9 不在着信の相手

 河野は七時きっかりに社を出て、ハイヒールを鳴らしながら大急ぎで帰って行った。

 上原は残業だ。手伝いたかったが素人は邪魔だと言われ、結局さくらの勤務は上原の仕事が落ち着く来週からとなった。

 島田は取引先への届け物があるとかで出かける予定だったらしい。駅まで一緒に行こうと言われて、共に会社を出る。

 徒歩で駅へと向かう。隣に並ぶ島田を見てさくらの頭にはふいに疑問が湧いた。

「島田さん、自転車じゃないんですか?」

「え?」

 質問に一瞬戸惑った島田だが、さくらの指の先にペールグリーンの自転車を見て「ああ」と頷いた。

「あれは昼間の移動用なんだ――っと、ごめん」

 彼は突如胸のポケットを押さえる。電話らしい。

 さくらは面接だからと携帯の電源を切っていたことを思い出す。

 電源を入れたとたん、さくらは盛大なため息をついた。

 母だ。既に五件の着信履歴があったが、全てがそうだった。

 留守電を聞かずとも用件は分かっている。

(ああ、やばいな。昨日も電源落としてたからだ)

 自然急ぎ足になり、電話を終えた島田が追いついて怪訝そうに尋ねた。

「急用?」

「えーっと……母が心配してるだけです」

 そう言っている間にまた着信があり、さくらは顔をしかめた。

「出なくていいの?」

「出ます……ええと、先に行ってください」

「いいよ、急いでないし、待つから」

 島田は少し周りを見回すとそう答える。まだ大通りに出ていないので外灯も少なく暗い。気を使ってくれたのだと分かる。

 嫌なことはさっさと終わらせようとさくらは通話ボタンを押した。とたん、きーんとした怒声が響く。

『――さくら! あんた、なんで電話に出らんとね! 家の電話に掛けても出らんし、なんかあったんかと思って……今、あんたのアパートやけど、こんな時間までどこ行っとうと! 昨日、バイト、クビになったってお父さんに聞いたんよ。まさかふらふら遊んどったんやなかろうね?』

 耳が痛くて携帯から耳を浮かす。このキンキン声だ。聞こえているのではと島田にちらりと目線をやると、彼は興味深そうにさくらをじっと見つめている。

(ああ、もう、恥ずかしいな)

 うんざりしつつ小声で対応する。

「まだ八時前やろ、心配せんでいいって。新しいバイトの面接行っとったんよ」

『とにかくはよう帰ってきんしゃい。アパートで話聞くけんね!』

「わかったって。帰って説明するけん、近くのコンビニで、時間潰しとってよ」

 電話を切ると大きな溜息が出る。だが、いつものことだとすぐに気持ちを切り替えた。島田を待たせている。

「すみません、お待たせして」

「お母さん? 方言で話すんだ?」

 意外そうな声。そういえばとさくらは僅かに頬を染めた。普段はあまり使わないが、家族相手だとついつい方言が丸出しになる。

「あ……ええと。身内と話す時はどうしても出るんですよ。気取ってもしょうがないんで」

「そういや、俺もそうかもしれない」

 島田が博多弁で話している姿を想像する。多分すごく新鮮だろう。ちょっと聞いてみたいかも。そう思ったら地に落ちていた気分が少しだけ浮上した。

 さくらが歩き始めると、島田は隣で歩調を合わせた。

「ひょっとして、家、厳しいんだ?」

「今時おかしいんですけどね、門限八時なんですよ」

 うつむいたまま自嘲気味に笑うと、島田はへえ、と感心した声をあげた。

「八時ってすごいね。でも、前のバイトは? 九時までじゃなかった?」

「社長さんが父の知り合いだったんで、遅くなっても安心してたみたいです」

 先ほどの電話ではっきりしてしまった。

 辞めて即耳に入ったということは、山田に勤めるのはある意味監視だったのだ。さくらがしっかり勤務していたら、父母は安心する。娘が悪い男に引っかかっていないか――そんな心配は全くないというのに――そうやってチェックしていたのだ。

 厄介なことになったなと顔を強ばらせるさくらに、島田は突如提案する。

「一緒に行こうか? お母さん安心させた方が良くない? 変な会社じゃありませんからって」

 申し出に驚きつつ、さくらは丁重に断った。

「いえ、大丈夫です」

 男と一緒に帰れば火に油を注ぐようなものだ。過去を思い返してげんなりする。

「母、結構思い込みが激しいタイプなので、島田さんきっと攻撃されます」

「思い込みって?」

 言いにくいな……そう思いながらもさくらは口を開いた。

「か…………彼氏と勘違いされたら大変なんです」

「…………」

 案の定、島田は一瞬固まった。だが、さすが大人だ。すぐに気を取り直して冗談を言った。

「俺、殴られちゃったりする?」

「無いとは言い切れません」

 時代錯誤な話に、さすがに島田は目を丸くしている。

「若い男は目の敵にされるんです、昔から」

「大事にされてるんだな」

 さくらは曖昧に首を振った。

「でも、私もう二十一ですから、さすがにちょっと違う気がしますけど」

 まだ学生とはいえ成人しているのだ。行き過ぎた干渉だと思っている。

「じゃあ、今まで付き合ったりしなかった?」

「高校のとき、お付き合いしてた人はいたんですけど、母が猛反対して、なんていうか……めんどうくさがられて終わりました」

 思い出すと本気で沈んできた。失恋したというよりは、恋になる前に潰されたのだ。

 今でこそ恋愛より学問だけれども、昔からそうだったわけではない。高校二年の夏、年相応に恋愛に興味もあったさくらは、同じクラスでちょっといいなと思っていた男の子に告白されて、ささやかなお付き合いを始めた。

