Memory 2-1
1
人との関わりを避け始めたのは、いつ頃のことだったか。
ずっと前からだったかもしれないし、最近の話かもしれない。明白なきっかけとも言える出来事はあるにはあったが、それ以前から内気で人見知りだったかもわからない。しかしそれ以降、自らの不遜さ、傍若無人ぶりが自分でもわかるほどに悪化していったことも事実だった。
結局のところ、原因を突きつめていけばそれは全て己の在り方へと向かっていく。彼の生き方が現在の彼を作り出し、彼の性根が今の彼の元となった。なんにせよ、今現在の自分の境遇が、『社会悪』とやらによるものだとは、彼は欠片も思っていなかった。
そんな、短い人生で何度も脳裏によぎったことをまたもぼんやりと考えながら、壁に並ぶ窓の向こう側の風景を眺めつつ、彼はトウキョウ特別能力育成第一高等学校の廊下を歩いていた。北側の通路は、たとえ夏であろうとも背筋に冷たい物を感じる。実際の気温の問題というよりは、むしろ、自らがあまりいい感情を持ち合わせていない施設の、年中日の光が差し込んでこない場所という条件が、彼を緊張させているというだけの話だろう。
そう、緊張だった。自分がこの施設にいるという事実そのものに、違和感を覚える。繊細なガラス細工に、小さな罅を見つけてしまったような、そんな感覚。そこにいるというだけで、全てを台無しにしてしまっているかのような背徳感。
周りの人間からの視線がどういった意味合いを持つかなどわからない。しかしそれが、お世辞にも好意に満ちた代物ではないことぐらいは予想がつく。
何となくだが見覚えのある人間とすれ違うたびに、彼らがぎょっと目を見開くのがわかる。それは恐怖によるものか、驚愕によるものか。どちらにせよ心地のいいものではない。彼は無意識に歩幅を広いものにしていたことに気がつき苦笑しながら、目的の扉の前で立ち止まった。
二、三度ノックして、引き戸をスライドさせる。思いの他荒々しい開き方になってしまったことに舌打ちをすると、ちょうどその職員室から出ようとしていた男性教員が目を丸くしてこちらを見つめてきた。
「おや。放課後に登校かい? 合理主義者の君らしくもない」
どうやらこの教員には、彼のことが『合理的な人間』に見えるらしかった。他人の性質、性格をそのようにたった一言で言い表すのは、彼の趣味ではない。自分が語ることも、語られることも嫌悪する。『お前が何を知っているんだ』、と。つまりは、よくあるちっぽけな自尊心というやつだ。よくあることだと断定するのもまた、少々躊躇われるが。
それ以前に彼は、この教員の名前を知らない。初対面かはわからないが、どちらにせよ好印象は持てなかった。
「で、何の用? 君が目的もなく登校するなんてことはないよね?」
ほら、まただ。人のことを、何のためらいもなく、言葉で定義しようとする。思わず舌打ちしてしまいそうになるのを、必死に堪える。今更すぎるかもわからないが、教員の自分に対する印象をこれ以上下げるわけにはいかない。
「社会科の教員に、質問がありまして。どなたかいらっしゃい……」
「ああ、いいよ。敬語使わなくて。君のことは、エボちゃんから散々愚痴られているからね。そうやって改まって話されるのは、逆に違和感があるかな」
エボちゃん、という呼び名が、エボニー・アレインのことを指しているのだと察するのにしばらくかかった。彼女が愛称で呼ばれるほど教員と仲が良くなるのは珍しい。少なくとも、中学の段階では、彼女は教員というものを嫌悪する傾向にあった。
「そう言われると、意地でも敬語を使い続けたくなりますね」
「アッハッハ! やっぱり、エボちゃんの言ってた通りだ。そう答えると思っていたよ」
「…………」
先ほどからどうもいけ好かない男だった。こんなのとエボニー・アレインの仲が良好であるというのは、正直信じがたい。
「社会科の教員と話に来た、ねえ。悪いけど、あまりおすすめしないかな。君はかなりの数の教員に嫌われているけど、社会科は別格だ。彼らのはもはや敵意だと言ってもいい」
「そうですか。気がつきませんでした」
「いやいや。授業に出席したときは大抵、君が出ていなかった授業の内容を質問しているらしいじゃん? 明らかに嫌がらせでしょ。しれっと完璧な答えを返す君も君だけどねえ」
「そうですか。てっきり、俺が自習しているか確認しているものかと」
彼の言葉に、その教員は片目を瞑ると、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。
「本気で言ってる、それ?」
「半分嘘で、半分本当です。薄々察してはいましたが、好意によるものかどうかは判断がついていませんでした」
「なるほど。その説明もまた、半分嘘で、半分本当なんだろうねえ」
教員は煙草を口にくわえ、全てを察しているかのような、感情の読めない笑みを浮かべた。ただのお人好しな愚者なのか、それとも人を見透かす達人なのか。どうも判断がつかない。これも、両者それぞれに正しく、また、偽りなのだろう。何より、自分の主義に従うならば、彼はこの男を名前でしか定義することができない。自分は自分としか言えないのと同じだ。
そういえば、この男の名前を知らなかった。一応聞いておきたいが、そのタイミングは既に逸してしまったような気がする。まあ、会話だけならば問題はないが。
「これから学生警備室でお茶しようと思うんだけど、君もどう? もしかしたら、君の疑問の解決に役立てるかもよ?」
「……あなたは、教員ではありませんよね?」
学生警備室、という言葉で、この男が教員ではなく、学生警備の関係者なのだと察した彼の前で、男は煙草を手にとると、ゆらゆらと誘うように揺らした。
「一応教員だけどね。専門知識はないけど、社会科よりは親身になってあげられると思うよ」
「俺、紅茶は嫌いなんです。コーヒーも。麦茶あたりがあるなら、お付き合いします」
「あるよ、いろいろと。自販機無料だから、好きなの選んで」
「そうですか。では、もう一つだけ」
彼は無料と言葉を少し意外に思いながらも、それを表に出すことなく言った。
「今わかったが、俺はあんたが嫌いだ。それでもいいか?」
なるほど。学生警備隊長はそう呟くと、苦笑を浮かべながら天井を見上げた。やれやれといった調子で首を振り、視線を戻したその男は、彼の想像に反して笑みをより深い物にしていた。
「嫌われるのは慣れているよ。それでも、僕は個人的に君と話したいと思うね」
「……はあ」
何とも間の抜けた声を出してしまった彼に、そういえば、と、今気がついたというように、男は右の拳で左掌を叩いた。
「僕の名前は、ジミー・ディランだ。少し遅かったが、初めましてと、そう言うべきかな? 御影奏多君?」
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