第2話 夢

 優しく瞼を照らす日差しを感じ、少しずつ意識が戻ってくる。

 瞼を開くと、見慣れた家具に囲まれた自室が目に映る。

 既に夜は明け、部屋は陽光に照らされ白く明るい。


 ぼんやりした頭で確認するようにゆっくりと、周囲を見回す。

 昨夜ハンガーにかけた制服を目にして、完全に頭が現実に戻った。 


「夢か……」

 ぐっしょりと汗で濡れた体が気持ち悪い。

 寝覚めは最悪だ。

 だがそれ以上に、アレが現実ではないことにほっとした。

 深呼吸を兼ねて大きく息を吐く。


 悪夢の中の僕は、名前も年齢も同じなのに、取り巻く環境はまるで罰ゲームのように過酷なもので ― 走馬灯のように浮かんでは消える場面は、どれも惨憺たるものだった。


 家庭内暴力の上、不倫相手と失踪した父に振り回された幼少期。

 猛勉強して入った学校で受けたいじめ、そして冤罪による退学。

 経済的にニートが許されないため、就職しようとするもできず、フリーターに。

 母が倒れ多額の医療費が入用になり仕事を掛け持ちするも、パワハラ三昧の職場にあたり、心身ともに限界に。

 人生の一発逆転を目指して合格を目指していた資格試 験にも不合格になった。

 この直後に母が病死。天涯孤独になった僕に残されたの は、回復の兆しが見えない病だけだった。


 自分の人生でなければ、設定を盛りすぎだろと文句をつけたくなるような人生だ。


 現実の僕は、そこまでハードモードな人生ではない。悪くない給料がもらえる仕事につき、職場の人間関係にも恵まれている。なにより心身ともに健康だ。


 今の生活に不安の要素など、一つもない……はずだ。


 気分を改めて、シャワーを浴びようと起き上がる。


「おはよう。……って、君、随分顔色が悪いけれど、大丈夫かい?」


 同室の紫草(しぐさ)先輩は、既に起きて、朝ごはんをテーブルに並べていた。

 四人掛けのテーブルに二人分の和食が、次々と用意されていく。

 今朝の献立は、お味噌汁とごはん、鮭の塩焼きと卵焼きに、昨夜の残りの煮物だ。相変わらず栄養バランスは文句なしに良い。身に纏った黒エプロン姿も板についている。


「……変な夢を見ただけです。それより、また朝ごはんを用意させてしまってすみません……」

 

 この一カ月というもの、どうにも眠くて、朝早く起きることができない。

 結果、教育係でもある紫草先輩に用意してもらった食事を、申し訳ないと思いつつありがたく頂戴するという悪循環を繰り返していた。


「いいよ。気にしないで。僕がしたくてしていることだ」

 

 優しくそう言うと、先輩は柔らかく微笑んだ。

 相変わらず完璧だ。まだ七時前だというのに、既にセットされた先輩の黒髪は、一見無造作に見えるが、相応の技術が必要で、僕にはとても真似できない。器用な紫草先輩だからこそできる技だ。 


「それより、また例の夢かい?」


 手際よくお茶を淹れながらも、目ざとい紫草先輩は気配りを忘れない。

 女の子たちに人気があるのも納得だ。


  それでも悪夢の中の僕なら、この穏やかな関係にさえ恐れを感じていただろう。

 心を許しきった絶妙の間合いで裏切られるのではと警戒し、端から疑い距離を置く。あの世界で、僕はそうやって自分を守ってきた。

 そうすれば、裏切りや豹変も、やっぱりそうかと諦観できる。

 夢の中で、幾度もこの空気に騙されてきた記憶が蘇る。

 

 現実の僕は違う。

 余計なエネルギーは使わない。省エネだ。

 怒り、恨み、嘆き――強すぎる情動がもたらすのは少ない。

 費用対効果が良くない。無駄だ。


「はい。子どもじゃないんだから、悪夢ごときに心を乱されていては駄目ですね」


「……今日はまだ早い。任務に支障さえ出なければ、どうということはない」

 事も無げに言うと、紫草先輩は席に着くよう促した。


「それにしても面白い夢だね。神が存在しない世界だなんて」


 そうこの世界には夢の中の世界には、ないものがある。


 神の存在だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます