26 告白と論理演算

 ケーキの味もよく分からないまま、それでも夢中で食べた。夢中であるふりをした。

 島田は何か言いたげにしていたけれど、情報の処理が追いつかなかった。頭を整理する時間が欲しかったし、せめて酔いを覚ましたかったのだった。

 日暮れが早い時期、八時過ぎは真夜中にも感じた。オリオンの輝く夜空から吹きおりて来る風は氷のように冷たく、混乱したの頭を徐々に覚ましていく。

 家まで送ると言われ、さくらは素直に従っていた。だが会話はないままに、いつしか家の前の道を歩いていた。深呼吸で体の中の熱を追い出すと、さくらは思い切って口を開いた。訊いて撃沈するのは怖いけれど、訊かないまま今日を終えるわけにはいかないと思ったのだ。

「どうして、こんな風に誘ってくれたんですか」

 アパートのドアの前まで来て、ようやく口に出せた問いに、二人の間にあった沈黙が消えた。

 いくら考えても、さくらには本当にわからなかった。

 冗談みたいに茶化していたけれど、島田は本当に大会社の跡取り息子だった。そんな人が、さくらを誘うなど、理由が思いつかないのだ。

 島田は少し考えてから答える。

「俺さ。さくらちゃんと飯食うの、ホントに楽しいんだよね。俺、B級グルメ、めちゃくちゃ好きなんだけど、たいてい嫌な顔されんの。本気で喜んでくれたのさくらちゃんくらい」

(ああなんだ。そういうこと。好きなものを食べるのに、ちょうどいい連れだったってことか……)

 それならと納得する。自意識過剰もいいところだと笑い飛ばそうとするけれど、どうしても心がしょぼくれる。

 すると、島田は少し焦った様子で「だから、えっと違うんだ」と続ける。

「俺、さくらちゃんを正々堂々と飯に誘う理由が欲しいんだよね」

「理由?」

「まず君は理由がないと誘いに乗って来ないし。最初は歓迎会、次は独身男の寂しい夕食のメシとも。逆に理由があればすぐに乗るし。……上原の誘いもお礼って言われてほいほい受けてた」

「…………」

 これはもしかしてものすごく酔っているのだろうか。回りくどい。妙に愚痴っぽい。仕事では理路整然と話す人なのに。島田の意外な一面にさくらは驚く。

「俺は単純にさくらちゃんと一緒にこんな風に美味いメシを食いたかった。楽しい話をしたかった。いつもの店じゃ食うだけで話もできないだろう? 仕事頑張ったら、ご褒美とかそういうのでもいいけどさ、毎週だと、理由もネタ切れ」

 島田はそこまで言うと、真面目な顔になる。

「だから、俺は、君と付き合いたい。それなら一緒にメシを食べる理由にもなるだろう?」

 さくらは戸惑う。

(付き合いたいって……これ、って……告白……?)

 だとしたら、今頃頬が真っ赤に染まっているはずなのだけれど、何かがさくらの生理現象を阻害する。

(いや、でも何か、話の組み立て方がおかしいような……)

「えっと、一緒にご飯を食べるためには、付き合わなければならない……ってのは『真』じゃない気が」

 どうやら場違いな論理演算がときめきの邪魔をしているようだった。だけど、ここをはっきりしていないと島田が不幸になると思った。

「つまり『メシとも』を続けたいから、私と付き合いたいんですか? それだったら、別に付き合わなくてお友達でも条件は満たせるかと――」

 反射的に論理の穴を埋めると、

「…………」

 島田が不機嫌そうに眉を寄せる。

(あ、怒らせた)

 そう思った直後、背中がドアに押し付けられる。

「え? またもや壁ドンです――か……!?」

 先日、怒り顔で諭されたばかり。同じパターンかと油断して顔を上げると、

(え?)

