第6話 神様、イモウト始めるってよ

1.


 帰りの車の中でも、行きと同じようにはしゃぐイリューシュ。彼女をバックミラー越しに見ていると、さっきの愁嘆場はなんだったんだと思えてくる。

 ミルが後ろから話しかけてきた。

「運転免許って、どうやってもらうんですか?」

 ほとんどの希望者は自動車学校に通ってから試験を受けることを教えると、こころなしかミルが震え始めたように見えた。

「学校、ですか……」

(あ、トラウマに軽く触れちゃった?)

 助手席の津美零が、合宿で取れることを付け加えてくれた。安堵した表情のミルに、どうして免許が欲しいのかと尋ねる。

「このお仕事を長く続けるなら、わたしが運転しなきゃいけない時もあるかなと。それに、雨の日は自転車通勤も大変ですし」

 ああ、そうか。プロジェクトが終わっても、臨時職員として市役所で働き続けるっていう選択肢はあるのか。魔界に帰らないのなら。

 一方で、別の思い付きを述べる者もいる。

「そうだな。わたしを送迎するには、車でないとな」

「ほんとに貴族のお姫様なんだね」

 と津美零は笑っているが、翔一は愛想笑いに留めた。最近、ちょっと疑問を感じ始めているのだ。

 でも、ここでそれを触れると、さっきの別れの場面に触れざるを得なくなるような気がして、茶化すほうに逃げた。

「今は高貴なお人も運転免許持ちだったりするぞ?」

「そうなのか?」

「例えば、この国のさるやんごとなきお方とか。実は結構なドライビング・テクニックの持ち主で、若い頃、避暑地で護衛の車をぶっちぎっちゃったっていう伝説まであってさ」

 津美零も乗っかってきた。

「そういえば中東の王様、戦闘機のパイロットやってなかったっけ?」

「アグレッシブだな」

 考え込み始めたイリューシュと、別のセレブの話をし始めた津美零とミルと。女の子ならではの姦しさを乗せて、車は走る。我らがホームベースへと。



 仕事を終えて、ミルの家にお呼ばれに行ったら、リビングのテーブルに雑誌が1冊乗っていた。取り上げてパラパラとめくると、どうも魔界の女性誌のようだ。

 書いてあることは不明だが、内容はよく分かる。さまざまなタイプのイケメンが思い思いのポーズをとった写真が並んでいるのだから。

「こちらとあんまり変わんないな」

 角とか尻尾が生えてるのもいるけど。

 そこへ、津美零が来た。雑誌を見せると、さすがお年頃、熱心にチェックを始めた。

「菱さんはどれがタイプ?」

「んー」

 一声うなったっきり、返事がない。こちらをチラチラ見るだけで。

 会話で気付いたのだろう、ミルも調理の手を休めてこちらに来た。

「ミルさんのタイプは?」

 津美零が差し出した紙面をつらつら眺めて、サキュバスはにっこり笑う。

「わたしを虐めない人です」

「それ写真じゃ分かんないよね?!」

「ドモドモドモー」

 とヴィッサリオも来た。彼は即答。

「ワタシはこのコがコノミデス」

「そっすか……」

 やっぱり『ヴィッサリオのお仕置き』って……

「あれ? イリューシュは?」

 今日は外で食べてくると言って街へ消えたそうだ。やっぱりダメージがあったんだろうな、あれ。

 気がつくと、津美零が翔一の顔を見つめていた。

「イリューシュちゃんと、何があったの?」

「何も無いよ」

 『俺が』何かあったわけじゃないからな。

 だが、ヴィッサリオの手が翔一の肩に置かれた。

「翔一サン、ラグーとのあいだに、なにかあったんデスネ?」

「ラグー? ああ、あのイケメンの名前ですか」

 視線が集まったが、説明をまとめるためもあって、夕食後ということにした。



「――というわけなんだけど」

 説明を終えると、津美零は翔一ではなくヴィッサリオのほうを向いた。

「出待ちで俳優さんにフラれたファン、じゃないんですよね?」

 そう問いかけられても、老紳士は目を閉じ、語り出さない。ミルも何か確実に知っているような顔つきだが、父が話さないことを自分が言い出すのをはばかっているのだろう、やはり落ちつかなげにうつむいている。

 食後のコーヒーがおおむね消費されたころ、ようやく沈黙が破られた。

「彼女自身が話すベキデスネ」

 これはやはり、極めてプライベートな話題ですから。ヴィッサリオはそう結び、津美零と翔一は不満ながらも受け入れざるを得なかった。


2.


