20 色褪せない夢

「で、なにを食べようか? この辺のおすすめは?」

 問われたさくらははっとする。いつの間にか車は駅前のパーキングに停まっていた。

 さくらの頭の中は既にお好み焼きしかなかったのだが、そういえばまだ決定していなかったことに気が付く。

「お好み焼きがいいんですけど――」

 とっさに脳内に巣食っていたイメージが口から漏れ出る。だが、さっき友人二人がなんと言っていたかを思い出してすぐさま否定した。

「あ、やっぱり駄目です! パスタとかどうですか」

 泣く泣く別案を提案すると、島田は怪訝そうにする。

「お好み焼きがいいんじゃないの?」

「ええと、藤沢と広瀬が行くって言ってたんで、その、鉢合わせちゃうかなとか――」

 そこで、さくらははたと気が付く。

(あ、鉢合わせても何の問題もないじゃん! むしろ、これは二人きりがいいと言っているようなもんじゃ――!)

 気づいて「いや、やっぱり」と訂正しようとするさくらだったが、島田は「じゃ、パスタにしようか」とさくらを遮った。

(あ、あれ? もしかして、島田さんも二人の方がよかったりする? ……そういえば、一度も上原を誘ったこと無かったような……)

 ふと思い出す。上原が退社するのは20時。さくらたちが食事に出かけるのは20時半。30分待たせれば一緒に行けるはずなのに、一度もそうしなかった。

(私だけを誘ってるってこと? それって――)

 ぽんとある考えが浮かび上がって、ぼっと頬が染まる。

(いや、上原はあれ以上肥えたらまずいから誘わないだけだってば。成人病直結コースだし。メシともに丁度いいのが私しかいなかっただけで)

 浮かび上がるある仮定を否定するさくらの前で、島田はスマホを出して何やら操作し始める。

「オリーブっていう店が美味しいみたいだけど」

 液晶に浮かぶ地図を見つめながら島田が尋ねる。

「あ、そこがいいと思います。前、ランチに行ったんですけどトマトソースが美味しかったんで」

「じゃ、決まり」

 車から降りると夜風がひんやりと冷たい。思わず体を震わせると、島田が「寒い? そういや薄着だね。上着は?」と尋ねる。

「あ、研究室に忘れて来て」

 騒動に揉まれたせいで慌てて出て来たさくらは、ジャケットを研究室に置き忘れて来ていたのだ。秋まっただ中の今、車の中ならいいけれど、外では見ているだけで寒いかもしれない。

「貸すよ」

 ふいに上がった声に隣を見ると、ふわりと島田の上着がさくらの肩に降ってきた。

 島田の体温が染みこんだ表着は、温かく、そしてびっくりするくらいに大きかった。

(身長はそんなに変わらないのになんで――っていうか、これ、上司としては、やりすぎな気がするんだけど、気のせい!?)

 熱が移ったかのように体が熱い。返すべきだと思うけれど、動揺しすぎて声が出てこない。何と言って返せばいいのかもわからない。

「行こう」

 島田はなんでもないことのように言うと、さくらを風上から庇うように並んで歩いた。


 何度か来たことがあったイタリアンのお店は、以前来た時は昼時だったためか、大きめの窓から日光が差し込む海沿いの街を感じさせる開放的な店という印象だった。

 だが日が落ちたあとの店の印象は随分違った。

 落とした照明の中、不揃いな色とりどりの椅子がカウンターに並んでいて、数組のカップルが腰掛けていた。バーを思わせる雰囲気。場違いなものを感じる。

 そしてさくらを一番戸惑わせたのは、ランチとディナーの差額だ。

 入り口に置いてあった黒板に書かれていた値段に回れ右をしたくなったが、中にはもっとリーズナブルなメニューがあるはずだと飛び込んでみた。そしてそれは失敗だった。薄いピザ一つで千円を越えていた。頭を抱えている間に、島田はあっさりとパスタとピザのコース料理を二つ注文してしまい、さくらは財布の中身を確認して青くなった。

(払いますって言えないんだけど……)

 いつも一応割り勘を申し出るさくらだが、今日の代金は車で送ってもらって浮いた交通費があっても払いきれない。

(うう、残り少ない今月の食費が……〝ふきや〟にしてれば良かった……!)

