190.彼の未来

「――リディア?」


 明かりが差し込んで、夢が破られる。起き上がる余裕がない、まだ心臓が高鳴っている。そのすきに、声をかけてきた存在が覗き込んでくる。


(――ひっ)


 声は出なかった。ただ、身じろぎはしたかもしれない。

 多分、怯えた目は見られていないはず。一瞬だけ、伸ばされたウィルの手が空中で止まる、それから指が頬をかすめた後、額に触れた。


「すっげー汗」

「――私」

「寝てた」

「起きる」

「平気なのか?」

「何が――」


 起こした上半身を支えて、背中に枕をあててくれる手。こんな気遣いができる人だったのか。


「電気つけてもいい?」

「――ありがとう、ウィル」


 暗闇の中で彼は半身を振り向いて、少しの間のあとリディアを見つめた後、ドアの方に戻る。

 リディアも緊張する。どうしよう、でも出てしまった声は戻らない。

 額の汗を拭うと、頬も冷たく濡れていた。


(泣いて……)


 ウィルは、気がついただろうか? いいや、見られていないはずだ。


「――ここ?」


 まだ、頭が回らない。言葉が舌っ足らずの気がする。


「第一師団。地下の仮眠室」

「ああ――そう、か」


 ……また、やった。リディアは口を引き結んだ。ここ数年はなかったのに。あったとしても、誰かに見られることはなかったのに。


「ごめん。変なとこ、見せた」

「謝んなよ」


 ウィルは、ベッドの脇まで近寄ってきて、端に腰をかける。


「俺はこんな時だけど、嬉しい。名を呼んでくれたのも」

「ウィル……」


 頬に触れてくる手が顎を持ち、目を細めて近づけてくる顔。リディアはぼんやりとそれを見ていた。

 唇と唇が触れる直前、掠めるほどの距離で、ウィルが動きを止める。


「……止めねーの?」

「――あ、そう、ね」


 リディアは、目を瞬いて、それからウィルを押し返す。


「なんか……調子狂う」


 彼のつぶやきを流す。なんて答えればいいのか頭がまわらない。


「……酒臭い」

「え」


 ウィルはクンクンと匂いをかぐ。


「ビール二本だけ。ディックにもらって。臭う?」

「私が飲まないから」


 匂いに過敏になっているだけなのかもしれない。リディアはしばらく考えて、ああそうか、となんとなく思い出す。


「ディックがここに連れてきてくれたのね。――ディックは?」


 そう言いながらも、まだ至近距離のウィルに眉をひそめる。


「呼び出し。送ってやれなくてすまねーって言ってた。俺が送ってくからいいだろ」

「――近い」


 リディアは答えずに、顔を少し反らせるが、ウィルの距離は更に縮まる。


「酒、飲まないって?」

「うちは、未成年の飲酒厳しかったし。頭鈍るでしょ、ただでさえ魔法が使えないのに」


 どうしたってアルコールは頭の動きを鈍らせる。

 更に自分を弱くしてどうするのだ。少しでも劣る要素を入れたくなかった。


 けれど言ってから気づく、弱音がダダ漏れだ。生徒に自嘲なんて言うことじゃない。


「味、試してみる?」

「変態」


 近づいてくる顔に、言えば若干傷ついた顔。あ、ガラスの心の年代だった。


「調子戻ったのはいいけどさ、結構キツイ」

「そういうのって、女子は引く」


 うわっと、ウィルは顔を押さえて呟く。


「……キスしちゃえばよかった」


 リディアは、口だけを引き結んで黙っていた。ウィルは、ちえっと呟いて顔をあげる。


「わかってるって、つけこみませんよ」


 リディアは、微かに頬を緩めて笑う。


「ウィル、本当に、ありがとう。助かった」


 驚いた顔でウィルはリディアを見つめて、それから軽く引き寄せてぽんっと背中を叩いた。


「俺さ、アンタの負担になってない? なんかあったら言って」

「ある」


 リディアが明言すると、ウィルは動きを止めた。リディアはウィルの肩越しに壁を見つめながら言う。


「教科書忘れて、教師に借りに来んな。普通は友達に借りるでしょ? なんで私に言う?」

「え?」

「あと、チャイムが鳴ってから普通に入ってくる? 遅刻しても何で気にしないの?」


 リディアは、一拍呼吸をおく。


「私、舐められてるの?」


 ウィルは動きを止めて、俯いたままそっとリディアを離す。肩を掴んだまま伸ばされた腕。てっきり、慌てて謝罪をしてくると思ったのに。


「……ふ」

「ふ?」

「……っ、ふ、っく。リディア……! っ、カワイーっ、」


 いきなり吹き出して、笑いだして、何、その爆笑!?


「気にしてんの?」

「ちょ、頬ずり、やっ、離して」


 何これ? なんで、頬擦り寄せてくんの? しかも微妙にジャリジャリして、ヒゲ? ちょっと痛いんだけど!?


「離して、離せっ」

 

 ぎゅっとウィルはリディアを横向きに抱きしめてくる。


「あー猫みてえ。毛、逆立ててる猫」

「は?」

「もしかして、名前呼ぶの嫌がったの、そういうワケ?」


 リディアは、もうヤダ、とつぶやいた。この距離何? なんで覗き込んでくる?