 土曜日。ミルは翔一たちとホームセンターに来ていた。あることを確かめに。

「これくらいですかね?」

「ふむ。どれ」

 イリューシュが柄の端を掴んで持ち上げると、軽々と上がった。

「なんだ。大したことないな」

「……なにやってんのシャベル振り回して」

 呆れている津美零に説明しながら、カートを押す翔一についていく。

「このあいだ見たゾンビもののアニメで、中学生の女の子があれを振り回して戦ってたんですよ。けっこう重そうだったから、どのくらいかなって」

「鍛え方が足らんな、あの娘は」

「ツッコミどころはそこなの?」

 シャンプーのコーナーに目を付け、吟味を始めた津美零が笑う。

「男子がいればいいのにな、あれ」

「やっぱり力仕事ができて、頼れるキャラが欲しいですよね」

 その時、翔一が初めて口をきいた。

「そうかな? 男なんていらないと思うけど」

 イリューシュもシャンプーを手に持って眺めていたが、カートに入れながら反論を始めた。

「お前はあれだろ? 萌えアニメに男キャラなんていらないっていう」

 翔一は首を振ると、カートを押し始めた。

「あれに男が混ざるとどうなると思う? トイレも風呂も別になるし、寝る場所だって別になるだろ? つまり、そっちで余計な苦労が増える」

 イリューシュに反論のいとまを与えず、翔一は前を向いたまま続ける。

「それに、男が絡むと修羅場になる。足の引っ張り合いをしたり、男にいいとこ見せようと思って無茶したり。そりゃ、ドッキリハプニングシーンはできるけど」

 翔一はトイレ用洗剤をカートに放り込みながら、その無機質なパッケージに向かってつぶやいた。

「サカるだけだよ、現実は」



「なんなんだ、あれ」

 イリューシュがにらんでいるのは、ここにはいない翔一だ。

 ホームセンターを出た後、翔一は同一敷地内にある衣類の量販店へ行くと言って別れた。その後ろ姿があまりにもせかせかしていたので、不審に思ったのだろう。

「サカるだけだなんて、心が歪んでるな」

「ああ、そっちですか」

「まあ確かに、チームに異性が混ざると厄介なこともあるけどね」

(……もしかして、このメンツのことかな)

 そんな眼で見ると、津美零はやはり翔一が気がかりなようだ。ミルは気付いていないふりの笑顔を作って、

「追いかけましょう」

「え?!」

「翔一さんを。あれは、なにか隠してる動きです」

 イリューシュもにやりと笑い、同意した。しようがないなと言いながら、いそいそと量販店に足が向く津美零。その背中を見ながら、イリューシュと二人で忍び笑いをする。

 目的地に、目指す男の姿は見当たらなかった。

「スーパーのほうに行ったんですかね?」

 ミルがスマホを取り出そうとして、

(あ、いけない。津美零さんに電話させなきゃ)

「? どうしたの?」

「あ、ああいえ、電話かけてみたらどうですか?」

「――ふむ、出ないな」

(空気読んでくださいよイリューシュさん!)

 思わずそう叫びそうになって飲み込んだ時、ミルたちから少し離れたところで騒ぎが持ち上がった。

 見れば、中学生くらいの歳恰好の少女と、中年女性が言い合いを始めている。ミルは少女のほうに目を引かれた。

 彼女はTシャツに短パンという至ってラフな格好。それよりも目を引くのは、容姿だった。ほっそりした長身に黄金色の短髪で、濃い小麦色の肌に碧眼という、衣装に対して不釣合いと感じるほどの派手さだったのだ。

 その形のいい唇が動き、やはりやや幼さの残る声が聞こえる。

「だーかーらー、お兄ちゃんと一緒に来てるって言ってるじゃないですか!」

 一方の中年女性は、外見を描写するまでもないだろう。片腕に『青少年健全育成協会』と大書された腕章をはめているのだから。

「で、お兄さんはどこにいるの? 呼べないの?」

「ケータイが無いから呼べないってなんべん言ったら――あ! おにーちゃーん!」

 少女の視線につられて見れば――そこにはなんと、翔一がいた!

