25 Happy Birthday

 微かに泡立つ淡い色のカクテルはモスコミュールだそうだ。ライムの輪切りが浮いている。食前にビールを一杯くらいしか飲まないさくらは、いつも酒よりも食べ物に目移りするためカクテルには全く詳しくない。炭酸の入った甘く軽い飲みもので、ジュースのようだ。それほど酒が好きではないさくらでもたくさん飲めそうな味だった。

 緊張のあまり異常に喉が渇いていたさくらは、すでにグラスの半分ほどを空けていた。

 緊張の理由はいくつもあった。

 その一。島田のスーツ以外の姿を見たのは初めてだったこと。そしてその姿が予想外に素敵だったことだ。

 髪型をラフに崩し、黒の薄手のセーターにヴィンテージジーンズ。足元はショートブーツ。まったく気取っていないのだが、おそらく質が良いものなのだろう。また、黒縁眼鏡の雰囲気がその服装に合っているため、普段の野暮ったさが全く無い。

 その二。今いる店は、以前歓迎会で来たことのある店、『1969』である。今日の席はカウンターではなく、奥のテーブル席だ。

 店に連れて来てもらったさくらは、少なからず動揺した。

 島田は「ここ、本当に美味いんだ。この間は食い逸れたから」と苦笑いしていたが、さくらは最初に夕食に誘われた時の事を思い出さずにいられなかった。

 どうやら島田のお気に入りの店。こんな風に二度目の誘いがあるならば、あのときの誘いは、友人たちが言うように歓迎会じゃなかったのかも。そんな気がして来てしょうがない。

 そして。その三にして一番の理由は、島田にこれから言われるであろう言葉に、さくらが怯えてしまっているからだった。


 件の残業事件の翌日、研究室で友人二人に相談したものの、狂喜乱舞した二人が言うことは、程度は違えど似たようなことだった。

『ニンニク料理は避けたほうがいいけど、和食以外にあたったらほぼ入ってるから、基本的に歯ブラシ持参。りんごジュースも!』

 と広瀬より。

『とりあえずパンツは新品にしておけ。あと絶対上下セットのヤツね』

 と藤沢より。

 さくらはその手の心配は絶対ないと言い切ったが、念には念を入れろとのこと。

 二人とも助言に関する経験はあるのだろうか。いや、あるからこそのアドバイスなのだろうが、そこのところを問うと、上手くいけばまた相談に乗ってあげると躱されてしまった。

 もっと別の相談――例えば島田がさくらを誘った理由についてだ――をしたかったというのに、そんなの分かり切っているとあっさり飛ばされた。そして服は何がいいと勝手に盛り上がったあげく、最後に重要なことだからと、先ほどの助言をそれぞれに耳打ちしてくれたのだ。

 鼻で笑いたかったさくらだが、結局日曜日にこっそりと買い物に行ってしまった。バッグの中にはしっかりと買い込んだ歯ブラシセットとりんごジュースが入っている。そしていつもより綺麗目な服の下には、清水の舞台から飛び降りるような気分で買った、給料の十分の一ほどの値段の下着。余所のお嬢さんはどうか知らないが、金欠のさくらにとって大奮発である。

(私は、何かを期待してるわけ?)

 もしかしたら仕事の話に終始して告白などされないかもしれないというのに、気合いの入った下着を身に着けている。食後に歯を磨かねばと思っている。備えあれば憂いなしと押し切られたが、考えれば考えるほど無駄に思えてきた。客観的に見ると自意識過剰が過ぎて泣けて来るくらいだ。

(いいんだよ、どっちも無駄になるわけじゃないし!)