 心のなかでつぶやくと、

「美味しくない?」

 島田が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。

「いえ、とっても美味しいですけど、高いので食べた気がしないんです」

 正直に漏らすと島田は呆れた顔をする。

「勿体ないな。せっかくなんだから楽しまないと」

「どうしてもコストパフォーマンスをお好み焼きと比べてしまって。すみません、貧乏なので貧乏性なんです」

 島田はぶっと吹き出す。

「ここで足りなかったら、もう一軒行ってもいいよ」

「そういうことじゃないんです」

 さくらはどちらかと言うと、質より量の、貧相な舌の持ち主なのだ。

 さくらはマルゲリータを頬張る。薄い生地にしっかりトマトの味がするソースともっちりとしたモッツァレラチーズがたっぷり載っている。フレッシュバジルの香りも爽やかだ。値段どおりの味に不満をねじ伏せられた。

(ううう、量的には悔しいけど美味しい)

 もっと、もっとくれ! と胃に急かされながら、さくらはピザを飲み込んだ。

「心配しなくていいよ。俺が誘ったんだから、ちゃんと奢るから」

「でも、悪いです。ここはいつもと違って安くないです」

 島田は渋い顔をするとぽつりと呟く。

「……どうしたらごちそうさせてくれるのかな」

 さくらはすこし考えて答えた。多分、釣り合いが取れていないことがさくらは嫌いなのだ。数式は等号で結ばれるのが気持ちいい。

「理由があれば、ですかね?」

「さくらちゃんが苦学生っていうのは理由にならないの?」

「理由になりません。贅沢しなかったら、死にはしませんよ」

(ああ、でも……この先仕事決まらなかったら……)

 憂鬱な未来が頭をよぎりかけたけれど、さくらは運ばれてきたパスタで気を紛らわせる。

 メインの渡りガニのトマトソースパスタだ。立ち上るニンニクの匂い。さくらの意識は瞬く間にそちらに集中した。

 沈黙が重いと気がついたのは半分を胃に収めた頃だった。ふと見ると島田の皿の上の料理は減っていない。

「島田さん、減ってませんょ。どうかされたんですか?」

「さくらちゃんってさ、就職活動ってどうなってる?」

 さくらはなぜにその話題、と顔を上げる。

「……嫌な話題を振りますね?」

 カニを頬張りながら、さくらは島田に胡乱な目を向けた。

「決まって無いんだ?」

「どこも厳しくて」

「どういうところ受けてるの? 生物系とか化学系の企業?」

「いえ、業種問わず事務系で探してます。もう選んでられなくって」

「今ってそんなに厳しいのか」

「ええ。なんていうか、落ちる度に『お前は駄目だ』って言われてる気分で。どうしたら通るんでしょうね?」

 家業を継いだ島田には無縁の話かもしれない、と思いつつもついつい弱音が溢れる。この件に関しては愚痴っぽくなりすぎる気がして、友人にもなかなか相談できないのだ。相談できそうな人間は、身近では教授と島田くらいしか思いつかなかった。

 島田はじっと考え込んだが、やがて口を開いた。

「俺は大したアドバイスはできないけど、さ」

 コネ入社の最たるものだからね、と苦笑いして続ける。

「社会人の先輩として一つ言えるのは、自分が納得できない仕事だけは止めた方がいいよ。自分のためにも、会社のためにもね。就職って学生さんにとっても大きな選択だと思うけど、採用する側としても新人をとるってのは大きな賭けなんだ。真っ白な素材がこれからどれだけ会社に貢献してくれるのか。未来に時間とお金をかけるんだから。合わないからってすぐ辞められるのは会社にとっても痛いんだ」

 考えもしなかった会社側の声を聞いて、さくらは目を丸くする、同時に頬を張られたような気分になった。

 島田はそんなさくらに気づいてか気づかないでか、静かに続けた。

「だから、『私は役に立ちます』って自信を持って言えるようなところをさ――まあ、学生さんってまだ素材だし、自信持つのは難しいかもしれないけど――探すのがいいと思うんだ。少なくとも、人事はそういう心意気は見てると思うよ」

 黙り込んださくらに、島田は労るように微笑む。

「希望どおりの仕事に就ける人間なんてほとんどいない。けど、少しでも好きになれそうな仕事を選ぶことはできるはずだ。頑張れ、さくらちゃん」




 暗い部屋に戻り、さくらは大きくため息をついた。

 電気も付けずに、バッグをローテーブルの上に置くと、その脇にあったベッドに体を投げ出す。マットレスが軋みながらさくらの体重を受け止めた。ついでに重たい溜息までも。

(あー、全部お見通しって感じだったなぁ……)

 あの後、島田はさくらを家まで送ってくれた。けれど、さくらはもうまともに島田と話ができなかった。自分の未熟さが恥ずかし過ぎて。

 どこでもいいから雇って欲しい。そう思って就職活動をしていた自分。しかし裏返せば、どこにもそれほどの情熱を見せていなかったということだ。島田はそんなさくらを見て来たかのようだった。

 選択肢のない中でも懸命に仕事をして、誇りを持てるようになったと島田は言っていた。

 なんでも選べるくせに、情熱の足りないさくらをきっと甘ったれだと思っただろうに、不快さの欠片も見せずに静かに諭してくれた。

(やっぱり、大人なんだなあ)

