22 意外な誘い

 その翌日、さくらが出勤すると珍しく島田は外に出ていなかった。

 険しい顔をした彼に上原がしかられている姿を見て、さくらは上原が、島田は厳しいと言っていたことを思い出す。

(あー、これ、この間のお礼言うの難しいかも)

 さくらは出鼻をくじかれる。

「――んなこといわれても、できないもんはできないっす」

「お前の『できない』はやらないだけだろ。できないって簡単に言うな」

「これだけ案を出して、全部ボツだったらさすがに凹みますって」

「俺は素材感をもっと大事にしろって言ってるんだ。下地のプレートが変わるんだからやり方を変えないと違和感が出る」

 難しい顔をして「俺はもう一回外に出て来る。明日までにあと十案出せ」と言って社を出る島田に、上原は大きなため息をついた。いつになく参っている。

「けいちゃんもねえ、ちょっと焦ってるのよ。それが駄目でも会社が傾くってことは無いからね。上原君、できるだけやればいいから」

 寂寥感の滲み出る大きな背中に河野のフォローが入るが、「がんばりまっす」と上原の声は小さい。

 何となく声をかけ辛いままにさくらは作業に入る。妙に絡めばとばっちりを食いそうな雰囲気がありありと感じられたのだ。

 今日の仕事は机の上のメモに纏められていた。単純作業にほっとする。これならば上原から厳しい指導は貰わずにすむだろう。

(触らぬ神に祟りなしっと)

 そんな風に素知らぬ顔をしようとしたさくらだが、上原はまるでそれが不満とでも訴えるように難しい顔で唸り続けた。オフィスの冷蔵庫が壊れたかと思うくらいだった。

 鬱陶しい状況は河野が帰ってからも続き、「うぜえ」「くそ」などの独り言はいつもの量の倍、そして空になったコーヒーの缶もどんどんと増えていく。十五分置きくらいに下の自販機に買いにいくのだ。

 土色の顔色をした上原にさくらも心配になる。万が一ぶっ倒れてもらっては困る。

「さすがに糖尿になりませんか、それ」

 上原が五本目のコーヒーを買いに立ち上がったのを見て、さくらは冷蔵庫の自分の麦茶を湯のみに注いで持って行く。張りつめていた上原の表情が一瞬和らいだ。そして机の上の缶の行列を見てぎょっと目を見開いた。

「あー、確かに飲み過ぎたかも。今日は」

「今回の仕事、難しそうですね」

「まあな。なんつうか、今までやって来たことが全部否定された感じ」

 さくらはディスプレイを覗き込む。『おゆうぎしつ』『といれ』等の文字が、木製のプレートの上に並べられているが、堅苦しい書体(フォント)が妙に浮いている。それに、問題はフォント以外にありそうだと思った。文字だけのプレートならばいいが、絵が入ると最悪だった。いつものサインでは、雰囲気ぶちこわしなのだ。

『といれ』の上に、公衆トイレと同じサイン。『おゆうぎしつ』の上のイラストは適当なものが無いらしく、上原が作ったのか楕円を並べただけの花のイラストが配置されている。正直に言うと、面白みが全くない。

