14 サービス残業禁止

 窓を全開にして1分もしないうちに汗がじわりと滲んだ。

 今日初出勤ということでスーツを着込んで来たさくらはジャケットを脱ぐが、それでも暑かった。手のひらが蒸れて、少し上に置いておくと原稿が湿度で縒れて行く。

 室内にはウイイインというパソコンが唸る低い音、そしてキーボードのカツカツという音だけが響いていた。時折、開け放たれた戸と窓から表通りの車のモーター音が響くが、それ以外はめっきり静かになってしまった。騒音の主な原因だった上原が、島田が抜けたとたん黙り込んでしまったのだ。

 沈黙が気まずい。生温い空気が重くて集中できない。さくらはその原因を作り出した島田の指示を思い出す。

(このくそ暑いのに、冷房を切れとは。効率悪すぎる)

 前の会社では普通のことだったが、先日の面接の時にはエアコンが効いていたので、さすが儲かっていない山田とは違うと内心喜んでいたというのに。

「さっきのってどういう意味なんです?」

 さくらはプリントアウトしたショートカットキーを睨みながら尋ねた。

「さっきのって?」

 答えながらも上原は手を休めない。

「戸を開けろって」

「流行のクールビズだろ」

 すげない返事。会話を疎んでいるのが丸わかりだが、さくらはこれきしのことではめげない。悪意を適当に流すのはお手の物なのだ。

「って、もう夕方だから節電はそこまで気にしなくていいですよね?」

 国が節電を訴えているのは昼間の電力が足りないからだ。夜間には逆にエアコンなどを利用して、昼間の熱で疲れた体を癒すことを推奨していた気がする。

「そうだっけな」

 やはりのらりくらりとしていて要領を得ない。真面目に答える気がなさそうだったが、さくらは沈黙が嫌で質問を続ける。

「あと、島田さんが、河野さんと私は違うって」

「……あーあー、めんどくせえ。そんなこと聞いてる暇あったらさっさと仕事すすめろよ、うすのろ」

 言葉どおり、ひどく面倒くさそうな顔をしてディスプレイを睨みながら、上原は罵倒する。こちらをちらりとも見ないことに気が付いたさくらは酷く腹が立った。

 とても、人と話をする態度ではない。

「どーしてそんなに目の敵にするんですかね! 私が働くのはもう決定事項なんですから、いいかげん諦めてください」

 この際と訴えると、

「俺は仕事のできないヤツが嫌いなだけだ」

 と取りつく島が無い。島田と社長の前では「僕」だったのが、今は「俺」と口調まで変わっていて、猫被りもいいところだ。

(ああああ、そっちがその調子なら、こっちだって猫被ってやらないから)

「最初っからできるわけ無いでしょうが。上原さんにも新人の時があったと思いますけど! 初めから今みたいにできたんですか? 上原さんにも仕事を教えて下さった上司が居るんでしょう」

 これでどうだとさくらは上原を睨む。だが、彼はまったく折れなかった。

「腰掛けのつもりで入って来る女なんかと仕事ができるかよ。すぐ辞めちまうのに。仕事を教える手間がもったいねえ」

 腰掛け――その言葉にとっさに反発する。

「……はぁ? いつの時代の話?」

 思わず地が出ると、本性を現したな――と上原がこちらを見てにやりと笑う。

「どうせおまえも島田さん狙いだろーが」

「違うって」

 そこで島田が出てくる意味がわからない。すぐに否定するが、上原は聞く耳を持たない。

「あの人に引っかかってくるのって大抵そうだ。外見と肩書きにつられて、浅ましい女ばっかり。こんなのまで引っかかってくれば、さすがに気の毒だ」

 肩書きは分かるけど、外見? と気になりながらもさくらはきっぱりと否定する。

「私は違います」

「飲み屋で引っかかってのこのこやって来たくせに? あー、やだやだ。職場に恋愛持ち込まれちゃ、仕事がやり難くってたまらねぇ」

 この状態を例えるなら、まるで嫁いびりをする小姑だ。

(って、嫁でも何でもないのにこの扱い!)

