29 止んだ雨と星空

 午後七時半。カツカツとハイヒールの高い音が表で響いたかと思うと玄関のドアが開き、河野が姿を見せた。

「ただいまぁ!」

 エコバックがどさどさと玄関に並べられる。タタタっと小さな足音が鳴り、母親の帰宅を待ちわびた少女が玄関に駆けつける。

「ママ! おかえりなさい!」

「いい子にしてた? 我が儘言ってさくらちゃんを困らせてない?」

「えー? いい子にしてたよぅ?」

 もじもじと振り返った少女――河野の娘、奈々が「そうだよねぇ?」とさくらを見上げた。どんぐり眼が多少不安に曇っている。

「奈々ちゃん、すごくいい子にしてましたよ。ええと……本当にご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」

 ガスの火をつけ、手際よく夕食の準備に取りかかる河野に向かって、さくらはぺこりと頭を下げる。

「いいのよ。っていうか、こっちこそごめんねぇ。奈々の面倒みてもらっちゃって。遊び相手に飢えてるのよ」

 さくらは、それは良かったとはにかむ。いつもお世話になりっぱなしなのだ。少しでも役に立てたのは純粋に嬉しい。

 河野は慌ただしく洗濯物を取り込んだり、風呂の掃除をしたりしている。さくらはやっておくと申し出たが、お客さんはゆっくりしておいてと頑固に断られたのだ。

「えっと、河野さん」

 忙しそうに動き回る河野にさくらは声をかける。

「なあに?」

「そろそろお暇しようと思ってるんですが」

「うーん、まだたった二日よ? もうちょっと居た方が効果的だと思うんだけどねえ。今週いっぱい旦那も居ないし、ゆっくりして行っていいのよ? こっちもいろいろ楽しいし」

 提案されるが、さくらは首を横に振った。

「いえ。さすがにこれ以上はご迷惑おかけしたくないんで」

「迷惑じゃないわよー。奈々の相手してもらえてホント助かっちゃった。私が仕事仕事で日頃遊んであげられないから、鬱憤溜まってたみたいだし――あ! お鍋噴いてる! とにかく、夜ご飯くらい食べて行ってね、もう作っちゃったし!」

 そう言うと、鍋の吹きこぼれる音に河野は呼び出されていった。



 さくらはほっと息をつくと、現在のこの状況を作り出した、昨日のでき事に思いを馳せた。

 階段を降りたところで出会った河野は、何もかも察した顔で「もし一緒に仕事するのが気まずいなら、別の仕事を紹介してあげられるわよ?」と言ったのだ。

 少し悩んだが、さくらは泣き続けたあの日のうちに、もう決めていた。

(お母さんの手を離そう。きちんと自立してから、今度は私から告白し直そう)

 と。

「私、島田さんを諦めてはいないんです。だから辞めるわけにはいきません」

 河野はそれを聞くと、嬉しそうに笑って、「そういう事なら一石二鳥――いや三鳥くらいの案があるのよねぇ」とさくらに一つの案を授けてくれた。

 それを受けての『プチ家出』をさくらは決行中なのだった。

 彼女が言うには、反抗はきちんと相手に分かる形でするべきだそうだ。そして若者の反抗と言えば家出が一番。昔、河野も親に反抗して家を飛び出したことがあるという。

 既に日曜にネットカフェに泊まったことを告げると、

「家出先は、うちにおいでね? 旦那が出張中なのよー」

 まごついているうちに押し切られ、大学から河野の家に直行することになった。

(それにしても一石三鳥の案って――二羽は、お母さんの事と奈々ちゃんの事で、まぁ分かるんだけど……あと一羽って何だろ)

 ぼんやりしていると、

「さくらちゃん、ご飯できるまでゲームしよー!」

 奈々に、にゅっとテレビゲームのコントローラーを差し出され、さくらは我に返った。

 河野の娘、奈々は小学校二年生で学童保育に行っているが、午後六時から河野が仕事を終えて帰ってくるまでは家に一人なのだそうだ。一時間ほどのことだけれど、寂しい想いをしているらしい。河野が必死で仕事を終わらせているのはそのせいなのだ。

