43.特別な存在
それは、予想していたよりも若干斜め上のような、理解に苦しむ言葉だった。
「ええ、と? 私の、なに?」
「だから、先生の特別な存在になりたいんです」
彼はリディアの目の前にグイグイ迫る、リディアが下がると更に距離をつめる。
腰はすぐに後ろの演台に当たってしまう。
逃げても仕方がない。リディアは彼と改めて、向き合うことにした。
彼の目はまっすぐにリディアを見ているが、リディアが見返しても何の反応もない。
ただじっと見つめてくる眼差しは、リディアではなく、そうしている自分が好きです、みたいな感じがする。
リディアの特別になりたいという独占欲丸出しの言葉のわりに、熱が感じられないというか、演技をしているだけのような気がする。
「特別ってどういうこと?」
そう聞くとケイは目を瞬かせ、ふわりと笑う。
かっこよさより、可愛らしさで売る俳優の作ったような笑みは、女子が一目で恋に落ちてしまいそうのものだ。
「特別って、一番の存在ってことです。一番思って、一番大事にしてくれる、僕のこと一番好きになってほしいんですよね」
「一番……?」
「そう一番」
彼は、リディアに手を伸ばす。顎に手を触れて、少し首を傾げて近づいてくる。
会話をしてみたけれど……全然、わからない。
話の内容も、ケイという人間も、何だかよくわからない。
「どうして、私?」
ケイは、恐らくキスをしようとしていたのだろう。
動きを止めて、きょとんと眼を瞬いてから、にっこり笑う。
「どうしてって、先生が可愛いから。小さくてお人形さんみたいで」
小さくて、かわいい、お人形さんみたい。
これって、ケヴィンがミユにあげた賛辞だ。女の子は言われて喜ぶのだろうか。
「私に好きになってというけれど、あなたはどうなの、ベーカー?」
愛を求めるけれど、自分は愛を告げない。上手に隠して、相手からの愛だけを搾取しているのだろうか。
「僕? もちろん好きだよ。さっき言ったよね」
(……何を企んでいるのか、全然わからない)
話を聞き出すのは、これ以上は無理みたいだ。
「――悪いけれど。一番の生徒は作らないの」
リディアはケイの手をそのままに告げた。
きれいな宝石のような瞳だけど、よく見るとガラス玉のようだ。
「どの生徒も平等に接する。最初に告げた通りよ」
そしてケイの腕をつかんで、下させる。
ケイの変化は緩徐でありながらも、顕著だった。
「ふーん」
冷ややかと表すのが、ぴったりの声音と、無表情。
そしてリディアからわずかに目線をずらして、苛立つように険しく目を尖らせる。
この怒りは、リディアに向けてのものだろうか。
リディアは彼の様子を伺い、彼の突然の豹変にも対応をできるように、密かに幾つかの対処法を考える、そんな雰囲気の中だった。
突然、出入り口のドアノブが、ガチャガチャと音を立てる。外部からノブを回そうとしていて動かないため、左右に繰り返し回す乱暴な音だ。
リディアは、ケイに続いて次は誰が来たのかと嫌な予感に身を竦め、ケイは邪魔が来たとばかりに、不機嫌そうにそちらに目を向ける。
動かないケイ。
リディアは足を一歩動かし、そちらに半身を向ける。
ついでせわしなくドアを叩く音が響く、そして聞きなれた声が響いた。
『先生、いらっしゃいますか? キーファ・コリンズです』
リディアは安堵を覚えて、戸口に向かい足を踏み出した。
たぶん、キーファという理解できる存在の介入にほっとしたのだろう。
特に何も考えもしないで思わず声が出た。
「コリンズ、少し待って」
「――先生」
最上段の出口まで階段を半分上がったところで、ケイが最下段でリディアに呼びかける。
「いいんですか? 二人きりで施錠して何をしていたか、説明できます?」
ケイは、うっすらと笑っていた。天使の笑みではないが、脅しでもなく、口元だけが笑んでいる作られたようなもの。
言うならば、アルカイックスマイルのような感じだろうか。
「ええ。何もしていないもの、あなたの相談にのっただけ」
リディアの中に彼に対する警戒心がなかったわけではない。
けれど、そこで答えに窮していたら、また彼の雰囲気にのまれてしまいそうだったから、迷いは見せなかった。
ケイに背を向けて、解錠する。
ドアノブに手が触れようかというところで、いきなり肩を後ろに強く引く力に引っ張られる。
こらえようとした後ろ足が階段を踏み外し、体も引きずられて後ろに傾ぐ。
そして、目の前のドアが開いて、キーファの顔がのぞいた。
彼の顔が驚きで目が見開かれ、ついで焦ったように伸ばされた手が最後に見た光景。
足が踏んでいるものは何もなかった、手が掴むものを探してさまよい、まるで溺れる人間のように空中を掻いて、今度はいきなり引き寄せる存在に抱きついてしまう。
リディアを引き寄せたのは、ケイだった。
ほとんど彼の胸にダイブしたような形で、実際顎を彼の胸にぶつけてしまったが、ケイは階段の途中で落ちもせずリディアを抱きしめて頭までひきよせる。
「先生、急に離れるなんて、ひどいよ」
(何の話?)