 理不尽な仕打ちに、とうとうさくらの堪忍袋の緒が切れた。

「はぁ!? 思い込み強過ぎません!? っていうか、島田さんが新人に冷たいとか言ってましたけど、上原さんの方がよっぽど酷くないですか? 今までの人って本当は上原さんのせいで辞めたんじゃないんですか?」

 思わずぶち切れて立ち上がったところで、上原が同時に机をどんと叩いて立ち上がった。

 だが、彼の顔は噴火しそうなさくらと比べると涼しいもの。

 そして手元にあった残りの原稿――先ほどさくらの机から彼が奪って行ったものだ――を再びさくらの机に放りやった。

「おめでたいねぇ。ま、そういう風に思ってりゃいいや。ってことで、俺の分は終わったから。お先に」

「え」

 ロッカーから取り出したショルダーバッグを肩にかけると、上原は戸惑うさくらを睨み据えた。

「胸くそわりいし、空気悪いし、暑いし。帰る。大きな口叩くんだから手伝ってやらねえ。残り全部一人で終わらせとけよ? あとショートカットキーの暗記もなー」

 まるで彼の不運は全部さくらのせいだと言わんばかりの顔だ。

 上原は、上着を取って肩にかけるとそのまま社を後にした。



「なんなんだ、あれ」

 さくらは上原の大きな背中を見送った後呆然と立ち尽くしていた。立ち上がった時に沸き上がった怒りは行き先を失って消化不良のまま胃の中で渦巻いている。

(……うああ、ムカツク!)

 エネルギーの無駄遣いとわかっているが、喧嘩を買ったとたん逃げられて、思い切り欲求不満だ。

 思わずどすんと地団駄を踏むと、ぽとり、こめかみを流れた汗が机に落ちる。

 ふと見ると先ほどは開け放たれていた扉がしっかり閉まっている。

(開けてけよ! 暑いって言ってたのはあんただろ!)

 ムカムカしつつ溜め込んだ怒りをぶつけるように外に向かって開け放つ。と、がつんと嫌な衝撃を手に感じ、どすんという地響きが耳に届く。

(え?)

「ってぇ――」

 マンションの廊下に尻餅をついて額を押さえているのは島田だった。さくらは青ざめる。

「う、わ! す、すみません!!!! 割れませんでしたか! 頭!」

「……辛うじて、頭は割れてないけど」

 言葉どおりに島田の押さえた頭は見た感じは無事そうだった。だがその言い方に引っかかりを感じ、さくらは床の上を見て、ぎょっと目を剥いた。

「あ――眼鏡が!」

 コンクリートの廊下の上に黒縁の眼鏡が落ちていた。慌てて拾い上げるが、フレームがぐにゃりと曲がってレンズが割れている。惨状に青ざめる。

「べ、弁償させていただきます!!」

 とっさにそう叫んで頭を下げた。しかし、どうやって弁償すればいいのか分からずに混乱する。

(弁償!? あんた、今弁償って言った? どうすんの、高いよ、これ!)

 フレームの内側を見るとブランド名と思わしきロゴが入っている。お値段がどれほどのものか予想が全くつかなかった。

 眼鏡をさくらから受け取った島田が、困惑した様子で眼鏡を見つめている。うつむいたまま顔を上げない様子はひどく深刻そうで、さくらはあせった。

「もももしかして、すごく高いんですか?」

 単刀直入に問うと、島田はあっさり頷いた。

「……ん? あぁ、まあね。確か、フレームだけで片桐さんのお給料の一月分かな」

 さくらはぴきんと固まる。そこで、島田が顔を上げる。

「弁償してくれるんだよね?」

 いたずらっ子みたいににやりと笑われて、さくらは目を見開いた。

(は、――あれ???)

 はじめて見た島田の素顔が、何だか――

(あれ? あれ??)

 アーモンド形の綺麗な目。その下にある涙袋が顔立ちを甘く彩る。

 まるで人が入れ替わったかのようで、思わずじっと見つめそうになったとき、島田がさっと目を逸らして、立ち上がる。そしておもむろにデスクに向かうと、スペアだろうか、引き出しから別の眼鏡を取り出してかける。目元が隠れ、いつもの島田が現れたたおかげで、さくらは僅かに平常心を取り戻した。

(あ、ああ、そうだ、顔の件はひとまず置いておかないと。眼鏡代金は死活問題だし!)

「ろ、ローンでもいいですか。10回、」

 混乱したまま口から出た言葉。さくらは素早く一月分の給料を10で割って青くなった。

(え、月5400円!? ああ、それは――無理! 月1000円くらいじゃないととても返せないかも!)

「いえ50回払いくらいの。できれば無利子で……」

 慌てて言い直し、

(さ、さすがに厚かましいか! だけど、どうしよ、じゃあ月二千円? 二千円なら食費削ればなんとか? ああ、しょうがない、月一回の豚骨ラーメン我慢するか!)