 スキンシップ? 恋人?


「だってさ、リディアほど頑なに名前呼ばないのって、なかなかないし」


 距離のある偉い先生ならともかく、下の先生は普通に生徒を名前を呼んでくるらしい。確かにサイーダも、フィービーも気軽に「ウィル」と呼んでいた。


「――友達みたいになったら、困るから」


 サイーダは、経験もあるし教師然としている。生徒と名前で呼び合う仲だけれど、サイーダは生徒から敬意を示されている。けれどリディアは同年代だし、普通ならば友達扱いされてしまう。


「友達だなんて見てねーよ。誰も――」


 でも、とウィルは言う。


「俺らの仲間、みたいな? 同等扱いしてもらえてねーけど」

「……仲間じゃないけど」

「んでも、女としては見てる」

「それは一番困る」


 サラリと言うな。


「なあ。前に救急箱って言われたの。アンタ何て言い返したの?」

「え?」

「言い過ぎたって言ってただろ」


 リディアは黙る。彼から伝わる鼓動は普通の速さだ。おそらくリディアを女として意識していない。

「そんなこと覚えていたの?」

「教えてよ」


 昔、師団で嫌なヤツに救急箱扱いをされたと言う話。なんで今頃それを持ち出してくるのか。


「リディアのこと、知りたいから」

「……」

「教師だろ。経験談」

「――彼は、両手両足が毒に侵されたていたの。そして私に言ったのよ『早くやれなおせ、救急箱のくせに』っていうから」


 なるべく淡々と告げたつもりなのに、口調には悔しさが混じっていたような気がする。ウィルは真顔だ。同情の眼差しでもないし、非難する口調でもない。案外聞き上手なのかもしれない。リディアも話しやすい。


「だから?」

「魔力がすでに枯渇気味だったのよ。だから『私は救急箱なので、全部治すほどの魔力はありません。治す指を選んでください』っていったの」

「ふーん、でもそれぐらいで言い過ぎになる?」

「……『足はもう神経が死んでいますね。小指はもうだめでしょう、ほら早く選んでください。治せるのは両手だと左右三本まで、でもその間に足の指は壊死してしまうかもしれないですね』とか……私、最低でしょ」


 ウィルは、黙って考え込む。


「そいつ、怒んなかった?」

「怒ってたけど、『怒鳴っている間に治せる指が減りますよ。今ならばまだ両手の指は残せますけど?』って」

「……どうせ全部治してやったんだろ」


 リディアは黙る。どうして読まれているんだろう。


「どうでもいいけど離してくれない?」

「それだけじゃねーだろ。全部白状しろよ」

「相手に言ったのはそれが全部よ」

「他にも嫌なこと言われたんだろ」


 リディアはピタリと口を閉ざす。治癒魔法師がセクハラを受けるのは珍しくない。うち第一師団は、そういうことを訴える部門があったけど、小さなことは報告せずに自分で対処だ。


「言えよ」

「……言わない」

「言わなきゃ離さない」


 この恋人みたいな距離やめてくれないかな。横抱きに抱きしめて頭を撫でてくるの。

 リディアはわざと早口で終わらせる。


「別に。治療に紛れて触ってきたり、男性の――」


 リディアはいいかけて強張った顔でいきなり頭をふる。思い出したくない。


「ごめん。思い出さなくていい」


 ウィルの抱きしめる手に力が入る。……ああ、彼は敏い。


「平気よ。ただ少し――男性の、あれを押し付けられたりとか、たまにあるのよ」


 リディアの強張った声は震えていた。情けない、そんなの大したことじゃない。

 ウィルの手が背と肩をゆっくり撫でてくる。

 どうしてだろう、ちょっと落ち着く。


「リディア。……アンタ偉いよ」

「なにが?」

「ん。よく頑張ってるよ。アンタはもっと力を抜いて――いいんだ」


 ウィルの声音は優しかった。

 緩んだ心にするりと入り込んでくる。男性としてリディアに期待している部分もあるとわかっているのに、それでも今はそうじゃないって言われているみたいで。


 目を閉じる。

 だめだ。弱い自分は人に頼ると動けなくなるのに。


 ちょっとだけ。

 少しだけ、力を抜きたくなる。

 もう少しだけ、このままでもいいのかもと思ってしまう。


「――俺、来年ここに入るから」

「え?」

「って、ディックに宣言しておいた」

「それは――」


 リディアは目を開けて、顔をあげようとしたが押さえつける手に阻まれる。


「そんで、アンタを守る。その力をつける」


 彼は顔を見せようとしない。彼の鼓動が速い、きっと見せたくないのだろう。


「うれしーだろ? 俺はこないだまで、目標もなく投げやりになってたのにさ」

「それは――うん、そうね」


 彼が目標を見つけたのであれば。そう思えるようになれたならば、もう教師として十分に役目を果たしたのではないか。


 リディアはそう思う。


「入れたらいいね」


(――七次試験まであるけど)


 それは心の中だけに留めておく。

 ウィルが髪の毛に顔を埋めてくる。抗議しようとしたら、笑いを含んだ声が頭に響く。


「リディア、就活指導してくれんでしょ。俺が受かるまで」


 

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