「……上原さんの持ち味とは違いますもんね」

「だろー? 今までオフィス向け作って来たのに、突然幼稚園とか保育園とか言われてもなあ」

 上原が愚痴を漏らす。さくらには弱みを見せなかった彼にしては珍しい。それだけ弱っているのだろう。

 上原はお茶を飲むと、「あー、お茶は案外後味がなくていいな。コーヒーは飲んだ時は美味いけど、後味が悪いんだよな。俺も麦茶にするかな」と呟く。

「缶コーヒーに入ってる砂糖って、全容量の半分って子供の頃聞いたんですけど、ホントですかね」

 さくらが続けて独り言のように呟くと、上原はげっと顔をしかめた。

「おっそろしいこと言うな。さすがにデマだろ」

「ブラックにすればいいんですよ」

「無糖は苦くて飲めない――じゃなくて、カフェインだけでなくて糖分入ってないと頭働かねえんだよ」

 前半だだ漏れた存外に可愛らしい本音に思わず吹き出しそうになる。

「いっそインスタントコーヒーにすればいいんですよ。安くて、砂糖も調節できます。一杯十円でどうです?」

 持参したコーヒーの瓶を取り出してにやりと笑うと、上原は渋々のように頷いた。



「いっそ実物トレースしたらどうですか? まだましかも」

 さくらはインスタントコーヒーで一服している上原に提案する。

「やってみたけど、俺、デフォルメが苦手なんだよな。単に写真加工しただけみたいになっちまって、ボツ食らった」

「じゃあどこからか適当なイラスト拝借するとか」

「意識低いな。著作権とか勉強してるか? 無断で商用利用すると訴えられるぞ」

 さくらは苦笑いして「冗談です」と誤摩化す。バイトとはいえ、この業界にいて意識が低いのは問題だと自分でも反省した。

「それじゃあ、こんなのどうですか」

 さくらはメモ帳を取り出すと鉛筆で簡単な花の絵を描く。上原が作ったものに似ているが、バランスを多少崩して描いてみる。花びらの形は、同じのようで同じでないのだ。向きも等間隔に広がるわけではない。手書きの良さはそういうところで、一見欠点に見えるものが味になるのだとさくらは思っている。

 上原はさくらのらくがきをじっと見た後、ポツリと呟く。

「『おゆうぎ』ってなんだろな。ま、とりあえず花じゃねえよな」

 やはり花の絵は適当に置いただけだったらしい。

「おもちゃとか、どうですかね。ぬいぐるみとか、スコップとか――それか、子供が手をつないでいるのとか」

 少し考えてさくらが答えると、

「それ、全部描けるか?」

 と上原が問う。

 さくらは「簡単なものなら」と頷いて、ノートを広げた。



 最初はさくらがノートに描いたイラストを上原がスキャナで取り込んで、加工(トレース)していたが、上原が「直接ソフト使って描けるだろ」と作業を単純化した。

 ペンタブが初めて有効活用される。手書きとの違いに戸惑いながらも、十分ほど作業をするとスムーズに入力できるようになる。アプリの図形描写のツールを使いながら、手書き風を残しながらもデフォルメを進めた。

 その間に、上原は手書き風フォントを探して試す。島田に電話をして購入していいか確認をとる。

「『といれ』で使うサインももっと丸みを持たせて、頭身を下げれば子供っぽくなるかもしれませんよね」

 大きめの丸に胴体は三角。全て色は赤だ。丸は頭で三角はスカートを履いた胴体だ。長丸で手足を付ける。だが何か足りない感じがして、「インパクトが無い」「可愛くない」と二人唸った。

 やがてひらめいたさくらは、頭の隣に小さな丸を三つずつ左右対称に置いてみた。

「なんだこれ」

 上原が怪訝そうな顔をするので説明する。

「三つ編みです」

「ああ、……なるほど。分かりやすいな」

「頭に別色でリボンとか付けられたらもっといいんですけど。カラーは一色なんですよね」

「いや、二色までは使っていいと言われてる。だけど、絵と文字で一色ずつだ」

「絵で二色は難しいんですか」

「いや、予算の問題。今回はUV印刷だからな。インクも高いし色が増えると価格が割り増しになるから。多色塗りならいっそインクジェット使うのもあるだろうけど、耐久性がなあ……ま、その辺は島田さんに相談してみるか」

「なるほどー」

 初めて仕事を詳しく教えて貰い、さくらは驚きながら話に聞き入った。今まで時間の無駄、労力の無駄だと印刷方法など口にしなかったのに。

 なんとなく認められたような気がして、さくらは急に嬉しくなる。

「これで十案そろったな。大体こんなもんか」

 ふと時計をみると、針は八時半を指している。上原が帰る時間をとっくに過ぎていた。

「もう八時半ですよ」

「あぁ。じゃあ帰るか。腹減った」

「お疲れさまでした」

 さくらが席に戻ろうとすると、上原が何を思ったかさくらの背中に声をかける。

「なんならメシ奢るけど、仕事早めに切り上げねえか?」

「え?」

 聞き間違いかと驚いて振り返ると、上原はさくらの反応にぎょっとした様子だった。

「いや、今日の、礼だけど。……マジ助かったし」

「上原さんがそんなこと言うとか、槍が降りそうっすね」

 思わず本音が漏れると、彼は「悪かったな」と顔をしかめる。

「で、どうなんだよ。門限あるんだろ? 早く決めねえと」

「ええと」

 仕事を手伝ったのは事実だし、奢ってもらうのは正当な報酬だ。だがなんとなく気が進まないのはなぜだろう。どう答えようかと悩んだとき、低い声がオフィスに割り込んだ。

「――ただいま」

 開け放たれた玄関の扉の向こうにいたのは島田だった。



 足音が妙に大きく響いた。

 島田が島田に見えなかった。それは彼の目にいつにない妙な迫力があったからだ。

(怒ってる?)

