52.密やかに募る思い

 バスが停まり、リディアと共にキーファは降りる。

 駅まで歩いて、地下鉄に乗って、隣同士になっても二人は無言だった。

 

 ふいにリディアが吹き出して笑う。


「なんか、変」

「何が」

「だって、話しても話さなくても、隣同士に座っているのは変わりないのに。誰かが見たら、一緒に帰っているってわかるでしょ」

「なら話してもいいってことですか?」

「もう普通でいいよね、あなたが嫌じゃなければ」

「俺は――」


 キーファが答える前にリディアが「ここ」と示して降りたのは、乗車駅から三つ目の駅。

 エレベーターがない小さな駅の出口で、そびえ立つように長いコンクリート製の階段を前に、リディアが一瞬身構えるのを見て、キーファはリディアの鞄を手にする。


「コリンズ、いいよ」

「俺は嫌でも、迷惑でもないので」


 そしてキーファが「失礼します」とリディアの手を取り、「掴まってください」と促す。リディアはわずかに逡巡を見せたが、「ありがとう」と小さくつぶやく。


 それを聞いて一歩先を歩くキーファは、階段を上るリディアの手を引き上げながら、小さく笑い声を漏らした。


「何?」

「いいえ。今のは本音ですよね」

「お礼に本音も建前も……あるね。今のは、心からのお礼よ」


 キーファは返事をしなかった。それは、駅の周辺風景に気を取られていたからだ。

 店は全く無い、外灯も出口だけをぽつんと照らすだけの寂れた駅。

 あまり女性が好むエリアではないだろう。昔は工業地帯だったが、今はこの周辺には倉庫しか見当たらない。単線で開発から取り残された小さな無人駅。

 

 落書きがされたシャッターがおりた倉庫が連なる人通りのない道路脇の歩道を十分ほど歩き、横道にそれるとリディアが示したのは、レンガ造りの五階建てのビル。

 一階はテナント募集の古びた広告、三階以上が賃貸の居住空間らしい。


「随分、人通りが少ないですね」

「そうだね。静かでいいのだけど」


 キーファが言いたいのは、この道を毎晩女性一人で帰るのは、感心できないということだった。だが、リディアには通じていないようだ。


 そしてエレベーターがないビルの狭い階段の四階まで苦労して上るリディアを、複雑な思いで見上げながら後ろからついていく。

 ようやく上りきった彼女が、緑色の金属製のドアの前で、鍵を取り出しためらいがちに口を開く。


「ええと――お茶でも飲んでいく?」


 キーファは溜息で答えた。

 目は、リディアの手の中に釘付けだ。電子ロックじゃない、金属性の年代物の鍵を差し込むのは扉に取り付けられた簡易な箱錠、どのくらいセキュリティが守られるているのだろう。

 たぶん、全く意味をなさないのではないか。


「先生、だめですよ。恋人でもない男を部屋にあげては」

「でも。ここまで送らせて、ただ帰すのも」

「帰すんですよ。男を家まで送らせても、家にあげてはだめです」


 キーファの声は、叱責まじりの苦い響きを帯び、リディアは考えるように黙り込む。


「ついてきたのは俺なので、自分が言うのも矛盾していますが。家は絶対に知らせないように気をつけてください。俺も誰にも言いませんし、勝手に来るようなことはしないので安心してください」


 そう言いながら、キーファは今頃ようやく気がついたことに後悔して、わずかに顔をしかめる。


「先生、彼は?」

「――いないけど」

「そうですか。いたなら、俺がこんなことをしてはいけなかったので」


 リディアは、驚いたように目をマジマジと見開いて、それから首を傾げる。


「いないし。別にいたとしても、関係ないような……」

「彼に悪いですよ」

「彼がいても、何かをしてもらうことはなかったと思う」


 リディアはそう言って「本当にお茶飲んでいかない?」と聞いた。


「先生は、本当に人に頼るのが苦手なんですね」

「え?」


 キーファは、それ以上言わなかった。自分が彼だったら、どうだろうか、多分もどかしい思いを常に抱くだろう。


 それでも、言い聞かせる権利は得ることができるし、無理やり守ることもできる。それを想像して、胸が踊るような落ち着かない気がした。

 

