30 最後の砦

 アパートに帰るなり、さくらはすぐさま電話をかける。だが相手は出ない。電話番号を変えた事を思い出し、その事を僅かに後悔しつつ、ならばと新たに登録した番号をプッシュする。

『もしもし? 河野ですけど』

「あ、片桐です。先ほどはごちそうさまでした。それからいろいろお世話になって、本当にありがとうございました。さっき家につきました」

『無事について良かったわー。わざわざ電話ありがとうね』

 のんびり返答されるが、さくらは待ちきれずに本題を切り出す。

「あ、あの。ところで、島田さんの家って分かります……か?」

 そう口にしつつ、みるみるうちにさくらは赤面した。少し親しくなったとたんになりふり構わない自分が恥ずかしい。まるで河野を利用しているかのように思われるかもしれない。

 だがこの機会を逃したら、後は無い気がして仕方がない。動くなら今夜だとさくらの直感が言っていた。

『そりゃわかるけど、どうかしたの?』

 電話口にいる河野がなぜかにやにやと笑っているように思えた。ますます顔を赤くしつつ、さくらは思い切って言う。

「島田さんとどうしてもお話ししたいことがあって。でも、電話に出てもらえないので……」

 そこで耐えきれないと言ったように、くすくすと笑い声が聞こえる。河野は『予定通り三羽目が落とせそうねぇ』と意味深なことを言ったあと、

『とりあえずもう一回うちまでいらっしゃい。ちょうど頼みたい事もできたから、ついでにお願いしたいのよー』

 と答えて、電話を切る。肝心の住所を手に入れられず肩を落とすものの、

(そういえば、奈々ちゃんが近いって言ってたっけ)

 そう思い出し、さくらは急いで準備をすませると、アパートを飛び出す。

 少し前まで降っていた雨は止み、雲間から星空が覗いていた。



 さくらが河野の家に着いたのは午後九時を少し回ったころの事だった。

「夜分遅くすみません」

 ドアホンを鳴らしたあと、河野はすぐに玄関に現れた。恐縮しつつ頭を下げたさくらの目の前に差し出されたのは、小さな鍋だった。

「これお裾分けなんだけど、三階に届けて欲しいの」

 ニコニコと言われて思わず「どうして私が?」と口に出かかる。

 だが、同時に手渡された鍵を見てすぐに察した。

(え? 鍵を持っているという事は――)

「風邪引いちゃって、高熱出してるみたいだから、少しお世話してもらえると助かるわ。私が行ってもいいんだけど、奈々を一人にさせられないから。――お願いねぇ」

 河野はあっさりと扉の向こうに姿を消す。

 さくらはしばし呆然としたあと、後ろを振り向いて階段を見つけた。そろそろと昇る。二階は空き家のようで、表札が出ていない。階段を一段上がる度に心拍数が上がるのが分かった。

 最後の段を昇り切ったところで目に入ったのは、河野の家と同じ扉と、『島田』という表札。よく見ると付箋紙のような紙に手書きされたものが適当に貼付けられているだけだった。

 チャイムを押す。だがいくら待っても応答がない。

(寝てるのかな)

 河野が言った『高熱』というフレーズ、そして手に握りしめたままの鍋と鍵がさくらに向かって「行け」と主張する。

 さくらは大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、鍵穴に鍵を差し込んだ。



「お、おじゃまします……」

 小声で言いながらさくらはひそやかに入室した。返事は無く、やはり寝ているのだろうと思えた。

 まるで空き巣のように忍び足で廊下を進みつつ、観察する。

(広いなあ……)

 河野の家と間取りがまるで同じなのに、受ける印象はかなり違った。

 まず家具がなくがらんとしている。生活感がない。まるで使っていないのがあからさまな部屋があり、もったいなさに溜息が出そうになる。

 突き当たったところにガラスのはめ込まれた扉があり、そこから僅かに光が漏れている。

 河野の家ではここがリビングだった。途中の部屋はほぼ使われていないようだったから、きっとリビングとその隣の洋室を主に使っているのだろうと思った。

 そろりと扉を開ける。やはり物がなく、テレビと革張りのソファだけが置いてある。しんと静まったリビングには人気もない。

(隣かな)

 おそらく寝室だろうと思うと、口から心臓が飛び出そうだった。

(あぁ、これってもしかしなくてもストーカー行為?)

