23 冬の訪れとともに

 福岡の冬はある日突然のようにやって来る。上空に漂う寒気は、実は夜のうちに忍び寄っているのだが、昼間の日差しの暖かさについ忘れそうになることがしばしばあった。

 たった一日の違いなのに、十二月に入ったとたん、さくらは足元の冷えを急激に感じ、寝具に毛布を追加した。カレンダーをめくったときに冬のスイッチが入ってしまったのかもしれない。

 ストッキングはやめて、厚手のタイツに衣替え。そしてジャケットではなく紺色のウールのショートコートを衣装ケースから取り出した。それに落ち着いた赤のセーター、ベージュのツイードのスカートを合わせる。足元はショートブーツ。全て去年の冬にバーゲンで買ったものだったが、今年もなんとか活躍してくれそうだった。

 大学に行くだけならジーンズとセーター、それから厚手の靴下にするところだが、今日は久々にバイトがある日だったので、通勤に耐え得る服を着ているのだ。久々なのは、先日木曜の出勤から金曜日と月曜日を研究と就職活動で欠勤したからだ。

 卒業研究はみどりんの種菌を入手したことで、再び順調に進み出した。培養法も安定し、ミドリムシの中から一定量の葉緑体を取り出すことにも成功している。あとは論文に纏めていくだけだ。

 そして就職活動は以前より真剣に取り組んでいる。苦手で避けていた自己分析なども頑張った。

 自分の長所を考える、そして人の前で披露するなどなんたる羞恥プレイ。自分に自信のないさくらには苦行でしかない。しかしそれができる人間が、内定を掴んで来たのだ。『私にはできません』と言ってしまう人間より、たとえできることが少なかろうと、『私には○○ができます』と提示できる人間が魅力的なのは当たりまえだ。

 しかしそう簡単に結果が出るほど世の中は甘くない。一度に届いた不採用通知にため息をつきながら、さくらは時間を見つけては一人、求職票とにらめっこを続けていた。

「さくらちゃん、ちょっといい?」

 出勤するなり、内勤だった島田が接客ブースへさくらを呼んだ。

 なんだろうと顔を出すと、彼の手元には先日上原と作った原稿が置いてある。

「これ、さくらちゃんが元のイラストを描いたって?」

「……あ、はい。そうです」

 眼鏡の下の厳しい表情に、先日の島田の怒った顔を思い出す。同時に『行ってくればいい』と突き放されて、全く引き止められなかったことも。

 たった三十分の短い食事。それを特別な時間だと感じていたのはさくらだけだったのかもしれない。そんな想像は、休みの間もふとした時に蘇ってはさくらを苛んでいた。

 ソファに向かい合って座るが、島田はさくらと目を合わせない。そして「この間は――」と何か言おうとした後、結局口ごもった。沈黙が落ちる。

 何を言われるのだろう。さくらは身構える。島田は原稿に目を落としたまま、小さく首を振って口を開いた。

「昨日、これをお客さんに見てもらったんだけど、他のデザインも見てみたいって依頼があって」

「え?」

「今回二個分――この『といれ』二案と『ゆうぎしつ』一案の注文を貰えた」

 島田は三枚の原稿をテーブルに広げる。それはさくらが考えた三つ編みの女の子を象ったサインと、同じサイズで作った男の子のサイン。そして子供が手をつないでいるイラストのサインだった。

「ちゅ、注文取れたんですか!?」

 思わず声が裏返る。島田は力強く頷いた。

「特に『といれ』のサインが分かりやすいと気に入ってもらえた。もしできるなら男の子用ももうちょっと工夫が欲しいそうだけれど」

 さくらは半ば呆然としながらも『男の子用、工夫』とノートにメモを取る。興奮で手が震え、僅かに文字が歪んでいる。

 島田も気のせいか、いつもより早口。そして声が僅かに掠れている。

「上手くいけば同系列の幼稚園でいくつか追加注文がありそうだ。それに、設計中の高齢者向けの施設に合うものを作れないかって。何号室とかじゃなくて、花の名前を部屋に付けるそうだけど、覚えやすいようにぱっと見て分かりやすい表示ができないかって言われて、」