 唇の上に柔らかい感触が降って来た。

「当然、メシだけじゃない。は『お友達』じゃできないよな?」

 呆然となったさくらが真っ先に考えたのは、

(あ、歯磨くの、忘れた)

 ということ。

 そして、次にぽんと脊髄反射のように浮かんだのは、なぜか

(どうやって断ろう)

 ということだった。

「……あれ……?」

 その声に我に返ると、島田は目を見開き、口元を抑えていた。信じられないとでも言うように、小さく横に首を振る。

「なんか変だと思ったら……聞こえない……? あれ、いつから?」

「わ、私、まだ何も言ってないですよね?」

 なんで断ろうと思ったのかがわからなかった。もしかして本当に断ってしまったのだろうかと慌てる。だが島田は、さくらよりもさらに動揺している様子だった。

「うん、だから、返事が、聞きたい。聞かせて。今更わかんないって――ほんと、どうして」

 肩に額を押し付けられる。島田の体温を肩に感じて、さくらは飛び上がりそうになる。

「あ、あの、島田さん? どうされたんです?」

「ごめん、俺、今、ちょっとわけわかんなくて、どうにかなりそう。あぁ、もしかして眼鏡が邪魔なのか」

 島田がなぜか急に眼鏡を外す。そして、さくらの二の腕を掴み、食い入るように見つめてきた。

「じゃ、邪魔って――一体どういう……」

 後ろにはドア、前には島田の素顔――の、どアップだ。

 まつげが意外に長い。涙袋があって、それが目元に色気を添えている。

 ――などと観察する余裕は、あっという間に吹っ飛んだ。一気に顔が赤らむのがわかる。この唇が、さくらの唇に触れたのだと、今頃になって実感したのだった。 

(ふわああああ! っていうか、私だってどうにかなりそうなんですけど!)

 色気に当てられて鼻血が出そうだと思った、次の瞬間だった。

「あんたたち、何しよるとね!!」

 間違えようのない声に、さくらは思わず島田の手を振り切った。心臓が止まるかと思う。島田の肩越しには、母小百合が腰に手を当てて仁王のように待ち構えていたのだった。

「急に洒落た格好しとったしね、この間もなんか変やったと思って来てみたら、男ん人、家に入れるとか何考えとるとね! さくら、帰るよ。すぐにアパート引き払って、実家に帰るけんね。仕事も辞めさせてもらい」

 頭に血が上っている。母の手がさくらの手を引く。

「やめて。お母さん! ちがうって! 思っとるのと違うって!」

 わがままを言う幼子が引きずられていくように見えるのではないか、とさくらは思う。頭のなかではどうしようどうしようと答えの出ない問いが駆け巡っていた。

 アパートのドアの前でのキスと抱擁(に見えたかもしれない)。傍目から見れば、母が言うように見えても仕方がない。言い訳のしようがない。これでは、島田を守れない。

「待ってください。話を聞いてもらえませんか」

 島田が血相を変えて追って来るが、母は立ち止まらずに言った。

「なんね、世間知らずの娘をこんな風に騙して手ぇ出して! あんた副社長とかいいよったろ。どうせ金に物言わせて都合よく囲うつもりなんやろ。さくらは騙せても私は騙されんよ!」

「何言いようとって!」

 叫ぶように言うが、母の放言は止まらない。

「手をつけるだけつけて責任とらん男なんかいっぱいおる。若い子で適当に遊ぶつもりなんやろ。こんな妙な男に引っかかって、後で泣いて後悔しても誰も助けてくれんとよ!」

「島田さんはそんなんやないよ」

 島田を尊敬していた。憧れていた。ずっと一緒に仕事をしていたかった。彼が言うように、もっと一緒にご飯を食べたかった。そして、キスだって、驚いたけれど、嬉しかった。

 論理演算などなくても、この感情に名前をつけるのは難しくない。

(だけど――)

 やはり、こんな母がいるさくらには、恋など無縁なのだと思い知った。

 全てが終わったと、さくらは絶望的な気分で島田を見る。

 彼の苦々しい表情が高校の時の彼と重なる。怖くて目をつぶる。

『ごめん、やっぱり無理。さっきのナシにして』

 ――そんな声が耳に響いた気がした。きっと始まりもせずに、終わりの声を聞くことになる。高校生の、あの時みたいに。

「島田さん、ごめんなさい」

 母の手を取って逃げ出そうとしたとき、

「目を開けて、よく周りを見て。さくらちゃん、君はもうすぐ卒業するんだよ。大学からも、お母さんからもね」

 声に導かれるように目を開けると、島田は真剣な面持ちで手を差し出していた。

「え? 卒業?」

 何を言われているか分からずに、聞き返す。島田は新人に仕事を説明するような丁寧さで、話を始めた。

「卒業して就職したら、君は自由だ。だって自分の力で生きていけるんだ。もう束縛される理由はない。俺は、今でさえ君が干渉されるのはおかしい気がしてるくらいだ。奨学金とバイト代で既に自活しているのに、どうしてさくらちゃんはお母さんから離れない?」

