166.近づき遠くなる秘密

(まさか――)


 ――翠の子よ、君に力を与えよう。


(我が君)


 ――白木蓮。春に咲く白く気高い姿、あなたの名前は、白木蓮よ、我が君。


(我が君。まさか――!!)


 動けぬって。


 穢れた自分。姿を見せない主。見放されたと思っていたのに。


 まさか。


(私の、呪いのせい?)



 ***



「――リディア、リディア、先生!?」


 キーファの声で、リディアは我に返る。覗き込むキーファの顔、彼の手がリディアの肩に触れている。

 薄暗い空間、血の匂い。

 

 ――戻ってきた。


 膝の上の確かな重みに、リディアは顔を下ろす。チャスがリディアの顔を見上げていて、驚いて思わず肩を揺らしてしまった。


「センセ、人の顔みて驚くなよ」

「ごめんなさい、でもあのちょっと……」


 チャスの元気な腕がリディアの腰に回されている。なんでしがみついているの?


「……チャス」


 キーファがリディアの肩に手をかけてチャスを見下ろすと、チャスは黙った後無言で顔をリディアと反対側に向ける。


「……チャス・ロー?」

「あやまんねーぞ。ちょっと試しただけだかんな!」


 ……何を試したの?


「何もできなかったし!!」

「チャス。それについては、後でゆっくり話そう」


 キーファが静かに言うと、チャスは黙り込む。

 

 若干声に凄みがあったが気がしたけど、リディアは深く考えるのをやめて、逸らされたチャスの顔を両手で戻して顔を覗き込む。


「な! ち、ちけーよ!」

「意識は、はっきりしているわね」


 顔色は悪いけど、チャスの傷口から滲む血は増えていない。時間は経っていないはず。


「キーファは大丈夫? 気分は悪くない?」

「--問題ありません」


 即座に返ってくる答え。

 けれどチャスの驚いた顔に、リディアは内心焦る。


(やばい、名を呼んでしまった)


 キーファ、と呼んでしまった。

 でも誰も何も言わない。キーファは素知らぬ顔で、チャスは口をぽかんと開いた後、口を閉じてしまう。


 変な沈黙が落ちるが、皆が突っ込まないからリディアも今のはなかったことにする。


「ところで、人形の頭って――」

「それな!」


 あれ、とチャスが上を指す。


「わっ!」


 結界陣の上はドーム状の不可視の障壁がある。

 そのためリディアの真上に浮かんだ傀儡が、大きく百八十度に口を開き、鋸歯で見えない壁に噛み付いている。ガジガジガジと空気に歯を立てている。


 見開いた虚ろな黒い眼窩、広がる黒髪、茶色い乱ぐい歯。


(いやだ! 怖いっ)


「お、おまたせ!」


 手を振ってみたら、鼻の上にシワを寄せ更にガツガツと空間に歯を立て始める。


「センセ、煽るなよ。ていうか、魔法陣平気か? 壊れねえ?」

「気にしない、見ない。目を閉じていなさい」


 チャスの瞼に片手を当てる。


「さ、傷を治すわよ」


 困惑を浮かべるキーファに、リディアは安心させるようににっこり笑う。


「あなたが魔法を得られてよかった。とても強い方だと思う、あなたは強力な魔法師になる」


 正確には彼の力は封じられていたようだ。なぜなのかはわからないし、キーファの力も、何をさせたいのかもわからない。

 彼らは、はっきり言わない、教えてはくれない。


 でも、それを今言う必要はない。


 だからリディアはサラリと続ける。


「治癒魔法は、私の専門だから。まず私がするわ」


 治癒魔法を使えない魔法師も多い。リディアは“生”の魔法師だから使えたが、ディアンやディックは使えない。キーファの能力はまだ不明だが、治癒魔法ではないだろう。


「――待って下さい」


 キーファはチャスの傷口に手をかざしたリディアの手を掴む。


「治癒魔法ではありませんが、俺は何とかできると思います」


 彼の眼差しは強く、言葉は確信を帯びていた。


「ですから、リディア……失礼しました。上位魔法の使い方をあなたが導いてください」


 キーファはリディアの名を呼んで詫びた。けれど言い直さない。少しだけリディアはひっかかる。自分は彼の告白を聞いてしまった、今後どうしよう。

 名を呼んでいいと言ったのに、撤回させるのもどうなの?

 

 じゃあ自分は彼をどう呼ぶ?どういう関係性を保てばいい?


(……ううん。今、考えることじゃない)


 自分が教師なのは、変わりがないのだから。その関係性は変えられない。

 リディアが躊躇したのは一瞬だった。


「何度もごめんなさい」と謝ってから、キーファの手を上から握り直す。

「あの?」

「傷口に手をかざして」


 リディアが重ねたキーファの手が、チャスの傷口を覆う。


「魔法術式はないの。名は呼ばなくていい、基本どおりの請願詞でいいから、リュミナス古語で呼びかけ、対象、望む現象を告げる。どういう状態に持っていくか、そのイメージをできるだけ明瞭に描いて。魔力はただ開放するの。捧げるのよ」


 キーファの魔力が放出されるのを感じる、今までにないことだ。それをリディアは制止しない。キーファがちらりとリディアを見る。頷いてそれでいいと合図する。


“――闇の斧、光の刃、振り子の拍動を司るものよ”


 キーファの声が響く。いい声だ。低く深みがあって謳うよう。ディアンの請願詞も聞き惚れてしまうが、彼は慣れた余裕があって、抑揚に色気がある。


 一方でキーファは声に力強さと張りがあって艶がある。これはこれで、六属性や上位の存在など魔のものに好かれやすいと思う。


“――違えた流れを遡れ 本流に戻れ”


 キーファの声に身を委ねていたが、握り締める手が熱を帯びていくたびに、変化が目に見えてくる。


 チャスの――傷が薄くなっていく。

 ――いや、血が滲んだ服がだんだんと薄くなる――血が薄くなっている?


 少しずつだが、じわりじわりと傷が小さくなり、同時に血が滲んでいる箇所が狭まり、本来の布地の色が見え始める。


(これって……)


 治癒魔法の場合、傷が治っても服が元の状態になることはない。


(元の状態……!?)


 傷を治しているのじゃない。元の状態にしているのだ。


(斧に刃――振り子!?)


 リディアはキーファの顔を見つめなおす。


(“刻”の力……!?)


 リディアは喉の奥で漏れた呻きを殺し、叫びそうになるのを堪える。


 リディアも、チャスも、キーファも、時間は戻ってはいない。

 けれど、チャスの傷口だけが――時が戻っている。

 

 キーファの集中を妨げることはできない。リディアは黙って、ただキーファの魔力の波動を感じ、チャスの怪我が消えていく様を見続ける。

 

 熱い、濃密な魔力だ。キーファの額から、汗が伝い落ちる。


(すべて等しくって――そういうこと……)


 時は、すべてのものに平等に流れる。

 

 ――そして、傷が消えた。

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