 唖然呆然で見つめる3人にちらっと視線をくれたあと、翔一は悠然と中年女性に近づいて、仁王立ちした。

「この子の兄ですが」

「……本当に? 失礼ですけど、外見があまり……」

 似ていないと言うのだろう。傍で聞いているミルですらそう思うし、同時に、中年女性の言い草と探るような視線に腹が立ってきた。

 しかし、翔一は動じない。

「母親が違うんです。いろいろあって、実家を出て一緒に住んでるんですけど?」

 そこまで真顔で言われて、家族の事情にそれ以上踏み込む権限はこの女性には無いのだろう。明らかに勢いが鈍った。

 そして結局、独りでフラフラしないようにと捨て台詞感バリバリのお小言をくれて、去っていったのだった。

 少女を連れて、翔一がこちらへやって来た。予想を超えた展開に固まるミルたちの内心を知ってか知らずか、年上らしい声が発せられる。

「ほらユン、昨日話した人たち。ごあいさつして」

「はい! 初めまして、妹です!」

 と言われても、まだ衝撃が抜けきっていない身で、頭が思うように働かない。そして不本意にも、先の女性と同じ疑問を口にしてしまった。

「……本当に、妹さん?」

「ウソです!」

「嘘かよ!!」

 イリューシュの怒りの一撃(物理)は、少女ではなく翔一にダイレクトヒットしたのであった。



 お昼に入った飲食店で、衝撃第2波が襲ってきた。

「ユン=シュトーカース・ウルリッヒ・ズィーベヌンタハトィーヒです。よろしくお願いします。あ、ユンでいいよ?」

「……神族?」

 はい、とにっこり笑う少女。プロジェクトに参加するため、神界から派遣されてきたのだと言うではないか。

 自分がこんなに舌が回らないなんて。ミルは動転のあまり、注文を取りに来た店員にペペロンチーノとうまく言えず、吹き出されてしまった。

「んー、お兄ちゃん、これ、どういう料理?」

「それはアサリのスープパスタの、白いスープのほう。こっちが赤いほう」

「あ、じゃあ白いほうで」

「俺は赤いほうで」

 仲良く注文しあう兄妹――いや、ウソだったなそういえば。

 ミルはお冷を一気に飲み干すと、

「もう、びっくりさせないでくださいよ翔一さん」

「そうだよ! よくまああんな口からでまかせを言えるねスラスラと」

 津美零の呆れは、次の翔一の返しで加速する。ミルとイリューシュの困惑も。

「ん? 一緒に住んでるけど?」

「分かった」

 頭を一つ振って、イリューシュがそう言って立ち上がると、何かの構えを取った。

「貴様、翔一じゃないな!」

「お前は何を言ってるんだ」

 彼の説明を要約すると、昨日帰宅した時、玄関前に彼女が立っていたため事情を聞いて家に上げ、住まわせているとのことだった。

 お冷を飲んで気を取り直したイリューシュが、少女の細い肩に手を置く。

「えーと、ユンだったな?」

「はい」

「何かひどいことされてないか?」

「いや、マルくんがいる場でそんなこと訊いてもだめだと思うよ?」

 そういう津美零の表情はすごく複雑なもの。でも、ユンは笑いながら、何もされていないと断言した。度胸があるというか、何も考えていないのか、判断がまだできない。

「お兄ちゃん、意外と紳士だし」

「あの、ユンちゃん? もうお芝居しなくてもいいんだよ?」

「お芝居じゃないですよ? ねー」

 横から問われて、うんうんとうなずく翔一。

「そういう設定を守ったら住ませてくれるって約束だから」

 ……もう、なにも言うことはない。イリューシュ以外は。

「うん、確かにお前は翔一だ」

「だろ?」

「この真変態め……」

「マヘンタイ?」

 真の変態だと説明されているあいだに、料理が来た。店員が笑いをこらえている気がしたが、気にしない気にしない。

 食事が和やかに進みかけた時、連絡が入った。

「ああ、現われました……」

「どこ?」

 地名を口にしたら、翔一と津美零が渋い顔をした。

「遠いな」「そうだね」

 ミルが明日田に電話を始めたのを止めて、翔一がカーシェアリングのスポットを探す。車を調達して、一刻も早く現場に行かなきゃいけないなら、このほうが速いだろうからと。


3.