 穏やかな島田がこんな厳しい顔をするのは珍しく、さくらは戸惑った。

「島田サーン、とりあえず十案できましたー」

 何となく張りつめた空気。その中に上原の声が間抜けに響く。だが緊張感は緩まない。

「明日見るから、俺のデスクに置いておけ」

「ういーっす」

 空気を読んでるのか読んでいないのか、上原は刺々しい島田の雰囲気にもいつも通りに対応している。長い付き合いで慣れているのかもしれない。

「あ、島田さん。片桐にメシおごりたいんで、もう切り上げさせても良いっすか?」

 上原の中ではさくらの意思など関係なく、もう決定事項だったようだ。

「ま、まだ行くとは言ってないっす!」

「なんで?」

 問われて口ごもる。なんとなく気が進まないだけで、断る理由が思いつかない。

(島田さんのご褒美のお誘いには行って、ウエハラの誘いを受けない理由はない気がする……だってお礼だし)

 理詰めで考えれば考えるほど、《ウエハラの誘いに乗る》が正解な気がした。

(行くべき? 行くべきだよね?)

 理性はそう囁くけれど、なぜか納得行かない。

「さくらちゃん、今日の仕事は?」

 島田に不機嫌な視線を向けられて、さくらは思わず直立不動となる。

「……えーと、一応終わってます」

「なんでおごるとかいう話になったわけ?」

 島田は上原を見る。相変わらず視線は冷たい。

「それ手伝ってもらったんすよ」

 上原が目線でデスクの上の原稿を差すと、

「つまり、おごる理由も、おごられる理由もある、か」

 目線は上原に向けたまま、島田は呟く。何かちくりとした刺を感じたとたん、島田は低い声で投げ捨てるように言葉を落とした。

「じゃあ、行ってくればいいんじゃない」

「え?」

 いきなり頭上から水が降ってきたような衝撃に頭が真っ白になる。

「じゃ、行くか」

 ひょうひょうとした上原に促され、我に返り、よろよろと上着を手にする。そして、なんとか口を開く。

「あ、えっと、……じゃあ、お先に失礼します」

 もっと別に何か言うべきことがあるような気がするのに、全く頭が働かなかった。

 


 なぜだか、駄目だと言われる気がしていた。予想が裏切られて、ずしんと胸が重みを増した。その原因が落胆だと気が付くと、そんな自分に酷く驚いた。

(駄目って言うわけないじゃん。だってそんな理由ないし。どこにもないし)

 心の中を必死に覗き込みながらビルの階段を下り切る。だが表に出たとたん、上原が唐突に立ち止まり道を塞いだ。

 そして彼の口から発せられた質問に、さくらは思考を中断させられた。

「なあ。お前と島田さんて付き合ってるわけ?」

「は?」

 一瞬目を見開いて固まった後、さくらは即座に否定した。

「いやいやいや、付き合ってなんかないです」

「だよなあ。そんな風に全く見えねえもん。じゃあ何で島田さん怒ってたんだ? 俺、あんな目で見られる覚えねえんだけどな。――いや、あると言えばあるけど、あれからもう三ヶ月経ってんだしなあ、進展なさそうだから気が変わったのかと思ってたんだが」

 もぞもぞと呟きつつ考え込む上原にさくらは驚いた。

(なんだ。怒ってるって分かってたのか)