 そこでくすくすと笑い声が割り込んだ。

「けいちゃん、ちょっと落ち着いて。さくらちゃんのメモが追いついてないわよぉ?」

 パーティションの影から河野がひょいと顔を出して、さくらに向かって笑いかけた。

「ごめんねぇ。久々に大きな仕事が取れそうだから、皆ちょっと浮ついちゃってるの」

 島田は一度大きく息を吐いて肩の力を抜く。お茶を飲み、掠れた声を整えた。

「上原にも案を出させてる。だけど、二人で出した方がいい案が出るみたいだから、協力してやって欲しいんだ」

 そこで黙ってディスプレイに向かっていた上原がちらりとこちらを向いた。さくらを見ると『でかした』とでも言いそうな顔でにっと笑う。

 僅かに眉を寄せる島田に、河野がからかい混じりの声をかける。

「大事なお仕事だもん。背に腹はかえられないわよねえ?」

 島田はぎろりと河野を睨むと、さくらの前に一枚の紙を置いた。

「とにかく――今週中にこのリストにある花のデザインを作ってもらいたいんだ。できる?」

 島田が差し出したリストには、椿、薔薇、百合など、三十ほどの花の名が並んでいた。

「……」

 思わず絶句する。この間も『といれ』のデザインつに一時間は費やした。形の漠然とした『ゆうぎしつ』の案を作るのはもっとだ。

 さくらはやるべき作業を頭の中で組み立てる。花を図鑑で調べてトレース。そしてデフォルメするのにはきっとそれ以上の時間がかかりそうだった。今週は今日、火曜日を含めて三日しか出勤できない。つまり九時間で仕上げる必要がある。

 無理だ――計算ではすぐさまそう答えが出た。

 それでもさくらは頷いていた。

「できます。やらせてください」

 絵を描く仕事だ。この間上原を少し手伝ったときでもワクワクした。その仕事を任せてもらえるのだ。断るわけがなかった。




 そしてやって来た木曜日は、仕事の締め切りの日だった。

 午後八時を回っても作業は終わらず、上原が心配そうに聞く。

「あといくつだ?」

「あと五つです」

 一時間では無理な量だった。途方に暮れて上原を見ると、彼は小さく息を吐いた後島田に尋ねた。

「島田さん、今日、残業していいっすか」

「頼む」

 島田は頷く。さくらの方には目線を向けないが、彼は、さくらの作った原稿と上原の作った原稿を見比べていた。さくらが残業できないことに困っているのはひしひしと感じた。

「島田さん、私も残業します。させてください」

 思い切って口を開くと、島田がぎょっとした。

「え、でも、門限は?」

 上原も顔をしかめて、「無理すんな」と言う。

「今日一日だけなら、なんとか誤摩化せると思いますから」

 ここで仕事を放り出すことはできなかった。

(これは私の仕事だ)

 確かに上原でもできるかもしれない。だが、残りの五つだけテイストが変わってしまうのは間違いない。もし、それでこの仕事が駄目になったら、と考えたら、母の叱責くらいなんてことない気がした。

 少々怒られようと、やっているのはまぎれも無く仕事なのだ。やましいことは何もない。

 携帯を出すと急いで短いメールを打つ。そして思い切って電源を切った。作業に集中したかったのだ。

(大丈夫。きっと)

 沸き上がるどす黒い不安を押さえ込むように自分に言い聞かせながら、さくらはディスプレイに向かい、タブレット用のペンを握った。



 作業が終わったのは十一時だった。三人でオフィスを出る。表の自動販売機で、島田がカフェオレを二本、そしてブラックのコーヒーを一本買う。カフェオレをさくらと上原に渡すと、「お疲れさん。助かった」と笑顔を向けた。