そう思ったのは、一瞬だけ。
リディアが慌てて彼から離れると、簡単に開放してくれたが、足は階段を踏みしめていなかった。
リディアはまたケイの胸に自分から捉まる形になってしまう。
「あーあ、先生慌てるから。ドジだね」
頭上で響く声は、「仕方がないなあ」と親しげだけれど、妙に芝居がかっている。
「先生、大丈夫ですか?」
そして背後からキーファが声をかけてきて、腕をとってくれる。ケイは捉まらせてはくれたが、支える様子はない。
上手く自力で立ち上がれず難儀していたリディアは、キーファの支えで、ようやく足を地面につくことができた。
けれど足が不安定だ、膝が揺れてがくがくする。
「コリンズ、ありがとう」
支えてくれたキーファ・コリンズに礼を言うが、ケイにも礼を言うべきだろうか。
でも、彼がリディアを転ばせた元凶なので口は動かない。
キーファはリディアを支えたままで、ケイに問うように目を向ける。
「キーファが邪魔をしたから、先生が焦って転んだんだよ」
「俺には、君が先生を引っ張ったようにしか見えなかった」
「違うよ! いい? 密室に二人きりだよ。鍵をかけていた意味を考えてよね、じゃあ先生またね!」
そして、ケイはさっさと部屋を出て行ってしまう。
リディアはキーファに捉まったまま、ケイの背中を見送る。彼が戻ってくる様子がないとわかり、ようやくキーファの手を放す。
「コリンズ。本当にありがとう、ごめんなさい――」
言葉は最後まで終わらない。
リディアは足に痛みを覚えて、またもや半身を崩しかける。それを支えるキーファは、今度は両手でリディアの腰をささえる。
「大丈夫ですか? とりあえずそこに座ってください」
彼の手を借りて、真横の椅子に腰を下ろす。
リディアが足を持ち上げようとする前にキーファが屈んで、リディアの足に手を触れる。
「……コリンズ!? いいって」
「いいえ、失礼します。見てください先生。ほら足首が腫れてますよ」
結構強引に彼がリディアに靴を脱がして、左の足首に触れる。
たしかに、触れるまでもなく不自然に足首が腫れているのがわかる。まるでドーナツを足首にはめているみたい。
そしてキーファは、リディアの足首を屈曲と伸展させ、痛みの有無を聞いてくる。
「以前、陸上をやっていたんです。怪我は見慣れています」
丁寧な触診に、リディアも素直に答えるしかない。
「折れてはいないと思う、たぶんひねったのかな」
「僕もそう思いますが、念のため受診してください」
そして、靴を示す。根元からヒールは折れて取れていた。
「どちらにしても、靴は履けないですね。来賓用のスリッパを借りてきます」
「ありがとう。でもその前に、あなたは私に用があったのでしょう?」
キーファは、立ち上がった姿勢でリディアを見下ろし、いいえと言う。
「明日の演習の準備を手伝おうと、訊きに来ただけです」
「――ありがとう」
彼は親切だ。
いつも一人で準備をしているリディアに気がついてから、何かと手伝ってくれる。
「俺たちの授業ですから」
「ううん、いつも本当にありがとう」
そう告げると、彼は目を細めてリディアを見つめた。
「先生はよく、お礼を言ってくれますね」
リディアはどうだろうか、と首を傾げた。
「何かと助けてもらっているからかな」
「それからよく、お詫びもしてきますね」
「初めて会ったとき、迷惑かけたから」
リディアが言うとキーファは小さく笑った。図書館のことを思い出したのだろう。
「あの時はごめんなさい、本当に」
「また謝っていますよ」
彼は目元を笑みで緩ませながら、指摘する。
ケイとは違い安心する笑みだ。少し怖かったのかもしれない。リディアは今更ながらに悟る。
「あの時、俺も嬉しかったんです。明日から一緒に授業を受けられるんだと思って」
「そしたら、まさか教壇に立つ方だったのね。ごめんなさい」
リディアが苦笑しながら謝罪したら、キーファはふいに笑みを打ち消して黙る。ふつりと、視線を遠くに流す。
楽しげだった雰囲気が変わってしまう、まずいことを言ってしまったのだろうか。
「コリンズ?」
「――ケイと何があったのか訊いてもいいですか?」
「……相談事があったみたい。彼の本当の意図が汲めなくて、機嫌を損ねてしまったのかな」
キーファは一拍空けて、言葉を放つ。迷っているようで、けれどリディアを諭す言い方だ。
「俺が言うことではないかと思いますが、閉鎖した空間、特に施錠した状態で男と二人になることは避けてください」
そういって自嘲気味に呟く。
「今の状況もそうなのに、おかしいですけど」
「でも、コリンズのことは信用しているし、何か起きるとは思っていないから」
「それ、男としては言われたくない言葉ですよ」
キーファは独白のように呟いた。しばらく黙り階下の実演空間を見下ろす。
リディアは訂正した方がいいのか迷ったけれど、彼は求めていない気がして黙ってしまう。
「準備は終わりですか」
「ううん、まだ全然」
「今日は無理しないで、明日にしてください。明日は俺も手伝いますよ」
リディアは、部屋を見下ろしてそれから自分の足を見直し嘆息を漏らす。
諦めたほうがよさそうだ。
「ありがとう、コリンズ」
「どういたしまして、先生」
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