15 頑張ったご褒美

「――片桐ぃ! さっき作ったデータ送れ! で、こっち来い!」

 ここ一ヶ月、オフィスには上原の独り言に加えて、常に怒鳴り声が混じっている。先日正式に採用になったさくらへの指導が激しさを増しているのだ。

「お前馬鹿か。枠線まで一緒に拡大してどうするんだよ。なんだ、この太い線はよ」

 島田が怒鳴り声のする方を見やると、上原がさくらの作った原稿にチェックを入れて、サインの周りを囲んでいる枠線をボールペンの先で差している。

「あぁ、すみません。やり方がよく分からなくて」

 上原が僅かに丸くなったのは、さくらが殊勝に謝るようになったから。だが、島田は、彼女が心の中では反抗していることをよく知っている。

「ポイントの選択やれって言っただろ。分かるか? お前がやってんのは〝V〟の選択ツール。俺は〝A〟のダイレクト選択で、ピクトだけ選択しろって言ってるわけ。簡単だろうが? やり直せ。20枚全部」

 言われてさくらは目を丸くする。

「え、でも、これ1枚だけですよね、間違ってるの」

「口答えすんな! 全部枠線の太さ確認しろって言ってんだ。目だけで確認するな。数値を見ろ、――ほら、1.03ptって――なんだこの中途半端な値は。1ptにしとけ。あほう」

 さくらがちらりと島田に視線を流す。助けを求める視線とともに聞こえてくる声に、島田は笑いをこらえるのに必死だ。

『島田さん! この人ちょー細かい! オトコのくせにちょー細かいっすよ!』

 とたん上原の雷が落ちる。

「『いいじゃんそのくらい』とか思ってんだろ」

 当たらずとも遠からずの言葉に島田は吹き出しそうになる。上原にぎろりと睨まれたさくらは笑って誤摩化した。

「あれ、上原さんテレパスですか」

「顔に出てんだよ! のろのろしてると終わんねえぞ、次が詰まってんだ」

「次?」

 さくらが怯えると上原は凶悪な笑みを浮かべ、紙の束を持ち上げる。

「あと20枚。なんとか今日中に終わらせろ。1枚5分あるんだ。十分だろ?」

「いや、でもやり直しの分があるし!」

「文句あんのか」

 上原がふんと鼻で笑い、さくらは項垂れる。

「…………いえ、ないです」

 恨めしそうに島田を見るさくらだが、島田は彼女がこれくらいでめげないことを知っている。だから口出ししない。フォローを期待したのか、彼女は小さくため息を吐いた。

『鬼だよこの人たち』

 そう心のなかでぼやきつつも、彼女の切り替えは早い。すぐに真剣な顔つきでパソコンと格闘している。マウスに手が行かないのはキーボードに慣れ、ショートカットを覚えた証拠だろう。さくらは確実に戦力になりつつある。満足したところで、島田はいつもの癖で首に手をやった。

(そういや、しばらくあの痒さを味わってないような?)

 卓上カレンダーを見やって目を見開いた。小さな丸印は蕁麻疹の出た日。それは以前の合コンの日を最後に消えていた。



「じゃ、お疲れさまー。お先ー」

 その日は木曜日。19時になり河野が退社するといつも通りエアコンが止まった。網戸の入った窓、そして網戸カーテンなるものが設置されたドアが開け放たれる。設置された二台の扇風機がくるくると回転を始め、生温い夜風が部屋を循環しはじめる。

 9月が近いとはいえ、まだ残暑は厳しい。

 瞬く間に汗をかいた上原がペットボトルのスポーツドリンクを飲み干す。彼の足元には数本の空のボトルが散乱している。お茶からジュースまで種類も色々だ。見る度に散財しているなあと勿体なく感じる。

(ひいふうみい……全部で1000円は越えてるよ。せめて2リットルのペットボトル買ってくればいいのに。エコじゃないよな)

 こういった無駄遣いが嫌いなさくらは、空のペットボトルを冷たいまなざしで見つめながら、オフィスの冷蔵庫に置かせてもらっている麦茶を飲んだ。麦茶の作り置きは節約の基本である。

「あぁああ、うぜえ。この1時間が地獄。まじ勘弁して欲しい」

 部屋から冷気が消え去った頃、堪らないと上原が愚痴る。

 さくらにとっても地獄の1時間だ。今日は、島田が外出中。上原に怒鳴られてもフォローしてくれる人(といっても島田はさくらの教育は上原に丸投げで、フォローは全く期待できないが)が誰も居ないのだ。しかも暑い。

 外回りに行っている島田が帰って来るのが、大体19時から20時の間。上原は大抵20時までに退社する。そしてさくらの帰りは21時と決まっていて、1分たりとも残業は許されなかった。さらに毎日駅まで島田が送ってくれる。

 島田の家は実は会社の近所らしいが、コンビニに寄るついでだそうだ。悪いなあと思いつつも、夜道はやはり淋しいし、たまにではあるが酔っぱらいに絡まれるのが面倒なのは確かだ。