『今度こそ、大丈夫なのかな?』

 ムスタの苛立ちはもっともだが、エニラとしては、さあねぇとしか言いようがない。オーガナイザーは彼女ではなく、トキの管轄なのだから。

「ご心配なく。今回の顕獣人がダメだったとしても、彼らはいずれ立ち枯れますよ」

 そのために、職員は実務能力の低い者を選んだのだ。魔族と神族も結果として、能力的には大したことのない者が選ばれた。

 兵殻外装が想定外の使われ方をして成果を上げているのが不安要因だが、戦術的勝利を積み重ねても戦略的不利は覆せない……

「それより、"穴"は見つかりましたか?」

 ムスタの任務は、欲望の塊を収める器の製作と、それを飲み込むことができる者の捜索である。ヒトか魔か神か、いずれの種族かもまだ定かではないため、単に穴と仮称されている。

 エニラが余裕を見せているのは、既にヒトの候補者を探し出して確保してあるからなのだ。

 画面に映る彼の渋面で、そちらもはかばかしくないことがよく分かった。

『いずれ近いうちに、見つけ出してみせるさ』

 捨て台詞に近い言葉を最後に、通信は切れた。

 黒い画面を見つめ、エニラはあごに手を当てて思案する。

 あいつ、どうも動きが鈍い。何か探る手段はないものか……

 その時、部屋の戸がノックされた。面会希望者が来たのだ。彼女は営業スマイルを顔に咲かせると、立ち上がって出迎えた。

「ごくろうさま、ヴィッサリオさん」


4.