 河野の許可を得ているものの、人の部屋に勝手に忍び込んでいる自分を思って余計に動悸が酷くなる。

 キッチンには使われた形跡がある。ワンカップの日本酒が空けられていて、こんなのを飲むんだと意外に思いながら鍋を置くと、洋室の僅かに開いた扉から覗き込む。

 まず微かな酒の匂いがした。落ち着いた濃色のカーテンの隙間から差し込んだ外灯が白く細い線を描くだけの薄暗い部屋。ベッドの上に人影が見つかり、どくんと心臓が波打った。

「しまだ、さん?」

 呼びかけると、ベッドの上の塊がのろのろと寝返りを打った。

「んー……?」

 聞き覚えのある声に勇気を得て、さくらは名乗った。

「あの、片桐です。ええと、河野さんに頼まれて、お食事持ってきました」

「ああ、そう。……あとで食べるから置いておいて」

 ぼそぼそと億劫そうな声が響いたあと、ぴたりと会話が途絶える。広がった冷たい沈黙に、さくらは直前まで膨らみ続けていた気持ちが萎むのが分かった。

(ああ、……だめだった)

 何を都合のいい夢を見ていたのだろう。

 返って来たのは好意でも敵意でもない、無関心。島田にとってさくらはもう過去の事で、なんら心を揺さぶる事はないのだ。

「キッチンの方に置いてますので、あとで温めて食べてくださいね」

 告白しようという決意が挫ける。帰ろうと身を翻した直後、

「は? ――え!? 片桐って、さくらちゃん!? なんで――」

 と言う声と共にどすんと大きな音がした。振り返ると島田がベッドから転がり落ちて呻いている。

「ってぇ」

「だ、大丈夫ですか!?」

 さくらは慌てて駆け寄ると彼を抱き起こす。掴んだ腕が酷く熱く、ぎょっとしてベッドに寄りかからせる。だが、すぐに彼の腕の中に囚われて目を丸くした。

「俺、寝惚けてる? ――ねえちゃんじゃ、ないよな?」

 眼鏡なしの熱っぽい瞳で、至近距離で覗き込まれる。恐る恐るのように頬を撫でられて、さくらはぼうっとなる。

「あ、あ、あの、島田さん、ええと」

 まるで恋人同士のようだ。さくらが戸惑った声をあげると、島田は「ごめん!」と慌てたようにさくらを解放した。

「ど、どうしてここに? そうだ、それから、昨日どこに泊まってた?」

 真剣な顔で尋ねられ、

「え? ……ええとあの」

 どうしてその事を知っているのだろうと首を傾げる。河野が言ったのだろうか? そんなさくらを島田はさらに驚かせた。

「家出したって、お母さんがここまで探しに来た」

「ええええ、うそ――!」

 一番迷惑をかけたくなかった人に、最悪な形で迷惑をかけていた事を知ってさくらは卒倒しそうになった。

「申し訳ありませんでした!」

 思わず床に頭を着けて土下座するさくらを、島田が慌てて「やめて。大丈夫だって」と止める。

「実はお母さんがさっきまでここに居たんだ。俺が熱出して外で倒れたら、家まで送ってくれて、卵酒作ってもらった」

「……はぁ……? あの母がですか?」

 天変地異ではないかとさくらは耳を疑った。

「アルコールがあんまり飛んでなかったみたいで酔っちゃったけど、寒気が治まって、随分助かったよ。――で、ええと、なんでここにいるわけ?」

 改めて質問を繰り返され、さくらは簡単に答えた。

「あの、実はしばらく河野さんのお家でお世話になっていて、それで、あの、お遣いを頼まれたんです」

 とたん島田は呻くように呟く。

「……あいつ、何もかも知ってて俺で遊んでたな……うあー……ムカつく」

 腐る島田に対して、さくらは一応フォローを入れる。

「いえ、すごく心配されてましたけど」

 だが島田ははぁあと大きなため息をつくばかり。

「なんだかんだで、随分気に入られているんだな。まあ、最後の砦だからしょうがない……あぁ……つまり、だから来てくれたのか」

 何か一人で会得したあと、島田は「姉ちゃんは無視して大丈夫だから。わざわざありがとう」と気まずそうに苦笑いをする。

 どうも追い出されそうになっている。もうもたもたしていられないとさくらは大きく息を吸う。

 心に刻む。

 自分の生き方は、自分で決めるのだ。

「いえ、ここには私の意志で来たんです」

 島田は目を見開いた。

「……私、島田さんが、好きです。だから、」

 ここにいてもいいですか――と最後まで口にする前に、唇が塞がれた。あまりの甘さにぼうっとなっていると、

「ここでそれ言うの、反則……って、そういう覚悟はまだなさそうだよな」

 島田は唇を浮かせて、少し愚痴っぽく言う。

 ここが寝室だと思い出し、動揺する。

(そういうって……そういう?)

 至近距離にある、熱っぽい瞳が彼の気持ちを代弁している気がした。だけど頷くのが恥ずかしい。さくらが、動きが取れなくなっていると、彼は「さくらちゃんの心だけは読めてもいいのに」とつぶやきながらもう一つ啄むようなキスをくれた。

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