239.still search my pieces in tears heart

 非常口の向こうはひどい雨だった。

 

 夏を過ぎた後の師団の敷地内は雑草で溢れ返り、先月の草むしりの業務を、あざ笑うかのようだった。

 

 屋根から強い雫が垂れ下がる軒下から、裸足のままリディアは外に駆け出す。

 

 自室についてすぐ脱いだ法衣、今はただのTシャツだった。

 雨は布地を濡らし、下着とともに肌にはりつき冷たさを与えてくる。激しい雨のせいで緑や泥の匂いもかき消されていた。


 リディアの足先は、師団の裏庭から敷地の端、森の中にある絶壁へと向かう。


 膝丈まであるシャツは、泥と草きれにまみれていた。足も身体も寒さで感覚がない。ただかすかに身体が震えていた。そして頭だけが、まだ興奮で熱かった。


 足元が断崖の境界線で止まる。


 外はまだ暗く、地面のこの先も何も見えない。 


 雨がリディアの頬を打ち付ける、涙も共に流れているのかわからなかった。


(……先輩の命のほうが大事)


 リディアにも、多分団員にとっても、当たり前の事実だ。


 それでも、それが私情だと思われたのであれば。


 ――もし、ディックが、シリルの命が、自分の命と引き換えに助けなければいけない状況が生まれたら――自分は迷わないだろう。

 戦時であればなおさら。彼らの戦力は計りしれないほど強大で代わりはない。

 そして、人としても――大事な友人だ。平常時でも、きっとそうする。


 ましてや相手がディアンならば――。


 そこまで考えてリディアの左胸に、鋭い痛みが走る。息が詰まる、今度こそ涙が頬を伝う。

 息をすることさえ苦しいほど胸が痛い。


 ――私情だ。


 死んでほしくないと思った。


 彼を失うことは痛手だ、その言葉は何よりも、誰に対しても強い説得力を持つのに、そこにリディアの思いが入る限り、私情になる。


「ばかだ、なぁ……わたし」


 恋を自覚して、同時に失恋した。


 何も望んでいない、思いを返してほしいわけじゃない、特別視してほしいわけじゃない。でも、たぶん、気づかないままでよかった。


 彼にとっても、持たれないほうが良かった感情。


 雑魚石スクラップを握りしめたまま、手の甲で目をこする。思いのほか、涙が後から後から溢れてくる。押さえてもとまらない。


 石の破片がパラパラと谷底へ吸い込まれていく。


(――これは、私だ)


 ディアンに貰えたなんて思い、勝手に自分のすがるものにしていた。


 でも違う。

 自分と同じ石だから、それにすがりついて自分を慰めていたのだ。雑魚石と呼ばれるクズ石。

 

 ――壊れ方も一緒だった。

 

 自覚して惨めで壊れた恋と一緒だ。赤黒く更に醜い欠片となった、醜さも一緒。


 彼のことを、崇めていたわけじゃない。助けられたから好きになったわけじゃない。


 ただ彼は――誰よりも努力していた。


 作戦承認の前にも検討に検討を重ね、自己の魔法や武道の鍛錬も重ねていた。本番前には基本の魔法を必ず見直し、もう一度原点から再解釈をしていた。慢心することがない、誰よりも己に厳しかった。 

 

 それを見ていたから――。

 いつの間にか、いつも見ていた。目標にしていた。背中を追い続けた。

 

 だから、自分はまだまだだと思っていた。彼ほどの人があれ程の努力をしているのだ。だからもっと努力しなくちゃいけない。そう思ってずっと見てきた。

 

 彼のことをチートだとか、お強い団長様には敵わねえとか、強くて憧れると言う人たちを眺めてきた。


 その人達とは、自分の感情が違うと思っていたわけじゃない。

 

 ――でも”好き”という感情、それが入れば思い入れる理由は霞む。好きになれば、目も曇る。


 “好きだから”、それで終わってしまう。


(……でも、砕けた)


 最初からこの思いが叶うなんて思っていない。つり合うとも、横に並べるとも思っていない。


 ただ、盾になれると思っていた。時間稼ぎの捨て駒でいい。戦闘態勢を整えるまでの盾。一瞬でいい、それだけの存在でいい。


 胸に痛みが走る。それさえも許されなかったのだろうか。


 リディアは顔をあげた。

 雨に濡れた視界の端に、グレイだけの世界の地平線から橙色がわずかに覗く。


(……でも、まだなれる)


 私は、自分は――シールドだった。

 

 雨足が弱まる。

 空にほんのわずかな、明星が見えた。リディアの胸の中にほんのりと僅かな温かみが戻る。


 まだ、離れろと言われたわけじゃない。出て行けと言われたわけじゃない。

 思いは捨てる。

 でも、盾くらいは、まだなれる。


 ――それでいられるくらいは、許されるはず。許して、ほしい。


 好きではいられない。でも側にいることはできる。盾になれる。彼をかばうことはできる。それだけ、そこにいられる理由でいさせてほしい。


 雨に打たれすぎて感覚のなくなった身体、胸の痛みも少しずつ消えていく。頬に伝う涙も雨に紛れて落とされて、胸の痛みも雫とともに流されていく。


 痛みも思いも雨に流されて、そして消えるのだろう。


 ――最後に残った感触。

 唇と唇がふれあった感覚、彼の唇に灯った熱だけが、最後に握り返された指の感触だけが、ほんの少しの思い出。


 あれは救命処置。でも胸の奥底にそっと入れておく思い出に、それだけを思い出にすればいい。


 リディアは握っていた拳を開いて、雑魚石スクラップを崖下にぱらぱらと落とした。指先に黒いものが踊り、そして何も見えなくなる。


 雑魚石スクラップは捨てた。クズだったリディアももういない。


 ここにいるのは、リディアだったなにか、だ。


「もう。――痛くない」


 石も消えて思いも消えた。雨に流されて、胸の痛みも流れた。

 

 すべて流れて消えたのだ。



*砕けた心でまだ欠片をさがしている

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