 はじめて、はっきりと歳の差を感じてしまった。

「好きになれそうな、仕事かぁ」

 貰った言葉をかみしめ、耳に残る声をなぞるように呟いて寝返りを打つと、本棚の隅に追いやって埃をかぶっているスケッチブックが目に入る。釣られるように下においてあるダンボール箱も。高校の時にその道は諦めてしまったはずなのに、捨てることができなかった道具一式だ。

 いつもならすぐに目を逸らしてしまうけれど、今日はなぜか目を逸らせなかった。

 同時に封じ込めていた過去の苦い思い出が蘇ってくる。 

 あれは忘れもしない、高校三年の初夏――三年になって初めての三者面談の後だったと思う。

 田舎の家独特のだだっ広い座敷で、さくらは父母を前に真剣な顔をして訴えていた。

 娘が突如起こした反乱に母は憤っていた。その隣で父は渋い顔をしたまま黙って聞くだけ。母に頭が上がらないのか、それとも同じ意見なのか、意見さえ持っていないのか。未だに分からない。

『私、絵を描く仕事をしたいんよ。やけん、どうか芸術学部に行かせてください』

『芸術? そんなの食べていけるわけないやろ。せっかく成績もいいんやし、担任の先生もこのまま行けば国公立大も安全圏やって言ってたやんね。なら、そこ行って、普通に就職した方がいいに決まっとるよ』

 さくらは首を振る。担任は進学率を上げることに必死なだけだ。さくらの本当の希望など聞いてくれなかった。

『でも、結局、どこも就職厳しいやん。それより、好きなことの方が絶対打ち込めるし、美術の先生も勧めてくれたんよ? これからは個性を生かす時代やって。……頑張るけん、お父さん、お母さん。どうかお願いします』

『でもねえ、そういう世界って成功できる人間なんかほんの一握りやないね。わざわざ苦労せんでも、普通にOLして、絵は趣味で続けたらいいやないね』

『でも』

『でもやないよ。あんたのために言っとるんやけんね? だいたい、美術とか、どう考えてもお金かかるやろ』

『頑張って奨学金貰うから』

『奨学金って言っても、所詮借金やないね。それで就職できんかったら、どうするんね? 大金、どうやって返すんね?』

『……』

 いくら訴えても頑に意見を変えない父母。幼い頃からずっと、さくらの描いた絵を誉めてくれた両親は一体どこに行ったのだろうか。あれは嘘だったのだろうかと空しさに項垂れた。

 それ以上さくらは願い続けることができなかった。

 食べていけるのは一握り。さくらがその恵まれた集団に入れる可能性など皆無だと思っている両親の様子に、さくらは自分に本当に才能があるのか、自信を持てなくなった。自分を信じることができなかったのだ。

 好きなら何とかなる。努力し続ければ夢は叶う。そんなのは幻想なのかもしれない。そんな恐怖に打ち勝てなかった。さくらは親の説得さえできなかった。楽な道に逃げてしまったのだ。

 さくらは結局絵を描くことをやめた。第二希望の夢に向かいはじめ、そして大学に合格した。だけど。いつも空しさは消えなかった。

 〝みどりん〟は好きだ。研究は好きだ。だけど、いくら全力で打ち込んでみても、これは二番目の夢だと訴える自分がいた。本物の人生が別にある気がしてしょうがなかった。

 それが親のせいでないことくらい分かっている。先の見えない恐怖に打ち勝てず、情熱を持ち続けられなかった自分のせいだと分かっているからこそ、辛かった。

 ふ、とさくらは自嘲気味に笑う。

「あれだけ後悔したのに、ぜーんぜん成長してないなあ、私って」

 逃げるように家を出て、現実から目を逸らし続けた結果だろうか。

 さくらは起き上がると、本棚の隅に置いてあったスケッチブックの埃を払って、ほぼ四年ぶりに開いた。

 水彩絵の具で描かれた、花や動物などの絵が眼前に浮かび上がり、酷く懐かしくなる。

 色はまだ褪せていなかった。

 じわじわとこみあげるものがあり、さくらはスケッチブックを抱きしめると、じっと目を閉じた。

 瞼の裏にぱっと広がるのは島田の笑顔。そして耳には温かく低い声が蘇る。

『希望どおりの仕事に就ける人間なんてほとんどいないけど、少しでも好きになれそうな仕事を選ぶことはできるはずだ』

 それは、

『好きなだけじゃ――どうにもならないことはたくさんあります』

 以前さくらが言った言葉に対する島田なりの答えにも思えた。理想通りじゃなくても、全部を諦める必要など、決して無いのだ。

『頑張れ、さくらちゃん』

 胸に染み込む言葉が、冷え込んでいた心を温める。

「島田さん、私、頑張ります」

 自然と頬が緩み、そして唇から前向きな言葉が溢れた。

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