 歯ブラシは家で使えばいいし、りんごジュースは飲めば美味しい。下着は洗ってしまっておけば、いつか使うかもしれない。使う機会がなければ、勿体ないが普段使いにすればいい。

 ぐちぐち考えていると、島田がなぜか気まずそうにメニューをとってカクテルの追加を促した。気が付けば一杯目が空になっていた。

「何を飲む?」

「ええと、詳しくないので。同じのでいいです」

 いつもはソフトドリンクといくところだが、珍しく二杯目を頼む。すでに少しフワフワとした気分だったが、飲んでいたほうが、気が紛れそうだった。

「じゃあ、ビールとモスコミュールを一杯ずつ」

 島田が注文し、さくらは問う。

「島田さんはいつもビールだけなんですか?」

「ウイスキーとかも飲むけど、俺そんなに酒が強い方じゃないし。さくらちゃんは?」

「飲む機会があんまり無くて。両親が飲む方なんで、弱いわけじゃないと思いますけど」

 ビールなら三杯くらいは平気だったと思う。そう言うと、島田は少しほっとした様子で、「今日はあんまり食べないね」と笑う。

 さくらはテーブルに広げられている料理を見やった。生春巻きに始まり、白身魚のカルパッチョ、スペアリブの香草焼きにオマール海老のクリームパスタ。多国籍料理の店らしく出て来るものは国籍不明な感じだった。全て美味しかったけれど、緊張であまり入らない。大学入試前でもこんなに緊張しなかった。

「島田さんこそ」

「俺もあんまり食欲なくって」

「え、大丈夫ですか?」

「大丈夫――ってかメンタル弱すぎて参る」と島田はお腹を擦る。そしておもむろに紙袋から茶封筒を取り出す。

「なんですか? それ」

「この間の仕事だけど」

 さくらの問いに答えず、島田は勝手に話を進める。何か関係があるのだろうかと不思議に思いながらも、さくらは話題に乗った。

「上手くいくといいですね」

 今週の始めに島田が客先に案を持ち込んだ。現在検討中で採用不採用の結果待ちなのだ。入試の合格発表のような気分を久々に味わっているところだった。

「全力は尽くしたし期待して待とう。もし今回駄目でも、あのデザインはいつか絶対使えるよ。次回のカタログにも載せようと思ってるし。……それにしても、さくらちゃんがあんなイラスト描けるって知らなかったな」

「履歴書に書かなかったですかね」

「使えるアプリしか書いてなかったかな。……他にも書いてなかったことはあったけど」

「そうですか?」

 何か重要な書き漏らしがあっただろうかと首を傾げる。

「履歴書で分かることは、住所、名前、電話番号、学歴、職歴、特技。――それから生年月日くらい、かな」

 最後に付け加えられた言葉に頬が染まる。誤摩化すようにカクテルに手を付ける。

 島田は何食わぬ顔でビールを飲むと話を続けた。

「書いてくれれば良かったのに。そうしたらもうちょっと早くからそういう仕事回したんだけど。趣味も書く欄はあるだろう?」

 さくらは苦笑いをする。絵は趣味には成り得なかった。絵を楽しく描けるようになったのは、本当に最近のことだから。

「……しばらく描いてなかったんです。絵は、ずっと前に、諦めていたんで」

 何を話そうとしているのだろう。さくらは自分で自分に問う。だが、飲んだ酒のせいなのか、過去を閉じ込めていた心の鍵が緩んでいる。口が軽くなっている。

「中学高校で私、美術部だったんです。でも、私の実力じゃ絵で食べていくのは無理だって親に言われて、そっち方面の進路諦めたんです。たまたま成績は程々に良かったんで、大学も無事に合格したし、研究も楽しかったんですけど……でも、そのことをずっと悔やんでて。どうしてあのときもっと真剣に訴えなかったんだろうって。やってみなければ分からないって頑張れなかったんだろうって」

 それを思い出させてくれたのは島田の言葉だった。

(ああ、私、伝えたかっんだ)

 伝えそびれていた感謝の気持ちが、口から出る言葉に乗る。

「久々にああやって描けて、私、すごく嬉しかったんです。大事な仕事だったのに、任せて下さって、ありがとうございました」

 島田は「うん」と照れくさそうに頷いた後、しばし黙り込む。何か迷っている様子の彼は、やがて、ひどく真剣な顔でさくらを見つめた。

「あのさ、変なこと訊くかもしれないけど」

「なんですか?」

 ガラリと変わった雰囲気に押され、さくらは身構える。

「規模がすごく小さい会社で、給料は少ない。残業は多い。だけど、好きな仕事ができるところ。それと大会社で、給料は高くて残業はない、比較的楽でおしゃれな仕事。さくらちゃんなら、どっちを選ぶ?」