 分かっていて、刺激しないように振る舞っていたのかもしれない。だとすると、見た目よりずいぶん器用だ。

「んー、なんかめんどくさそうだけど、……ま、いっか。付き合ってないなら、俺悪くねぇし。でも、今日のところは、メシは止めとくか」

「あれ、おごってくれるんじゃなかったんですか」

 上原はさくらに腕時計を見せる。表示は20時40分になっている。

「思ったより時間食っちまったし、仕切り直した方がいいだろ? 20分じゃ、おごるってもラーメンしかおごれねえ。でもラーメンじゃ、お前が赤字になる」

「ギリギリ赤字にならないっす。給料、30分450円なんで」

 だから島田にはそのラインでしかおごってもらわないのだ。

「それじゃあ礼にならねえって言ってんだよ。お前に借り作りたくねえ。つうわけで、土日どっか空けとけ。たらふく食わせてやる」

 借りを作りたくないというのが妙に上原らしかった。沈んでいた気持ちが軽くなる。

(じゃあ、本気でたらふく食べてやろうかな)

 さくらはにたりと笑うと、

「じゃあ、そのうちお願いします。できれば寿司がいいっす」

 と言ってみる。

 上原はぎょっと目を見開いたが「回る寿司でいいなら」と提案した。さくらは頷く。味の違いなど分からないのだ。まったくもって問題ない。

(上原の『たらふく』ならば、前日から絶食するくらいでいいかもしれない。上手くいけば三食分浮くよ!)

 想像しているとお腹が鳴りそうだった。

「そういや、俺、お前のメアドしらねえ。教えろ」

 ふいに上原はケータイを取り出す。スマホではなく、ガラケーだ。さくらのメールアドレスは、口頭でもメモでもやり取りがし辛いのだ。だから赤外線はお手軽だし、その分気楽だった。さくらは少しほっとしつつ、赤外線通信を始める。

「C55H70O6N4……ってなんだこれ、迷惑メール対策でランダムにしてんのか?」

「いえ、葉緑素クロロフィルの分子式です」

 〝みどりん〟の一部だと胸を張ると、彼は「うわあ、おまえそれ、ちょっときもい」と明らかに引くが、上原だしいいかと思う。



 窓から見えるのは外で佇む二つの影。彼らの手元で点滅する赤いランプが何か、島田にはすぐに分かった。赤外線通信。これがないから、島田は最初に彼女の連絡先を取得できるチャンスを逃したのだ。スマホは便利だが、ああいった手軽な通信機能がないことだけは不満だ。

 今まで、そんなことを思ったことはなかったのに。

 イライラが治まらない。誰に対して? 上原に? それともさくらに対して? いや、おそらく自身に対してだ。

 先日のフォローをしたくて早めに戻ったのに、とんだ計算違いだった。さくらを誘う上原を見たとたん、フォローどころではなくなった。

(さっき、行きませんって言って欲しかったんだろう、俺は)

 そんな風に誘導しようとして失敗した。あまりの無様さに笑いが出る。

 自分相手だから誘いに乗ってくれたと思っていた。だが、

『島田さんのご褒美のお誘いには行って、上原の誘いを受けない理由はない気がする』

 彼女の正直な心は、理由があれば、相手は誰でも良いと訴えていた。

 好意は持ってくれていたし、少しずつ異性として意識されている気がしていた。どこかで自惚れていた分だけ衝撃は大きい。

「……俺、何やってんだろ」

 二人並んで駅方向に向かう影を見つめつつ密やかに呟く。二人の間の適度な距離がせめてもの救いだ。島田とさくらの距離も、端から見ればそう変わらないだろうが。

 一歩踏み出すのは島田が先か、それとも。

(上原は、距離を縮めるのが妙に上手いんだよな……)

 あの癒し系の外見、そして飾らない分かりやすい性格は、人に警戒心を捨てさせるのだ。

 女性を二人きりの食事に誘う理由など、そんなに多くはないと、島田は己の行動を振り返って焦燥感に胸を焼かれる。

 窓の外から目を逸らすと、スマホを出してカレンダーを開く。あと数日で十二月。印のついている日までの残りの日数を確認し、画面を閉じる。目線を上げると、ふとデスクの上の原稿が目に入った。

(……できたって言ってたが、一日じゃ何ともならないだろうな)

 八つ当たりも手伝って、紙の束を睨みつける。

 だが期待せずに手に取り、原稿に描かれたサインを見て、島田は一瞬で煩悩が消え去るのが分かった。目に映る新鮮な形に目を見開き、デスクライトをたぐり寄せる。

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