174.それでいいんだよ
いきなりのキーファと二人きりの空間だ。すぐにウィルが戻ってくるだろうけれど、少し気まずい。キーファは穏やかに笑う。
「緊張していますか?」
「ええと……うん」
リディアはなんとも中途半端な返事をしてしまったことに、自分で反省する。彼にはあの発言の返事をしていない。
「――みんな、サイーダ先生と仲いいのね」
だから、話を変えることにした。キーファはそれに不満を漏らすこと無くうなずく。
「ニ年のときから教えて貰ってますから」
「名前で呼びあうのって普通?」
「俺は違いますけど。リディアだけです」
不意打ちに赤くなる。キーファはリディアともサイーダとも節度を持って接していたのに、この急接近はなんだろう。どうしよう、勝手に顔が熱くなってごまかせない。
「あの、やっぱり無理かも。急にだし、これまでのままでも」
「慣れなくていいですよ。そのほうが、可愛いですし」
「え!?」
あの、何を言われたの?
「別に返事は要らないといいましたが、たぶん気にしているでしょう?」
「ええ。だって、はっきりさせないと――」
「今だったらリディアは断りますよね」
会話が進んでいる。どうしよう、どこで何を止めればいいの?
「だって。その――」
「生徒と教師。特別な関係どころか特別な感情さえも持ってはいけない、と思うのでしょう? 俺がここの生徒であるかぎり答えは決まっている」
「……」
「期限を設けるものじゃないとは思います。『いつまでに返事が欲しい』なんて、あなたが俺を思っていないのに答えを急かすのはおかしいし、俺があなたを守りたいと思ったからそう告げただけで。だけど、もし答えたいならば卒業後一年は猶予をください」
「一年?」
「それまでに、俺への気持ちがはっきりしたなら、その時点で返事をくれてもいいです。他にあなたを守ってくれる相手ができたらそれでもいい。ただ、返事をしなくてはいけない、と思うのはやめてください」
「でも、あなたの時間を無駄にしちゃう」
キーファはリディアを咎めるかのように片眉をあげる。なんだろう、グイグイ押されている気がする。
「時間を無駄になんてされていません。俺があなたを好きなのは今後も変わりないので。これから俺は、本気でアプローチしますし」
「え、っと、どういう意味!?」
キーファがそういうことを言う人だとは思わなかった。
リディアは驚愕する。
「一応、卒業してからにしておきますけど。ただ待っているわけではない、と思っていてください」
「……」
どう答えたらいいのかわからない。ダメと言わなくちゃいけないのに、返事の逃げ場がない。
キーファは空色の綺麗な瞳でリディアを真っ直ぐに見おろしている。
「今は特別な相手と思われていないのはわかります。ただ、困ったとき、辛い時、言ってください。あなたが無理をしてしまうのが俺は怖い。守れるその立場が欲しいだけなんです。堂々とあなたに主張できる立場を」
「私は……平気、だけど」
どうしてなのか。いつものその言葉を絞り出すのが辛かった。
グラグラ揺れているのはなんだろう。心、気持ち、意思、立場。何を優先したらいいのかわからない。
「そう言ってしまう時点で心配なんですよ」
「私、守ってもらうことなんてないと思う」
「だったら守られてみてください」
「……」
ノックの音が響く。
「――捨ててきたけど、入っていい?」
ウィルの言葉と共に、ノブが回ってドアが開く。
リディアは気まずくて、立ち尽くす。
ウィルと目が合う。彼の真っ直ぐな視線は今の会話を見透かしているようだった。
「教授も学科長もいなかった。明日謝っとく。教室も片付いてたし、俺たち帰るから」
「え、ええ。ありがとう」
「先生がお礼を言う必要はないですよ。窓を割ったのは俺達なので」
「コリンズじゃないわよね」
キーファは何も言わない。ウィルを見ると「ごめん」ってウィルがリディアに謝る。
「チャスと俺」
「用務員さんにもお詫びを言ってね」
「了解。――リディア。ゴキ退治、今回のは貸しだからな」
「え!?」
いやいや、今までの貸しを返して貰ったはずだよね!?