 幸いにもミニバンがあったのだが、全員乗車を確認したあと、翔一ではなく津美零が緊張して運転を始めた。

 どうやら、なんでもやる課に異動になったことで車を運転する必要が生じたため、練習がしたいらしいのだが……

 翔一は助手席に乗ってくれと懇願されて、『左折の時、左後方を注視する役』である。

 そして、後ろが騒がしい。

「イリューシュちゃん、この穴なに?」

「"ちゃん"て……まあいい、ドリンクホルダーだ」

「え?! 飲み物が出てくるの?」

「出ないぞ」

「えーなんで?」

 ……意外と物を知らないな。翔一は後ろの会話を聞きながら思った。それよりも、津美零の運転がちょっと危なっかしく、助手席の翔一としては前方を注視せずにはいられない。

「菱さんって、あんまり車乗らない?」

「今話しかけないで」

 オーケー、把握したよ。

 だが、そこで口を出すのがお貴族様である。

「翔一、運転を代わってやったらどうだ?」

 それは津美零に対してちょっと失礼だろう。そう言おうとしたら、

「え?! お兄ちゃん、運転できるの?」

「……ユンちゃん、人によっては怒られるよそれ」

「えーなんで?」

 ミルが説明すると、神族の少女はにぎやかに笑った。

「ゴメンゴメン、免許持ってるってすごいって意味だったの」

「普通免許は取るのそんなに難しくないぞ。なあ菱さん?」

「今話しかけないで」

 オーケー、大変だね。

「ユンのお姉ちゃんが、取るのすごく苦労してたから。お兄ちゃん、頭いいんだね」

 意味が分からず仔細を尋ねたら、驚愕の事実が判明した。学科は教本を丸暗記して、教官の前で暗唱を披露し、完璧にできたら実技に移行するのだそうだ。

「……どこの戦前日本だよそれ」

 神様は完璧でなければならないらしい。

「大変だね……ユンちゃんも神様なんでしょ?」

「ううん、ユンは為リ損ネだから」

 穏やかでない発言に驚いて振り向くと、そこには屈託の無い笑顔があった。

 だが、本人がどんなに笑顔でも、リアクションに困ることには違いない。イリューシュが咳払いをしたのは、話題を無理やり変えるためだろう。

「なかなか着かないな」

 それは、津美零が法定速度をきっちりキープして走行しているからなんだが……翔一はそれに言及するのがなんとなくはばかられて、別の話題を思い出した。

「なあ、魔法使いさんよ?」

「なんだ?」

「ワープ魔法とか無いのか?」

 問われて、魔法貴族はシートベルトの下の薄い胸を反らした。

「あるぞ」

「だったら――」

「相手にかけるとあら不思議、どこかの場所へ強制転移だ」

「攻撃魔法じゃねぇかそれ?」

 先日バンカイシテェに一度負けた時、その魔法で奴を強制転移させて難を逃れたらしい。

 そんなこんなで到着した場所は、市営住宅団地だった。

 規制線の手前で車から降りる。

「戻ってくるまで適当に流しといて……は無理か」

 津美零の顔はこわばっていて、これ以上運転したくないことがよく分かった。

「行くぞ、翔一」

 促されて、運転席に向かって片手を上げると、黄色いテープをくぐった。

 だが、津美零の固い表情の理由がもう一つあることを、彼は理解していない。



 本人の強い希望により、イリューシュが変身した。

「さて、どこにいるのかな?」

 団地の端にある広場に立ってぐるりと見渡すが、4階建鉄筋コンクリート造の建物が3棟並ぶそこには、それらしき姿も音も確認できない。

 首をかしげていると、ユンが手を挙げた。

「じゃあ、ユンが調べてくるね!」

 止める間もなく、彼女の背中に一対の翼が現れる。羽ばたき一つして、ユンは飛び立って行った。

 だんだん小さくなるその姿を見送りながら、イリューシュがつぶやいた。

「……なあ」

「ん?」

「車、いらないんじゃないのか? あいつら」

「確かに」

 小さく笑い合って、ミルは手前の棟、イリューシュはその向こうの棟を捜す事になった。

 周囲を警戒しながら軽く走って、棟の出入り口に達する。用心しつつ踏み込むと、さすが鉄筋コンクリート、中は春の陽気とは無関係な涼しさだった。

 住民は避難したのか、しんと静まり返る棟内を、少しずつ進む。

(心臓によくないな)

(耳元で囁くな)

(大声出せないじゃん)

 翔一が言い返した瞬間、着信音が鳴り響いた!

「きゃあ!」

 バイブレーションも加わってかわいい悲鳴を上げたイリューシュに謝りながら、体を探る。

「あれ? スマホどこに入れてたっけ?」

「わぅバカ! く、くすぐるなぁ!」

「ああ、尻ポケットか」

「ひぁ?! 触るな真変態!!」

 なかなかにプリッとした感触を楽しむ暇もなく、スマホを取り出して耳の部分に当てる。役所の同期からだ。

「もしもーし」

『ああ、やっと出た。マルくん、今どこ?』

「市営住宅」

「?! もしかして仕事?」

 友達がいると嘘をついて、遊びの誘いを断り、電話を切った。

「ごめん、お待たせ」

「だから触るなってば!」

「しまわせろよスマホ。つかお前、いいケツしてんな」

「耳元で、じゃない! そういうことを――!」

 大騒ぎは吉と出た。階の向こう端に、顕獣人が降りてきたのだ。

「見えるかイリューシュ」

「ああ。どうやらキリテェってところか」

 イリューシュは背負いの双剣を抜いて前進した。

 一方、ミルは緊張の極みにいた。

 無人の集合住宅。はっきり言って、怖いのである。昼下がりで明るさ的には十分なのが救いだ。

(ううう、早く翔一さんたちと合流したい……)

 いっそのこと、時々飛び回っているのが見えるユンを呼ぼうか。

 そのユンの声がした。

「ミルちゃん! 上の階に顕獣人がいるよ! 気をつけて!」

 続いて、悲鳴とも感嘆ともつかぬ声が上がる。

「うわ足速っ!」

 ダッシュしてくるということか。ミルは耳を澄ました。何かが壁にぶつかる音に続いて降りてくる足音がだんだん強まり、心臓の鼓動もシンクロする。

 やがて姿を現した小柄な顕獣人は、奇妙な姿をしていた。脚が異様に太く、肩も盛り上がっている。

「なんの欲望なんだろう……」

 そうつぶやく間もなく、顕獣人の目が光った!

「ウヲヲヲジャマスルナ! ジャマスルナ!」

「そうはいきません!」

 と言い放って構えを取ろうとしたが、敵が先んじた。

「アタシハハシリテェンダヨォォォォ!」

 そう叫びながら突進してきたのだ!