 色々、彼女に注意したいことはある。魔法師団にいたせいか、世間慣れしていない。強気に学生をあしらう一方では、男の怖さを甘く見ている無防備さが目立つ。

 キーファの目の前には、指摘されて狼狽えている世間知らずの女の子が見える。一度心を許すと甘くなる性格が、無防備さにつながっている気がする。


「この道を女性一人で行き来するのは感心しません、ここに住むのも」

「コリンズ、でも私は――」

「魔法があるにしても」


 リディアはわずかに目を逸らす。自分で気がついているという顔だ。魔法で撃退できる、なんとかするんだ、だから平気、そんな強がりが垣間見える。


「この辺り、安いのよ」


 キーファが眉をあげたので、リディアは慌てたように付け加える。


「ケチっているわけじゃないの。節約して……その……大学院行って貯金使っちゃって」

「せめて鍵を変えてください、作業を手伝います。先生があまりにも無防備ならば、俺も気がついたことを注意しますよ。本音で話すと言ったので」

「あ、う、うん」

「とりあえず今日は帰ります。じゃあ、明日」

「待って」


 リディアは、キーファを玄関前で留めかけて、やっぱりとドアを開けて中に入るように促す。

 キーファが注意したことを、本気にしていないのじゃないか。そう言いかけたが、リディアは部屋の奥へと足を引きずりながら進んでしまう。


 締まりかけるドアに慌てて身体を滑り込ませたキーファは、ドアを開けておくべきか迷い背中で押さえながらも目を部屋に向ける。

 なるべく中を見ないようにと心がけるキーファだが、それでも見てしまうのは避けられない。

 

 中は明るく柔らかい雰囲気だった。

 

 貼ったばかりなのだろう、綺麗で柔らかいクリーム色の壁紙が温かい雰囲気を作っている。壁にピンで止められた一枚だけの写真は、魔法師団のものだろうか。

 黒い衣装の男たちの中で、一人翠色の魔法衣の少女がいる、リディアだ。十代半ばの、はにかんだ笑みを浮かべている少女は可愛らしい。それから靴箱の上の鉢植えに、硝子のウサギの置物。


「コリンズ。昨日、ミンスパイ作ったの、食べない?」

「え?」

「サイーダ先生が食べてみたいっていうから、時期じゃないけど今日、差し入れしたの。甘い物嫌い?」


 そう言って、リディアが取り出したかけたパイを手に、部屋の奥から姿を見せる。

 キーファは、慌てて何も見ていなかったような顔を作り、リディアを見つめ返す。わずかに気まずくて、そういう自分は初めてだ。


「いいえ、嫌いではないですが」

「ミートパイもあるよ。生地作りすぎちゃって。持っていく?」

「ええと……はい」

「よかった。色々あると料理しすぎちゃうの、ストレス解消にね。でも一人じゃ食べきれないし。それに人に食べて貰うって嬉しい」


 そう言って、紙袋を渡してくるリディアに、キーファは何とも言えない顔をした。


(――これは、注意したほうがいいのだろうか)


 男を勘違いさせる、と。


「こんなものじゃお礼にもならないけど、本当にありがとう。ええと……下まで送るから」

「それじゃ、意味がないです」

「――そうか。これ以上迷惑かけられないね、気をつけて帰ってね」


 リディアが笑う姿に、キーファは胸の奥に苦いような甘いような思いが湧き上がり、無理やりそれを抑えこんだ。

 それにわずかに時間を要して黙った後、礼を言って部屋を後にした。

 

 階段を降りながら、キーファは今までのことを振りかえる。

 手にした物は、純粋に嬉しい。紙袋を覗き込んで、彼女の笑みを思い出し苦く笑う。

 部屋まで図々しく入り込むことまでも考えていなかった。ただ、そうなった。


 そうなって知ったのは、微妙な距離感。男として認識されていない。けれど、されなくてよかったのか、自分でも複雑な心境だ。


 多分、彼女は誰にでもそうなのだろう。彼女にはやんわりとした見えない膜のようなガードがある、それをうまく突き破った者が、特別な関係になるのか。

 固そうで脆そう。突き破ると意識をしてもらえるだろうが、その分警戒もされる。


 『あなたを、魔法が使えるようにしてみせる』と、そう告げた彼女。キーファのことを誰もが腫れ物に触れるように、当たり障りのない言葉で遠巻きにしていたのに、迷いながらも向き合い接してきたのは、彼女が初めてだった。


 キーファの張り巡らせた見えない壁を突き破ったのは、彼女なのだ。

 

 キーファは手で口を覆い、空を見上げた。


 自分が、どうしたいのかは、わかっている。

 迷うのは、あとはどうするか、ということだけだった。

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