「キーファ、いこうぜ。――今回のは、お前にも貸しだから」
ドアが閉まる。「ちょっと待って」と言いかけてリディアは立ち止まりそのまま動きをとめる。
だってウィルに何が言えるだろう。今のセリフに何を言えばいいのだろう。
リディアはしばらく待ってから部屋の外へと出て、教室の片付けを確認しに廊下を進んだ。
ウィルもキーファも、彼らはリディアを不意打ちして驚かす。
でも答えはいらないってどうすればいいの?
教室に戻ると、バーナビーがいた。割れた蛍光灯は外されて、そこだけがぽっかりと何もない。
「――起きたの?」
「ウン、よく寝た」
伸びをするバーナビーについ頬がほころぶ。彫りの深い端正な容姿なのに、男性的な目鼻立ち。まるで大型犬がくつろいでいるようでほっとしていたら、彼の紅い目が細められる。
野性味あふれる眼差しに、不意に息を呑む。
けれどそんなリディアを見て、彼はふっと笑う。
「――二人に告白された?」
「……」
みんなにばれている。これっていけないことだし、まずいだろう。首を上下にも左右にも振らずに、リディアは彼を見つめ返した。
「――リディア。目をつぶって」
「何……」
「いいから」
そう言われると、従わなきゃいけないような気がしてくる。穏やかで見通すような眼差し。立ち尽くしたまま目を閉じると、彼がリディアの頬を撫でる。
「リディア。何があってもじっとしてて」
「え」
「いいね」
緊張しながらじっとしていたら、そばで人の発する熱を感じて、そのまま軽く抱きしめられた。
ムスクとライムの香りがする。バーナビーの匂いだ。魔力の香りじゃなくて、彼の纏う香水か何かだろうか。
身を固くしたリディアだが、バーナビーはそれ以上何もしてこず、穏やかに耳に話しかけてくる。力を入れすぎてもいなくて、軽いのにそれでも拘束されている。
教室でこれはまずいのでは、と思うと耳元をくすぐるような小さな笑みを含んだ声がする。
「誰も通らないし見ないから。心配しないで。――静かに、深呼吸してみて」
「……」
「魔法を使うみたいに、僕の心臓の音に集中して」
彼の心拍は、ゆっくりだ。六十ぐらいだろうか。
「僕はね、少し幻術が使えるんだ。だから誰にも見られないように誤魔化せるし、リディアも落ち着かせてあげられる。ただじっとしていて」
何もしないから。そう言われると不思議と信じてしまって、次第に心が落ち着いてくる。
「こうされるのは嫌?」
「……嫌、じゃないけど」
「普通はね、恋人にされるもの。これが嫌じゃなければ、リディアは大丈夫だよ」
「どういうこと?」
抱きしめられたまま話をしているって、変な気持ちがする。
「……好きな人とするのはこういうこと。怖いことじゃないよ」
バーナビーは、ゆっくりとリディアを離す。リディアは目を瞬いて彼を見つめる。
「男はね、好きな子を抱きしめたいだけなんだ。そうすると幸せを感じるんだよ」
どうして彼はそんなことを教えてくれるのだろう。
「リディアは難しく考えないで」
「……」
「もし今ので安心したなら、リディアは守ってもらえる子だよ。怯えなくていいし、その時が来るまで待つといいよ」
優しくて温かい眼差し。彼はどこまで知っているんだろう。
「……ありがとう」
「お礼はこっちだよ」
「どうして……」
「リディアを抱きしめちゃったからね」
「そんなこと」
「だって俺だってリディアが好きだからね」
慰められているようで、けれどそうじゃない気もしてくる。リディアが黙っていると、バーナビーは、ただニッコリと笑った。
「俺も幸せな気持ちになって、リディアも落ち着いた。だからいいんだ」
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