 シンプルな動きゆえスピードが乗り、また狭い廊下であったため、ミルは避けそこねた。

 顕獣人の盛り上がった肩で一撃食らい、壁に背中から衝突する。息が一瞬詰まって目の前が暗くなった。

「ミルちゃん、大丈夫?」

 ユンが外から壁を乗り越えて側に降り立った。後頭部も打って痛い箇所をさすりながら、大丈夫と何とか答える。

「け、顕獣人は?」

 尋ねる言葉に、衝突音が重なった。ユンの陰から顔を出して見れば、顕獣人はこちらになど目もくれず、向こうの端の壁に激突していたのだ。

 いや、それをブレーキ代わりにしたのだろう、何事か叫びながら階段を駆け降りていく。

 その光景を2人して呆然と見つめ、

「……ひたすら走りたい、って欲望なんだね」

「走るのは構わないけど、あの肩で突撃はちょっと迷惑だね……」

 なんて言ってる場合じゃない!

「翔一さんに連絡しないと」

「あ、イリューシュちゃんとお兄ちゃんは、別の建物で戦ってるよ」

 その報告に少し考えて、やはりこちらの状況を連絡しつつ、ハシリテェを追うことにした。



「――うん、分かった。こっちはキリテェだ。片付いたらそっちに向かうよ」

 スマホをまたしまって、

「聞こえたか?」

「ああ。しかしこいつ、強いな」

 一旦距離を置いて見据えたキリテェは、前腕が両方とも刃物状になっている。切れ味は今一だが、当たれば痛いことに変わりはない。

 事実、翔一の身体の各所に打撲以上切り傷未満の負傷がいくつかできていた。

(参ったな。明日仕事なのに)

 翔一の心の声は聞こえていないだろうが、キリテェは何度目かの雄叫びを上げた。チャンバラができるのが、うれしくて仕方がないらしい。

「フォォォォ! ミッツ! ミニクイウキヨノオニヲォ! タイジテクレヨウ! タオタロウ!」

「さて、どうしたものか」

 そうつぶやくイリューシュに、翔一は指示を出した。ある予想に基づいて。

「もちろん、攻撃だ。押して押して押しまくるぞ」

「なぜだ?」

「イリューシュ、お前、いくつだっけ?」

「20歳だ」

「だからだよ。来るぞ」

 顕獣人が襲いかかってきた。切り結ぶばず、太刀筋を見切ってかわし、反撃を加える。

 しばらく続けていると、翔一の予想が当たったようだ。キリテェの足運びが乱れ始めた。腕を振り下ろすとワンテンポ間が空くようにもなって、そこをイリューシュが斬り上げると胴に直撃し、仰向けに転倒してしまった。

「やっぱりか」

「説明しろ翔一」

「お前、あいつが叫んでた言葉の意味、分かるか?」

「いやさっぱり。何かの台詞のようだが」

 このあいだの『成敗』にツッコミを入れた時も分からなかったしな。翔一はようやく起き上がって肩で大きく息をつく顕獣人を見据えながら解説を続けた。

「あれはな、時代劇――チャンバラがクライマックスに入る歴史劇の台詞だ。今からそうだな、30年以上前のになるか」

「それで?」

「時代劇の台詞を叫んでチャンバラがやりたいなんて、10代20代の若者じゃないだろ? 若くても50代、下手すりゃ70、80のじいさんさ」

 体力切れか。そう納得して、イリューシュは追い討ちをかけた。よろよろのキリテェにショルダーチャージをかまし、再転倒させる。

 3歩下がって納剣し、呪文の朗誦が始まった――

「ちょ、ちょっと待て!」

「なんだうるさいな」

「ここで撃つなよ! 壁に穴が開いちまうだろ!」

 市職員として、市営住宅に被害を与えるのは承服できない。そう力説すると、不承不承ながらも納得してくれた。

「仕方がない。別の魔法にしてやる」

 呪文の名も教えてもらって仕切りなおした朗誦は、確かに歌詞もリズムも違う気がする。

 歌い終えて、イリューシュは剣を片方だけ抜いた。そしてなんとか立ち上がった顕獣人のもとに走り寄り、

斬馬剣キルマミーシュ!」

 顕獣人を真っ向から唐竹割りに斬り下げた!