 と計算しだしたとたん、島田はこらえきれないといった調子でぶはっと吹き出した。

「50回……って車のローンじゃないんだから。別にいいよ。無利子で100回払いでも、それ以上でも……っていうか、真面目だなあ」

 太っ腹な発言にさくらは驚喜した。

「ホントですか! 助かります!」

「けど卒業したらどうするわけ? 毎月届けに来るの?」

 何かがツボにはまったらしい島田はケラケラと笑いながら言う。

「そ、卒業したら、あの、さすがに一括でお返しできるはずなので。初任給で」

「あれ? 内定もらったの?」

 意外そうな島田は痛いところを衝いて来る。クリティカルヒットを受けたさくらは泣きたくなりながら否定した。

「い、いえ、まだ。そのうちもらう予定ではありますけど!」

「生物系ってどういうとこに就職するわけ? 製薬会社とか? それとも女子なら化粧品会社とか?」

「あー……大卒では研究職で雇ってもらえるところないんですよ。最低でも修士課程マスターを出ないと……それでも厳しかったりしますけど」

 例の質問攻めにさくらは憂鬱になりながら項垂れた。島田に悪気は無いのだろうけれど、次に来るであろう提案はあまり聞きたくない。

「じゃあ修士に行けばいいのに。田中の彼女は行くんだろう?」

 予想どおりにやって来た言葉にさくらは首を小さく横に振った。

「いいんです」

「経済的事情?」

 さくらは首を縦に振る。それが大きいのは事実。だが、一番問題なのはさくらの心構えだ。

「私、早く卒業して社会に出たいんです」

 きっぱり言って話を終わりたかったが、島田は意外にしつこかった。

「でもあれだけ熱心に研究してるのに勿体ないな。研究、好きなんだろう? 熱意があれば何とかなるんじゃないの?」

 親身なはずの言葉がさくらの古傷を抉る。昔そうやって熱心に指導してくれた先生を思い出す。

『好きなら諦めちゃだめだ。もがき続けなければ、そこで道は閉じてしまうんだ』

 もがくのに疲れた高校生の自分を思い出す。もしもあのとき先生の言葉を信じて進んでいれば。親の反対を押し切るだけの情熱があれば。――その記憶は今もさくらの胸を焼き続ける。

(もう、止めてください)


「好きなだけじゃ――どうにもならないことはたくさんあります」


 思考をシャットダウンしたくて発した言葉が妙に刺々しく響いて、さくらははっとした。目線をあげると島田は驚いた顔をしていた。

 まともに目が合ってしまい、気まずくて目を逸らすと、壁に掛けてあった時計が目に入る。さくらはごまかしついでに大げさに机上の原稿に飛びついた。

「あ――、もう8時! 後1時間しか無い! 私、仕事まだ終わってないんでした! すみません、すぐ済ませちゃいますね!」



 ぷぅーんと耳に嫌な音が忍び込んだ。さくらは首筋をぺしっと叩いてすぐに手のひらを見る。

 残念ながら蚊はしとめられなかったようだ。空中に視線を泳がせる。だが変にお洒落な背景に馴染んでしまってどこにいるのか確認できない。

(壁が白ければ成敗できそうなのに……)

 さくらは空中をもうひと睨みした後、仕方なくディスプレイに目をやった。

 虫は蚊以外にもどんどん入って来る。扉も窓も開け放たれていて、照明は煌煌とついているから当然だった。

 天井の蛍光灯には数匹の羽虫が群がっている。それを嫌って電気を消したらディスプレイに纏わりついたので結局消灯は諦めた。

 カメムシ――さくらがゴキブリの次に嫌いな虫だ――でも入って来ないか気が気でないが、それよりも今気になるのはさくらの斜め前で押し黙っている男の存在だった。

 さくらは原稿をこしらえながら、ちらりと上司を見やる。

 島田は黙々と作業中だ。真剣にノートパソコンのディスプレイを見つめていて、さくらの方には視線の一つもよこさない。

(気まずいなぁ。さっきので怒らせちゃったのか……)

 刺のあるいい方をして、強引に話を打ち切ったのはさくらの方だ。文句を言える筋合いは無いのだが、上原の時とは別の気まずさがある。意味もなく謝りたくなるが、謝ることで先ほどの話題が再び持ち出されることが嫌だった。

