2章.大学授業編
6.今の現実
最上階のベニー・エルガー教授の研究室は、窓が大きくて眺めもいいが日当たりもよい。
冷房はまだ入らない時期。
太陽のもたらす熱を部屋の住民は気にならないのだろうけど、リディアが汗をかいているのは、太陽のせいではない。
「ハーネストさん、こちらがあなたに担当してもらう授業よ」
渡されたカリキュラムの科目責任者は、目の前の教授の名前。なのに、授業担当者は殆どがリディアの名前だ。
大学の教員の役職は、上から教授、准教授、講師、助教、助手。そしてリディアは、下から二番目、助教という授業補助の下っ端。
しかし、このグレイスランド王立大学は、教授、准教授、助教の三役しかいない。つまり講師がいないこの大学では、授業のメインは、教授、准教授が務めるはずなのだが……?
下っ端なのに、全ての授業を持つっておかしくない?
「基本的にあなたには授業、実習と演習はほとんどすべてやってもらいます。他の業務としては教員と生徒の授業資料の印刷、教育予算管理、物品の購入補充、演習室の整理整頓清掃、教室の備品管理、生徒全般の世話、そして魔獣の世話。外部講師の先生は門までお迎えに行って、お茶は授業の前後に、お茶菓子は欠かさないように。会議の準備手配、資料作成は三日前にまでに。実習施設や魔法省への公文書は一ヶ月前までに作成して私に出して頂戴。今年度の教育費の教材購入案は来週までに庶務の会計に提出しておいて。学生の卒業研究指導は、あなたと准教授で半分ずつ学生を持つこと。ゼミは毎週水曜十八時から二十一時、資料印刷とプロジェクターの準備をしておくこと、後半からはあなたも指導に入ってもらうから。それから、再来月の魔法薬学会の委員に推薦しておいたから、会計をやって頂戴。そして魔法師協会の魔法銃取締の強化委員会研究のメンバーに推薦しておいたわ。会議は毎週木曜の十九時からよ、ここ十年の文献検討をして論文を書いて会議までに示して。魔法省の魔法事故報告ガイドラインの素案は、週末までにかきあげて。魔法術式学会の論文査読委員に推薦しておいたから、委嘱状をもらっておくこと、論文はそのうち届くわ」
はい? 今週、来週? 予算? ガイドライン素案? 論文? え、授業?
最初の授業を全部、というところで既に頭が飽和状態、いや拒否状態か。
ソレ全部、私じゃないですよね、と思っていたけれど、やっぱり自分一人の仕事ですか?
ええと、まず何を聞こう?
じゃあ話は終わり、とくるりと回転椅子を回して背を向ける背中に、慌てて声をかける。
待って、待って。何もわからないから!
「エルガー教授! ちょっと待ってください。あの、まず――授業の範囲をご相談したいのですが」
「あなたの授業だもの。好きにしていいわよ」
「ええと。でも私だけの生徒ではないですし、――私は講義をしたことがないのですけど、 範囲は他の先生と調整を――しなくては――」
「あのねえ。あなたの授業でしょ?」
ええと、はい。
もごもごしていたら、溜息の返事。
あれ? 私、生徒みたい?
教授は、リディアにできの悪い生徒に言い聞かせるかのように、ことさらゆっくり言う。
「ハーネストさん。授業は、国家試験の範囲を押さえるだけよ」
「――ですが、他の先生と内容が重複しては困ります。エルガー先生の資料を見せて頂くことはできませんか」
その顔を見ると、全然きいてはもらえなさそう。
「重複したら別にいいじゃない。大事なことって思って学生も覚えるわよ。私の授業は私の知的財産なの。見せることはできないわ」
まずい。このままじゃ、まずい。
このままでは、何をどうすればいいのかわからないのに、仕事だけは任されてしまった。
しかも頭が受け入れていないほど大量の仕事を。
「それに教科書がまだ準備できていなくて。授業を作るのに貸しては頂けませんか? 来週からの授業だから急いで作らないと――」
今日が出勤初日なのだから、授業の教科書は勿論もっていない。
でも、急いで作らないと授業に間に合わない。
まずい、という思いと、現実を受け止めていない自分がいる。
これ嘘だよね、と。
「――ハーネストさん。教科書は自分で用意して」
そのお顔の後ろには、リディアが借りたい教科書類が綺麗に並んでいる。
恐らく全然使っていませんという様相を示している。
これって。
――何を話しても無駄。
何も手伝わないし助言もしないけど、やらせる、以上。
もしかして、自分は生徒と思われているのかもしれない。
課題を与えて乗り越えさせるという……。
”ハーネストさん”という呼び方が、既に生徒みたい。
そうすることで、教授は何が得られるのだろうか?
リディアは教授の部屋をでて、呆然としながら一階まで階段でよろよろ降りる。足元が疎かになり、ヒールが階段のゴムに引っかかり、脱げてしまう。
(ああ……)
再度階段を戻り、履き直す。
初出勤。
説明を聞いても、何をやるのかは言われたけれど方法が見えない。
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