳴り響いた。続いて、スーツを着た大勢の男達が家の庭から入ってくる。どうやら、全員が刑事や警官のようだ。
「貴様ら、動くな――って、何だこいつはっ!?」
刑事達が驚愕するのは無理もない。
武装した男達が全員、捕縛されている。さらに、巨大な蛇のような存在がとぐろを巻いて部屋で蠢いているのだ。現実から乖離した光景だった。
「遅かったのう。片付けてしもうたぞ」
「これはあなたがやったんですか。相変わらず、規格外な力ですね」
既に顔見知りであることを匂わせながら、若い男性刑事が呆れの滲んだため息を吐く。紺の頭に生えた狐の耳や、二本の尾を見ても特に動じた素振りを見せていない。
「それで、犯人はどこに?」
「ここじゃ」
紺が指を鳴らすと、大蛇が口から親戚達を吐き出した。全員、恐怖で気を失っているらしい。
「命に別状はない。子どもの前で人を殺すのは、気が進まんかったからの」
「まあ、無傷で逮捕できるのなら、それに越したことはありませんが。くれぐれも無茶は慎むよう、電話で念を押しましたよね? それなのに、一人で誘拐犯の拠点に乗り込むだなんて」
「息子の身が心配だったんじゃ、仕方があるまい。それに、いつも捜査に協力してやっておるのじゃから、これくらい許すがよい」
刑事の小言を軽くあしらい、紺は真之の前にしゃがむ。同時に、彼の身体を掴んでいた影の手が消えた。
「真之。怪我はないかえ?」
そう気遣いながら、紺が真之の手足を縛っていた縄を解く。そこで、手首に刻まれた煙草の焼きごてに気づいた。まだ新しい火傷の痕は、冬の冷気に触れるだけでも痛む。
「これはっ! あやつらにやられたのかや。待っておれ、今治してやるからの」
怒りを顔に滲ませた紺が、手のひらを火傷痕にかざす。じんわりと温かい熱が真之の手首を包み込んだ。
身の安全を実感した途端、彼の目から涙が雫となってこぼれ落ちる。
「紺さん……」
「もう大丈夫じゃ。お主を苦しめていた者は、あの通り。後は警察に任せるとしよう」
「僕は、生きていていいんですか」
大人達に存在する意味を否定され、本音を吐露する。
「僕は、他人に迷惑ばかりかける疫病神だ、ってオジさんが言っていました。生きる価値はない、って。紺さんもすぐに嫌になって、僕を捨てたくなる、って……」
ポツリ、ポツリと抑揚のない声が、口からこぼれ落ちていく。
今の真之は、大人を信じられない。愛情が怖い。自分の生きる理由がごっそりと抜け落ち、瞳から気力の光を奪われている。先日会った結衣や大和のような存在価値があるわけでもないのだ。
いっそ、ここで死んでいればよかったのではないか――
「馬鹿者」
真之の絶望の沼に浸かった声を、紺が遮る。彼の耳元に優しく囁きかけ、豊満な胸に頭を抱き寄せてきた。
(あ……)
芳潤な果実にも似た甘い香りが、彼をそっと包み込む。紺と同居をし始めてから何度も嗅いだ匂いで、そのたびに胸が高鳴っていた。それが今は不思議とヒビ割れた心に染み渡り、気持ちが落ち着いていく。
「お主は今ここにおる。ワシがお主を必要としておる。生きていてほしいと願っておる。それではダメかや」
「でも」
「『でも』はない。お主はずっとワシの子じゃ。傍にいてたもれ」
「う、うぅ……あぁぁっ!」
感情が堰を切って流れ出し、喉いっぱいに泣き叫ぶ。
親の愛を知らずに育った少年が、大人に存在価値を認められる。一一歳になってようやくのことだった。
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