 殻がぱっくり割れて、前のめりに倒れたのは、やはり男性の老人だった。欲望の塊を回収しつつ、イリューシュに尋ねる。

「なあ、この魔法でやりゃいいんじゃないか? これから」

 ちょっと顔を背けながら塊を拾ったイリューシュは、首を振った。

「大上段に振りかぶるから、大きな隙ができて嫌なんだ。それに――」

「それに?」

「このような者の始末に剣を振るうなど、剣のけがれだ」

「お前さっき散々斬りつけてなかったか?」

 魔界貴族の価値観はまだよく分からない。

 それはとりあえず置いて、ミルに電話をかけた。

「こっちは片付いたよ。今どこ?」

『まずいです! このままでは規制線の外に逃げられちゃいます!』

「よし、追うぞ!」

 イリューシュがそう叫んだ時、ユンの大声が聞こえてきた。あれは――

「ヴァイス・コプシュトース!」

 翔一の身体がイリューシュから剥がされて宙を舞う、いや引っ張られていく。

「こら! 勝手に離れるな!」

「俺に言うな! あっちに言えよ!」

 魔界貴族の猛抗議にも為すすべがなく、平たいままの翔一の体はついに住宅棟の4階から空中に躍り出た。

「うひょひょひょ、怖ぇぇぇ!」

 高所恐怖症というわけではないが、自分の意思など無関係に空を飛ばされてるわけである。変な声も出ようというものではないか。

 その平ぺったい空中旅も、終わりが来た。飛翔中の宣告主――ユンの身体に装着されたのだ。第一印象は終着の安堵より、男らしい感想だった。

(肉が薄いな……ほんとに中学生みたいだ)

 見た目どおりの痩身を包まれて、ユンが素っ頓狂な声を上げる。

「きゃーお兄ちゃん! あったかーい!」

「ああ、そう……そんなことより、敵は?」

「わ! 声が耳元でする! キモーイ!」

「もういいからそれは」

 ユンが指差した地点に、顕獣人と、かなり離されてミルの姿が見えた。確かに規制線まであと少しのところまで来ている。その敵に向かって、ミルは翼を羽ばたかせた。

「おー、空を飛ぶってこんな感じかぁ」

 ユンの飛翔のほうがミルの疾走より速い。風切り音がうるさくて、耳を退避させねばならないほどに。

 その耳に、翔一を呼ぶユンの声が聞こえた。

「今からあいつの動きをしばらく止めるから、そしたらV.G.F.って一緒に叫んでね」

 了解と答えると、続いてユンが歌い始めた。イリューシュには少し及ばないが、朗々たる美声だ。

 歌い始めてしばらく、顕獣人に変化が起こった。脇目も振らず走り続けていたのが突如立ち止まり、くるりとこちらに向きを変えたのだ。まだちょっと遠くて顔の詳細ではよく分からないが、明らかに力が抜けている。

(ああ、もしかしてこれが明日田さんの言ってたチャントってやつか?)

 神を讃える歌による法悦で、敵は脱力しているのだろう。

 そこへ歌い終わったユンが話しかけてきた。

「さあ、いくよ、お兄ちゃん!」

「あ、おう!」

 距離にして目測で100メートルくらい。空中で何をする気なのだろう。それを訊き忘れたことを、翔一はあとで後悔することになる。

「V.G.F.!」

 2人で唱えると同時にぐるんと宙返り。そして、ジェットコースターでもありえない急降下が始まった!

「あっはははははははははいっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

「――ってお前これ頭突きじゃねえかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 妹のダイビング・ヘッド・バットに付き添う身にもなってくれよぉぉぉ!

 数える気にもなれない長くも短い恐怖の時間のあと、頭頂部に衝撃が来た! 続いてグシャッというナマモノを叩き潰す不快な音が聞こえ、そのまま地面に激突するかと思いきや、ユンは両手を地面に突っ張って、すぐに前回り受身をした。

「イェイ! 撃破だぜ!」

「……ダブルピースはいらねぇだろ」

 神界で流行ってんのか? それ。

 変身を解除されて振り向けば、

「あう……ユン、拾ってくれ」

「え? ……あはは、りょーかい」

 顕獣人にされていたのは、皺くちゃの老婆だったから。

 ようやくたどり着いて息を切らせているミルのところへも行けなくて、翔一は大きく息をついた。

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