27 雨音に混じって

 髪から雨のしずくが滴っている。母が傘を差し出してもはねのける。

 強引に家に連れ帰ろうとする母を、さくらは全身全霊で拒絶した。失恋の痛手は大きかったけれど、だからと言って母の手を取る気にはならなかった。

 おそらく生まれて初めて本気で母に反抗した。島田がさくらの何にがっかりしたか分かったから。

「もう二度とお母さんの言いなりにはならない。自分の生き方は、自分で決める」

 何度もそう言った。母に向かっても、自分に向かっても。

 さくらを無事に取り返したつもりでいたのだろう。思わぬ抵抗に根負けした母はとうとう言った。

「お母さんは帰るけん……。風邪引くよ。あんたも家に入り」

 深い溜息が落ちる。母の嘆きに思えたけれど、さくらは無言のまま一人アパートへと入った。

 部屋は酷く殺風景で寒々しかった。万が一を予想して片付けていたけれど、連れて来る覚悟がないのでは意味がない。見せる勇気がない下着と同じ。

 さくらはどうしても籠から一歩を踏み出せなかった。

 いつか母の手を離すときが来る。自分でもそう思っていたのに、その時は過ぎ去ってしまった。チャンスの神様には前髪しかない。島田は教えてくれていたのに。さくらはそれをみすみす見逃した。

「《いつか》って、いつだよ。――ほんと、馬鹿みたい」

 自らの愚かさをひとしきり笑った後、子供のように泣いた。ずぶ濡れの服を脱ぎ捨てるとベッドに倒れ込んだ。

 身体が冷えきっているのに、頭だけが熱せられている。

 どうやったら島田を取り戻せるだろう、その事ばかりが頭の中を駆け巡った。いくら自分に無駄だと言い聞かせても諦めがつかなかった。

 だが、ふとさくらの頭に、一つの言葉が降ってきた。

「そうだ」

 それは奇しくも、自分が叫んだ言葉だった。さくらは小さく口に出す。自分の覚悟を決めるために。


「失敗してもいいんよ。なんもせんで後悔するくらいやったらね」



 *



 月曜日。出勤に合わせたように雨脚が強まった。土曜日から降り続く冷たい雨は、もうすぐ雪になるかもしれないと言っていた。

 乾いた咳をしながら島田はオフィスの階段を上る。土曜日、雨に打たれて帰ったせいだろうか、昨日から調子が悪かったが、どうやら少し熱が出ている。

 傘を畳むと大粒の水滴がコンクリートの床に水玉模様を描いた。靴は水を吸い、スーツの裾も濡れている。這い上がる寒気に一つ震えた島田は、オフィスの玄関に人影を見つけてぎょっとした。

「おはようございます」

 一瞬誰か分からなかったのは、今が朝であること。それから彼女の肩下まであった髪がばっさり切られていたからだ。

「さ、」

 思わず出かかった言葉を飲み込むと、言い直す。

「片桐さん、髪……」

 そのまま絶句すると、さくらは微かに笑顔を浮かべて襟足を撫でた。

「ええと、決意表明です。気合い、入れようと思って」

(気合い?)

 島田は聞き間違いかと首を傾げかけたが、釘付けになったままの目から入る情報にすぐに意識を引き戻される。

 項が見えるほどの随分思い切ったショートは、中性的な顔にひどく似合っていた。

 その姿にもだが、正直驚いた。きっと今日は理由を付けて休むと思っていた。島田も定時で上がって、顔を合わせるのを避けるつもりだったのだ。一体、いつから待っていたのだろう。

(こういう子なんだよな)

 面接で、姉や島田の意地悪な対応にも屈しなかった。仕事も途中で放り出した事は一度もない。上原も最初から根性だけは誉めていた気がするし、島田も真正面から物事に立ち向かう彼女が好きだった。そういうところから惹かれ始めたのだ。

 さくらの母との戦いでは、惨敗だった。けれど、未練は有り余るほどにあった。身を引いたことを後悔しそうになり、島田は己の意思の弱さを叱咤する。顔を見ていられなくて絡まった視線を無理矢理に振り切った。

「……島田さん」

 目を逸らしたことに傷ついたのだろうか。さくらは苦しげな声を出し、島田は胸が詰まる。

「何?」

 覚悟を孕んだ声色に、それを言うためにわざわざやってきたのだろうと思い当たった。言われることを予想して身構える島田に、さくらは言った。

「私、ここを辞めなくてもいいですか?」

「……え」

 予想していた言葉と真逆の言葉。島田はあっけにとられた。もちろん振られたから辞めさせようなどと考えてはいないが、まさか自分からそう言って来るとは思わなかった。

「……当然。プライベートは仕事には関係ないし――今辞められると困るよ」

 勝手かもしれないが、それは経営側としては本音だった。人手は足りないし、補充も難しい。すでに戦力であるさくらがいなければ仕事は回らない。

「良かった。仕事がなくなったら路頭に迷ってしまうところでした」

 さくらは弱々しく笑う。実家に帰って、家の近くで就職する――母の手を取るという選択はしないらしい。

(なぜだ? それなら、なんで俺の手を取らなかった? もし俺の手を取ってくれれば、全力で守ったのに)

 さくらを助けてやりたかった。自分が母との間に入って、適切な距離を与えてやりたかったのだ。

 詰め寄りたかったけれど、今更言ってもしょうがない。

 彼女にとって島田は守ってもらうに値しない男なのだ。それが残酷な事実。

 胸の痛みをじっと堪えていると、さくらはぺこりと頭を下げた。

「――私、頑張ります。今まで以上に」

 何か決意をしたような目で真っ直ぐに見つめられる。意図が知りたくてじっと見つめるが、雨音以外何も聞こえてこない。

(やっぱり、もう聞こえないのか)

 兆しはあった気がする。さくらに惹かれれば惹かれるほど、幻聴は薄まり、伴って蕁麻疹も出なくなった。そして、さくらに告白したあの夜――おそらくは、さくらがSHIMADAで働いている島田を認めてくれたあの時以降だ――島田は、さくらの心の声がまったく聞こえなくなった。

 だから、島田にはわからなかった。彼女がどうして島田の手を取ってくれなかったのか。そして、どうしてこうして会いに来てくれたのか、どうしてもわからなかった。

 これが普通なのだ。完治したことを喜ぶべきだったけれど、どうしてあの瞬間なのだろう。今こそ、あの声が必要なのに、ともどかしい。

 島田が上の空になっているうちに、

「だから、……………さい」

 雨音に混じって小さな声が聞こえた気がした。

「え?」

 問い返したときには、既にさくらの姿は見えなくなっていた。

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