「上手くいくといいですね」

 さくらは祈るように呟く。

「あとは俺の仕事だ。上手くいかせるに決まってる」

 島田はにっと不敵に笑うと、駅方向へと足を進めた。

「とにかく今は急いで家に帰ること。門限、随分過ぎてるから」

「あ」

 門限と言われて母を思い出して、携帯の電源を入れる。とたん携帯が震える。予想どおりに留守電のせいだ。

「うわ」

 五件のメッセージ有りと表示され、青ざめる。再生するのが恐ろし過ぎた。

 さくらは道の端に寄って立ち止まると、二人に背を向けて通話ボタンを押した。ワンコールで繋がる。どうやら待ち構えていたようだ。

『さくらね! どうして電源切っとうとね!』

 すぐに電話に出た母は例のキンキン声で叫ぶ。むっとしたが、できるだけ穏便に話を進めて、さっさと電話を切りたかった。穏やかな声でなだめる。

「そんな、怒らんでもいいやん。メールしたやろ。仕事中に話とかできんけん、切っとっただけ」

『とにかく――こんな時間まで外におらんで、すぐ帰ってきんしゃい』

 母の声の後ろでトラックのエンジン音が聞こえる。母は外にいる。嫌な予感に、さくらは顔色を変える。

「なんなん? まさかやけど家の前におると?」

『メール見てすぐ出て来たんよ。会社の場所詳しく聞いとかんかったのが馬鹿やった。そんな遅くまで仕事させるところやったら許してないとよ? もう辞めさせてもらい!』

 不穏な展開に驚く。そして思わず後ろを窺うと、二人は眉を寄せて心配そうに会話に聞き入っている。さくらは慌てて反論した。

「なん言いようとって。私、もう二十一よ? 今度社会人になるとよ? なのに個人の都合で無責任に仕事放り出せるわけないやろ」

『たかがバイトやないね。何むきになっとうと』

 声がしんとした道路に響く。母の放言に恥辱で顔が染まる。穴があったら入りたいと思った。

「たかがって何よ。仕事は仕事やないん?」

『口答えせんと! 女の子がそんな遅くまで働くことはないんよ!』

「考え方古いよ! 今時そんな甘えたこと言っとって、どこの会社が雇ってくれるって言うんよ」

『やけん、前から言いよろうが。実家こっちに戻って来ればいいんよ。ちょうど近所の田中工務店が事務員募集しとるよ? 給料はちょっと安いけど、家から通えるんよ。そこで楽に働けばいいやんね』

 少し前まで喉から手が出るほど欲しかった職だというのに、全く心に響かない。

「楽? ……そんな理由で仕事して、なんになるん? 仕事の楽しさって楽さと結びつくん?」

 この一週間で、思い知った。楽しければ、辛さなんか忘れるのだ。細かいことなんか、どうでも良くなるのだ。

「私、この三日間、めちゃくちゃたくさん花の絵を描いたんよ。終わるかどうかわからんで、落ち着かんかったけん、家でも描いた。そのせいで寝不足やけど、きつかったけど。それでも――大好きな絵を描けて、絵を描く仕事をするって夢が叶って楽しかったんよ!」

 さくらの必死の訴えにも、母の声は余計に尖った。

『あんた、バイトにそんなに必死なってどうするんね』

「私は、バイトとか関係ないって言っとるんよ!」

 分からず屋。さくらは泣きたくなる。だが、母は更に言った。

『私は、あんたのために言っとうとよ? あんたが苦労せんようにって――』

 さくらの反論を封じ込めようとするお決まりの言葉。もう我慢ならなかった。

「もう子供扱いせんとって。自分のことくらい、自分で決めるって!」

『あんたは、まだまだ子供よ。なーんも分かってないとよ? 変なところ就職して、失敗したらどうするとね』

「――失敗してもいいんよ。なんもせんで後悔するくらいやったらね。もう放っとって!」

 叫ぶように言うと、さくらは電話を切る。そして素早く電源を落とした。

 肩で息をしていた。感情が昂って、目頭が熱くなった。後ろの二人がさくらの様子を窺っているのが分かる。少しでも自分を落ち着けようとする。

 上原が気遣うようにカフェオレを目の前に差し出した。島田に貰ってから飲まずに握りしめていた事を思い出して、プルタブを開ける。そして温くなったそれを一気に飲み干した。

 糖分が染み込み、少しだけ頭が働きだしたころ、島田が「送ってく。お母さんにきちんと説明して分かってもらおう」とさくらを促した。

「……いいんです。プライベートなことでまで迷惑かけられません」

 それに島田みたいな若い男を連れて帰れば、勘違いして逆上するのが目に見えている。だが、島田はさくらの拒絶にも譲らなかった。

「管理職って何のためにいると思ってる? 何とかするから。俺に任せて」

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