「あんた、なに勝手なこと言いよるんね。ひとんちのことに口出しせんどって! さくら、聞かんでいいけんね!」

 母がきいっと遮るが、島田は母に一瞥もくれずにさくらをじっと見つめたままだ。俺の言うことを、聞いてくれ。彼の目は訴えていた。

「俺、この間聞いた。さくらちゃんがお母さんに言ってるの。『失敗してもいいんよ。なんもせんで後悔するくらいやったらね』って。ここで俺から逃げても、将来同じ事が起こる。その度に後悔しつづけるのか?」

「それは、仕事の事やろ」

 母が横から口出しするが、島田は譲らない。珍しく鋭い声で母の影に隠れたさくらを責めた。

「仕事も恋愛も、同じ事だ。人を好きになるのに親の了承なんかいるかよ! 君はもう、子供じゃない。自分のことくらい、自分で決めるんだ」

「…………」

 ――もう子供扱いせんとって。自分のことくらい、自分で決めるって!――

 島田に言われたからではない。自分で放った言葉に責め立てられ、さくらは何も言えずに涙を拭いた。

(束縛、されてたんじゃない。私、自分で選んで籠の中にいたんだ)

 依存しているのは母だけではない。さくらもまた母に依存している。母の手を振り切るのが怖い。母との関係が壊れるのが怖かった。気づかされて、途方に暮れた。

 そんなさくらに島田は優しく囁いた。

「一人で立つのは怖いかもしれない。でも勇気を出して。一歩ずつでいいから離れてみて。転びそうになったら、俺が支えるから」

 聞いたとたん、さくらはもう駄目だと思った。過去のトラウマのせいで、恋をしないようにしていた。島田のことを意識しないようにしていた。だけど、この人が好きだ。私にはこの人しかいない。

「選んで。俺を選んでくれ」

 島田に手を伸ばしかける。だが、母がさくらの手首をぎゅっと握りしめた。見ると、母は真剣な目でさくらを見つめている。

「お母さんの言うことを、聞けんのね? お母さんは、断固反対するけんね」

 そんな横暴な言葉とは裏腹に、母の手は震えていた。母の目は、訴えていた。

『あんたが、心配なんよ。あんたに苦労してほしくないとよ――お母さんから、離れていかんで』

 急に母が小さく見える。彼の手を取れば、母を切り捨てることになるのかもしれない。

 そう思ったとたん、母との思い出がぶわりと脳裏に蘇った。いつもは嫌なところばかり。なのに、今はなぜか、楽しいこと、嬉しいことばかりが浮かんでくる。

 それは枷となり、さくらを雁字搦めにする。

 干渉されてずっと鬱陶しかった。けれど、それでもさくらはこの母が大事なのだ。この世にたった一人の母親だから当たり前かもしれないけれど。島田をかけがえがないと思うのと同じくらいに、大事なのだ。

(どちらかなんて、選べない。いつか選ばなければならないとしても、今はできない)

「今じゃなきゃ、だめなんですか」

 さくらの声とともにぽつり、ぽつりと雨が降り始める。アスファルトが水玉模様になったかと思うと、真っ黒に塗りつぶされていく。

「今じゃなかったら、いつ?」

 島田は手を降ろさなかった。逃げてはだめだと訴え続けた。

 そうだった、厳しい人だとさくらは思い出す。そして厳しい人だから、さくらはこの人が好きなのだ。

 氷のような雨だった。濡れた体がどんどん冷えていき、さくらは自分が凍ってしまったのではないかと錯覚する。それほどに、動きが取れなかった。

 やがて小さなため息をが落ちる。

「そっか。分かった」

 無理言ってごめんね、と島田は笑う。だけど、その笑顔はいつものひだまりのような笑顔ではなく、営業用に作られた、とても綺麗で、冷たい笑顔だった。

「じゃあ、さよなら。――月曜日に、また」

 もう二度と彼はさくらを名前で呼ばないだろう。あの笑顔を見ることもできないだろう。確信したとたん、自分が何を失ったか思い知ったさくらは、地面に崩れ落ちた。

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