 なぜか、言外に別のことを問われているような気がした。

 だから、慎重に心に問う。きらびやかな職場に憧れないと言えば嘘かもしれない。だけど、給料や待遇みたいな付属物には、囚われたくない。囚われれば、きっと大事なものを見失う。今までのさくらのように。

「小さくても好きな仕事をできるところ、です」

「そっか――付属物には囚われない、か――やっぱり、さくらちゃんは、さくらちゃんだな」

「えっ」

 心の声が漏れていただろうか。焦るさくらの前で、島田は安心したように笑うと、目を閉じ、一度大きく深呼吸をした。

「これを、見てほしいんだ」

 そして先ほど出したばかりの茶封筒をさくらに手渡した。

 さくらはなんだろうと首を傾げながら、中身を出して――直後、目を見開く。

 中を開くと、社長あいさつと共に、名前と小さな写真が載っている。『島田英介』──おそらく社長なのだろうが、その顔に、あまりに見覚えがありすぎた。島田を五十代にしたらこんな風だろう、と思えるくらいに目元がそっくりだった。

 パンフレットに書かれた社名を、さくらは呆然と読み上げる。

「島田、美装? ――これ、って……」

 最初にその名を目にしたのは合コンの次の日だった。。間違っていたHPアドレスに触発され、途切れ途切れだった糸がじわりじわりとつながっていく。ミサちゃんの豹変ぶり。時折島田が見せる、小さなオフィスの従業員には似つかわしくない持ち物や、態度。そして、隠してもにじみ出る育ちの良さ。

 島田がひどく遠い人に思える。楽しかった日々が、急激に得難いものに思えてくる。

(いやだ、今までの島田さんでいて欲しい)

 とさくらは強く願った。だが、島田は小さく笑って「やっぱり、君は思ってたとおりの子だったな」とつぶやく。

 覚悟を湛えた目で見つめられ、さくらは息を呑む。

「この島田英介は、俺の父だ。俺は、将来この会社を継ぐ事になっている。今は経営者としての修行のために、会社を任されてるんだ」

 さくらは何も言えずに黙り込んだ。衝撃が大きすぎて、何と言えばいいのか、わからなかった。

「ごめん。ずっと言えなくて。さくらちゃんが望んでくれるように、ずっとこのままで、俺は俺のままでいたかった。けど、もうこれ以上、黙っておくわけにはいかないから」

 頭の中でぐわんぐわんと情報が暴れていた。

(話って、このことですか)

(どうして、今日、こんな話をするんですか)

 質問がぐるぐると回るが、何から問えばいいのかわからず、口にしかけては呑み込み、を繰り返す。

 のどが渇いて仕方がなくて、グラスを手にとると中身を一気に飲み干した。

「さ、さくらちゃん!? それ酒!」

 ぐらりと視界が回ったところで、それは運ばれて来た。

「あ、ケーキ……」

 小さいけれどホールケーキだった。この店、サービスいいな、と思って店員の手の上のそれをうっとりと見つめていたさくらだが、テーブルに置かれたものを真上から見て呆然とした。

 ケーキの上には『Happy Birthday』の文字が入ったプレートがあった。

「大丈夫? 読めるくらいには正気?」

 呆然と頷くと、島田がホッと一息。だけど、さくらの頭は考えることを拒否した。

(これ以上何かが起こったら、私、頭がパンクするよ……)

 島田はやれやれと苦笑いをして、店員から受け取ったライターでろうそくに火をつける。

「二十二歳の誕生日、おめでとう」

 島田の目の中でろうそくの炎が揺らめく。息をすることをしばらく忘れて、さくらはそれに魅入っていた。

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