 対戦相手がいるとやはり盛り上がるのだろう。奈々に何度も付き合わされてゲームの腕が無駄に上がってしまった。

「いいよ。でも、もう帰らないといけないからあと一回にしておこうね?」

 苦笑いをしながらさくらが答えると、奈々は「ええー? 帰っちゃうの?」と不満を漏らす。

「また遊んでくれるん? 今度のお休みは遊べるー?」

 すっかり懐かれたらしい。懇願されてさくらは首をひねった。今は非常時だからこうしてお世話になっているが、上司の家にそう何度も遊びに来るわけにはいかないだろうし、――何より、河野は島田の姉である。島田に近づくための理由にしているみたいで、落ち着かない。

「うーん、家も遠いし、時間があったらね?」

 無難に返事をすると、遠回しな拒絶を感じ取ったのか奈々は丸くて柔らかそうな頬を膨らます。

「あーあ。さくらちゃんがけいすけにいちゃんのお嫁さんになってくれればいいのにー。そしたらおうち近いからいつでも遊べるのになぁ」

 無邪気にませたことを言われて、さくらは不意を討たれた。自分で切り離した未来がぶわっと思い出されて、ぐっと胸が詰まる。

「……そ、そうなれば、いいね」

 やっとの思いでそう言うと、さくらは潤んだ目をごまかそうと硬い笑みを浮かべた。



 夕食をご馳走になったあと、さくらは礼を言って河野家を出た。別れ際奈々に泣きつかれ、後ろ髪を引かれつつ家路に着くと、アパートの前に見慣れた人影を見つけてどきりとする。

 母は雨の中、傘をさしてアパートのさくらの部屋の扉をぼうっと見つめていた。

 もしかしたら日曜からずっとこうして待っていたのかもしれない。そう思うと罪悪感で胸がキリキリと痛んだ。

 だが、もうここで逃げては全てが水の泡。気合いを入れて足を踏みしめるようにして母に近づいた。

「どこ行っとったんね?」

 張り手の一発くらいは覚悟していたさくらに、意外にも落ち着いた声がかかった。

「知り合いの家」

 拍子抜けしながらも半ば言い捨てるようにして、さくらは母の隣をすり抜ける。

 着いて来ようとする母にさくらは向き合うと、「家には入れんけん、もう帰って」と息巻いた。

「この間言ったやろ。もう、お母さんの言いなりにはならんけんね。また監視みたいなことしたら、いつでもこうやって同じ事するけん。もう、私も大人なんよ。自分の事くらい自分で決める。いつまでも子供みたいに構わんで」

一気にそう言って、ぎり、と睨みつけるが、

「そうね」

 やはり静かな声で母は言う。自分だけがむきになっているようで、まるであしらわれているみたいだと頭に血が上った。

(なんで? これじゃあペースが崩れる)

 作戦の一つだろうか。ならば相手にしないのが一番かもしれない。さくらは母に背を向けると解錠をしようとした。だが、鍵を差し込む直前、背中に声がかかる。

「少しだけでいいけん、お母さんの話を聞き」

「…………」

 さくらは鍵を構えた姿勢で固まった。どうせいつもの『あんたのために言っとるんやけんね』という定型文の説教だろう――ならばさらりと受け流せば良いと思った。

 だが、母の言葉はさくらが予想していたものと違っていた。

「あんたが馬鹿な事したら、悲しむのはあんたの将来の旦那さんやけんね。そこだけはよく考えて行動し」

「……は?」

 意外な言葉に思わずさくらは頑さを解いて振り向いた。

 主張は同じ。だがいつもとは違う切り口に呆然とするさくらに、母は一歩近づく。

「あの島田って子、顔だけかと思ったけど、割とまともな男やった。あれ、末っ子やろ。少し頼りないところとか、甘ったれとるところとか、お酒弱いところとか――お父さんに似とる」

 母は何かを思い出したかのようにふふと笑った。

「お母さん?」

 空耳だろうか。今、島田を認めるような発言がその口から漏れたような。

 どういう心境の変化だろうとさくらが眉をひそめていると、母はくるりと後ろを向いて一歩踏み出した。

「あの子、一回家に連れてきんしゃい。あれだけ言ってまだついて来るくらいなら、見込みもあるやろ」

 母が去り際にぽつりとこぼした言葉に、さくらはぽかんと口を開ける。

「え、――でも」

 連れて来いも何も、振られたし――さくらがそう漏らす頃には母の姿は見えなくなっていた。母が一体何を言っているのかわからず、さくらは見開いた目をしばたたかせるだけだった。

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