 そして、あれは三回目のデートの帰りだったか。花火大会に行った帰り、少しだけ寄り道をして、少しだけ帰りが遅くなった。

 本当に何も無い。手さえ繋いでいなかった。いや、今思えば、何かある前に妨害されたのかもしれないが。

 母親が帰り道に待ち伏せをしていたのだ。そして男の子に向かって鬼の首を取ったように言った。

『うちのさくらに何するつもりね? 不純異性交遊は断固許さんからね!』

 と。

 未婚の女子は純潔であるべし――頭の固い母は、母が娘だった時代の話をそのまま引き継いで、さくらにも倣わせようとしていた。

 相手の子はあからさまに引いていた。それはそうだろう。今時どこかのご令嬢でもないさくらを相手にして、そんなことを言われるとは思っていなかったに決まっている。しかも一切手を出していないというのに、一方的に詰られた。

 その後、彼は『ごめん、無理』と別れを告げた。さくらは大人しく頷いた。母との戦いとさくらとの交際を天秤にかけたあとに、気持ちが萎えてしまってもしょうがないと思ったのだ。

 その話は学内で密やかに広がって、面倒くさい女とレッテルを貼られたさくらの恋の相手は校内にはいなくなってしまった。

 反発したさくらは、大学入学と同時に家を出ようと考えた。だけど一人暮らしなどとんでも無いと県外の大学は反対された(願書さえ出させて貰えなかった)ので、実家から通える大学しか選べなかった。

 第一志望は九州大学。ここは家から片道三時間だが、難関なので教師を味方につけることができ、合格すれば一人暮らしを認めてもらえるはずだった。だが、事前判定がC判定と怪しかったさくらは、滑り止めに通学片道一時間半の博多女子大学を選んだ。

 さくらの実家は県北部にある海沿いの田舎町だ。JRの駅からバスで20分ほど行ったところにあるが、バスは一時間に一本あれば良くて、21時台に終バスが出る。少しもたつけば乗り遅れることも多かった。

 それを理由に、さくらは母の猛反対を押し切って家を出ることにした。仕送りは要らないから時間――自由をくれと。だからこその苦学生なのだが。

 しかし、結局のところ、家を出たら束縛は余計に強くなった。

 母親はまずさくらのアパートに固定電話を引いた。そして毎日八時にきっかり電話を入れた。出なかったら携帯にかけて居場所を確認し、帰る頃にまたアパートに電話をして在宅を確認する。

 それだけではない。たまに抜打ちチェックをしに、アパートに訪ねて来るのだ。今日みたいに、事前連絡も無しに。

 大抵の男は、そういったさくらの事情を聞くと引く。一人暮らしで、恋愛も自由にしやすそうだと狙っている男は余計にだろう。わざわざ面倒な障壁をかいくぐってまでさくらと恋愛したいと思わないのだ。

(私が男でも、私みたいなのはごめんだし)

 そういうわけもあって、さくらは恋愛については早々に諦めてしまった。さくらの方も男たちと同じで、揉める事が分かり切っているから、だんだん恋自体が面倒になってしまったのだ。

 反発すれば反発するほど、母もむきになる。大人しくしていれば、穏やかな日常が過ごせる。ならば、とさくらはより一層勉学に勤しむことにした。学問が恋人ならば、母も文句を言う余地が無いのだ。

「珍しいな。一般的に害虫駆除はオヤジの役目かと思ってたけど」

「うちは特殊なのかも……でも、悪い虫がついたらとか言われてる頃を逃したら、ゴキブリさえ寄って来なくなると思うんですけどね」

 ふと島田を見ると、彼は「ゴキ……」と複雑そうな顔をしていて、さくらは慌てた。

「あ、すみません。引きますよね、こんな話して」

 大抵の男はここでさくらを恋愛対象から外し、気軽な友人としてやっていこうと決めるのだ。今回もそうだろう。しかし島田からは思わぬ反応が返って来た。

「今の『親が厳しい』って話、牽制だよね」

「は?」

 不安そうに見つめられた。さくらは事実を話しただけだ。どこがどうして牽制という言葉が出て来たのだろうか。意味を計りかねて首を傾げると、島田は「って、何言ってんだろ俺」と、少し焦ったように口元を覆う。

「いや、なんでもない。ま、早く帰って安心させてやった方がいいね――じゃ、ここで。俺、姪浜めいのはま行きだから。七隈ななくま線だったよね?」

 ふと見ると地下鉄の入口が目に入る。

「え、ああ、はい」

 家について言ったかなと思い出そうとするが、記憶に無かった。

「また来週からよろしく。片桐さん」

 にっと口元を緩ませると、島田は地下鉄の階段へ吸い込まれていった。

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