 原稿に集中している間はいいものの、1枚が終わって次、と切り替える時にどうしても島田を気にしてしまう。

 蚊の羽音が気になるほどの静けさの中、気まずさを堪え、これは早く帰るに限ると必死で手と頭を働かせる。覚えたいくつかのショートカットのおかげもあって、少しだけ手際のよさを身に付けたさくらは、1枚2枚と積み上げられた仕事を地道にこなして行く。

 そしてあと2枚――というところで、ふと時計を見上げると針は21時5分前を指していた。同時に、

「終わった?」

 と島田が一時間ぶりに口を開く。だが口調は冷たい。

「す、すみません、まだです! あと2枚です! 10分で終わらせますから」

 さくらが慌てると、

「いいや、それはまた明日に回しておいて、片付けして」

 と言って島田は椅子から立ち上がり、脱いでいた上着を手に取って帰り支度を始める。

「でも」

 あと2枚なのに。切りが悪いのが気持ち悪くて抵抗するが、島田はすげなく言った。

「門限あるんだろ? それに残業代出せないから」

「10分位ならなんとかなりますし、私が仕事できないせいですから、その分は要りません」

「うちはサービス残業禁止」

「でも」

「帰るよ」

 島田は問答無用とでも言うように、せかせかと戸締まりを始める。



 戸締まりが終わり、島田が出入り口の扉の鍵を閉めている。壁にくっついているカナブンを見て、さくらはふいに思い出して問う。

「あの、」

「何?」

 眼鏡の島田は冷たくさくらを見下ろす。やっぱり怒っているのかもしれないと思った。しかし、反応が全くないわけではないし、どうしても聞いておきたいこと、意見しておきたいことがあった。

「今日、わざわざエアコン切って、扉を開けたのはなんでですか? 虫すごいですよね? 蚊もですけど、蛾もカナブンもいますし、もしカメムシが入って来たら悲惨です。ホントに悲惨です。節電はいいことですけど、せめて網戸を貼ったりしたあと――明日からでも良かったんじゃ」

「片桐さん」

 重たい声、真面目な表情で遮られる。

「は、はい?」

 さくらが畏まると、島田はふぅと大きなため息をついた。

「つまり、片桐さん自身は、そういうことに興味が無いってことかな――だから、俺も平気なのかも」

「何がです?」

 問い返すと、島田は少し複雑そうに眉をしかめた。

「意識しない方が仕事はやりやすいと思うから言わないけれど。でも、個人的に言わせてもらえば――虫と言ってもいろいろある。カメムシ以外の心配をもっとした方がいいと思うよ」

 呆れたような声で言うと、彼はさくらに背を向ける。

(なんだろ、ムカデとか足がいっぱいある系?)

 鮮やかな写真の載った生物の資料集を思い浮かべ、思わず顔をしかめる。「出るよ。駅まで一緒に行こう」と言われて、慌ててオフィスを飛び出した。



 夜の街には生温い空気、それから様々な食べ物の匂いがたゆたっている。

「これからご飯作るの?」

 と島田が問うと、さくらは「はい。一食五十円くらいで済むし、そうめんにしようかなあと」と頷き、夕食のメニューに思考を飛ばした。

『あ、でも柚子胡椒ゆずごしょう残ってなかった気が。困ったな。どこにでも売ってるものじゃないし』

 なかなかに通なアイテムに、思わず「めんつゆに柚子胡椒は美味いよなー」と同意しそうになるが、すんでのところで今のは心の声だと思い出す。

(あれ、うどんに入れても美味しいけどなあ。あー……ごぼ天うどん食いたい)

 味の好みは合いそうだし、一食五十円などと悲しいことを言っているし、いっそうどん屋に誘ってしまいたい気もした。が、門限もあるし、彼女は断るだろうとも思った。

 素顔を見られると、態度を変えられることは多かった。だから、未だ島田のことなど、眼中にないのが新鮮だった。この流れだと夕食に誘われる――というより、誘ってほしいなあと目で訴えられることが多かったのに。

 さっぱりしていて心地よい。だが、どこか面白くない――それが島田の心境だった。

 さくらの心の声は面白く、蕁麻疹とは無縁。まったくもって快適だ。だけど、島田が聴きたいと思っている時には目を伏せて表情を隠してしまう。肝心なことが聞けないから、なんだかすっきりしない。心の奥底の叫び声を彼女はしまいこんでいる。島田はそれを知りたいと願った。

 聞きたくないと思っていた心の声だったが、聞こえないとなるとなぜか知りたくなる。寄りかかられるのは嫌いだけれど、まったく寄り添いもされないのはどこか寂しい。贅沢な悩みだなと島田は自嘲気味に笑った。

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