 ――なにより、島田と話すのがさくらは楽しかったのだ。



 帰り道、大量の原稿を仕上げてぐったりしたさくらに、いつも通りに送ってくれていた島田が突如言った。

「片桐さんさ、夜9時以降ってやっぱり都合つかないよね」

 もしかして急な残業だろうか? さくらは不可解に思いながらも、母のこと考えて顔を翳らせた。

「そうですね。母から電話がかかって来るんで」

 そして、出ないと駆けつけて来るんで。心の中で付け加える。

 すると島田は困った顔で少し考え込んだ後、ふと口元に笑みを浮かべた。

 さくらは、この間僅かな時間だけ見た彼の素顔を思い出す。眼鏡の弁償のことで頭が一杯で堪能はできなかったのだけれど、あとから考えると、彼の顔はかなり整っていたと思う。

 彼の顔には新しい眼鏡。前と同じ黒のセルフレームで少しレトロな感じなだが、最近のデザインだからか、前よりは似合っている。

 顔の半分を占領し、パーツのバランスを崩していた眼鏡が、おしゃれなものに変わると、彼につきまとっていた野暮ったさが薄まった。

 だが、スペアのノンフレーム眼鏡のほうが明らかに似合っていた。あれがあるのに、なぜわざわざ野暮ったい眼鏡をかけるのかはさくらには分からないが、口出しできる立場でもない。

(島田さんって実はイケメンだよね。そういや藤沢もなんか言ってたっけ? ……あ、ミサちゃんって実は気づいてたんだ? だからあんなふうに執着したのか?)

 そんなことを考えながら見ていると、島田は僅かに気まずそうに目を逸らし、

「えっと、明日はバイト休みでいい?」

 と問う。

「え? 会社出なくていいんですか」

 残業の話が突然欠勤の話になり、さっぱり話が繋がらなくて、さくらは首を傾げる。

(残業は困るが、給料が減るのも困るかも)

 そんなことを考えていたさくらだが、島田がくれたカードと、言葉にそんな不満は吹き飛んだ。

「そのかわり、明日はここに直接来て欲しいんだ。お礼――」

「お礼?」

 さくらが目を瞬かせると島田は小さく首を横に振った。

「――じゃなくって、一ヶ月頑張ったご褒美。から」



「馬鹿ね。勿体な過ぎる。せっかくのお誘いなのに!」

「馬鹿だなぁ。二人っきりの時の誘いなんでしょ。二人でに決まってる。黙って頷けばいいのに。あー島田さんお気の毒。そんな風に線引きされたら、そこで引き返すしか無いよねぇ」

 藤沢と広瀬にばっさり斬られて、さくらは研究室のテーブルにうつ伏せている。撃沈だ。

(え、え…………まじで?)


 島田に誘われた後、さくらが頭をフル回転させて得た、一番納得行く解はこれだ。

『あ――もしかして歓迎会して下さるんですか?』

 島田は一瞬ぽかんとした後、少し苦笑いをして『ああ、そうだよ。河野も上原も来る』と頷いた。

 だから、さくらは感謝と了承を伝えたのだが……

 世話話のつもりで友人に打ち明けると、先の通り、馬鹿呼ばわり。

 でもさくらはこういったことに慣れていないのだ。お付き合いは高校の時に一瞬だけ。振られてからすでに五年経過しているのだ。しょうがないではないか。

 バイトをはじめて一ヶ月→試用期間が終わる→正式に採用……となると、歓迎会。そう結びつけても仕方ない。

(そーだよ。しょうがないよ。っていうかデートと勘違いする方がよっぽど恥ずかしいしさ! 島田さんもそうだって認めてたし、最初から歓迎会のつもりだったんだって)

 きっとあのぽかんとした間は気のせいに違いない。気のせいにしてしまおう。そうしよう。

 面倒ごとは避けるのが省エネの基本。あの誘いは最初から歓迎会だったのだと自分に思い込ませていると、勘のよい藤沢がそうはさせるかと半眼でさくらを睨む。

「まだなんかあるんじゃないの? いっそ全部詳細を吐け。その調子だと他にも色々やらかしてるに決まってる」

「隙だらけのくせに、距離が詰まったとたんに警戒強めるとか――悪女だよねぇ」

 広瀬も呆れた調子でさくらを罵った。

「馬鹿の次は悪女呼ばわりなわけ」

 さくらは勘弁してくれと頭を抱える。

「魔性のオンナとも言うんだよ。気のあるそぶりを見せておいて、こっぴどく振るんだ。うわぁ、自覚無いだけミサちゃんより質悪い! さくら、ひどい!」

 藤沢がとどめとばかりに言って、広瀬もうんうんと頷いた。

 妙な盛り上がりを見せる二人を放置して、さくらは「遠心分離機空いてるから使わせてもらうねー」と〝みどりん〟の元に逃げる。二人の言葉はありがたい助言ではあるが、少々毒が濃くてさすがに息苦しい。

 暗く静かな実験室で、緑色に染まったフラスコが蛍光灯に照らされ、ぼうっと明るく光っている。中で泳ぐ大量の〝みどりん〟達にさくらはそっと話しかけた。

「隙なんか、気のあるそぶりなんか見せてない……はずだよね」

 会社にも馴染んで、随分気軽に話せるようになった。毎日顔を合わせていれば、当然親密にもなるだろう。だが、それは上司に対する好意であって、男女のものではないはずだった。

 まず、さくらを恋愛対象として見る男なんか、いるわけがない。しかもあんなイケメンならば、選び放題だろう。わざわざさくらを選ぶわけがない。

 さくらは、それに、と自分に言い聞かせる。

(そもそも……私には、恋なんか必要ないんだって)

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