7 合格ノ条件

(嘘だろ、ほんとに来た)

 島田はオフィスに戻るなり、引き出しから古眼鏡を引っ張りだして、ノンフレームの眼鏡と取り替えた。昨夜かけていたレトロな眼鏡である。

 野暮ったく似合わない眼鏡を見ると、大抵の女性が「ダサっ」という心の声とともに引きつった顔をする。うまい具合に女よけフィルタをかけてくれるのだ。

 それだけではなく、昔作った度の合わない眼鏡なので、視界からの情報が減り、心の声が聞こえにくくなる。つまりは蕁麻疹発生率も多少抑えられるため、仕事で女性に会うときなどは必ずかけているのだった。

 紺のスーツを着た就活生など、この界隈ではめったに見かけない。まさかと思って見ると、見覚えがある女子だった。衝撃のまま声もかけずに抜かしてきてしまったけれど、ここにたどり着くのも時間の問題だった。

 きゅううう、と腹が唸る。

 上原が「眼鏡変えるんすか? 女の来客ですか?」と問う(ちなみに上原は島田がメガネを変える理由は、単なる女よけだと思っている)が、無視して島田はトイレに逃げ込んだ。自分でも情けないが、昔からストレスにはとことん弱い。神経性腸炎とは大学入試以来の長い付き合いだ。医者では過敏性腸症候群と名をつけられたが、名前があってもやはりストレスを取り除くしか治療法は無いのであった。島田の自律神経は繊細すぎる。蕁麻疹もなるべくしてなった感があった。

「けいちゃん、またお腹こわしたの? 弱っちいなあ」

 姉が声をかけてくる。その図太さをわけて欲しいと島田は切望した。

 チャンスなのかピンチなのか混乱して、島田の腹はどんどん調子が悪くなってきた。

 名刺を渡すなど、馬鹿だったと思う。あの短時間で蕁麻疹が出なかったというだけなのに、随分と浅はかだった。職場に女が入り込めば、どれだけの危険性があるか、少し考えただけで分かりそうなのに。

(なんでだろ。だけど……どうしても気になったんだよなあ)

 腹を抱え込む島田の耳に、ドアホンの鳴る音が届く。姉が対応しているが、返ってきたのは紛れも無く片桐さくらの声だった。

『あ、あの! こちら、株式会社シマダさまでお間違いないでしょうか』

 島田は大きく深呼吸をした。自分で招いた種だ。大人なのだから、自分でしっかり刈り取る。見極めようと思ったのだ。

(そうだ。面接して、駄目だったら帰せばいい……って無職だったっけ……)

 とたん覚悟が脆くも崩れる。期待させておいていまさら追い出すことはとてもじゃないけれど、人としてできない。

(あ――……その時は上に頭下げるか。でもそれは、最後の手段にしたいかも)

 どうしたものかと壁を見つめていると、対応していた姉が黄色い声を上げながらトイレのドアを叩いた。

「ちょっと……けいちゃん!? 女の子! なんか女の子が来て、あんたの名刺とかバイトって言ってるけど、どういうことなわけ!?」

 島田はトイレの中から返事をする。

「あー、昨日合コンで会った子」

「え、合コン!? 聞いてない――ってけいちゃんがナンパしてきたってこと!? 天変地異の前触れ!?」

 姉は発狂せんばかりだ。

「クビになって困ってるって言ってたし、なにより、デザイン経験者なんだよ」

「それにしてもねえ……だって、あんたあれだけ女の子苦手って言ってたのに、大丈夫なの」

「だからだよ。このままじゃまずいって姉ちゃんも言ってたろ。自分なりに考えてんだよ」

(って、姉ちゃんの選んだ女がことごとく駄目だっただけだけどな!)

 島田は姉の今更な及び腰にむっとする。そして

(素面で、見極めよう)

 運命かどうかは置いておいて。彼女が島田のアレルギーを直すきっかけをくれそうな気がしてならないのだ。

 島田は泣き言を言う腹を無理矢理に黙らせて言った。

「面接するから、入ってもらって」



 *



 部屋の区切りは入り口傍のエリア以外、すべて取り払われ、一見普通の事務所のようにはなっている。だが、天井が低く、所々に鉄筋の柱らしきものが見える。最初にマンションか? と感じた通り、この部屋はマンションの一室を改装したもののようだった。つまり結構狭い。床はグレーの絨毯が敷かれていて、思わず土足で良いのかと問いたくなるくらいに綺麗に掃除されている。

 壁はコンクリートのうちっぱなしで、冷ややかさを感じた。それはなんだか今、目の前を歩く男に似ている、とさくらは思った。

 分厚い黒縁眼鏡には見覚えがあった。だが、雰囲気があまりに違ったので本当にこれが昨日会った彼なのかまだ断定できないでいた。

 男は髪をしっかりとワックスでセットしている。癖があると思っていた髪だったが、今は綺麗に櫛で整えられてストレートヘアにしか見えない。昨日は一歩間違えば学生に間違えられそうだったというのに、今はビジネスマンにしか見えない。のだが……ただ、どうしても野暮ったい眼鏡だけが浮いている。昨日以上に似合ってないのだ。

(そうか。眼鏡だけが合ってない。だから変な感じがしたのかも?)

 観察していると、男が振り返る。

「そこにかけて」

「は、はい」

 パーティションで区切られている窓際には応接セットがあった。革張りの、北欧を思わせるソファ。独り掛けが二脚並べられ、向かいに三人掛けが一脚。間に自然木でできたローテーブルが置かれている。窓からは先ほど歩いていた西通りが見え、街灯に照らされた外はぼんやりと明るい。

 窓の外に広がる景色、そして部屋の狭さなどは前の職場と同じ。だが、室内は比べ物にならないくらいにお洒落だ。ちらりと見たデスクも前の会社にあった事務的な物ではなく、アルミフレームの上に木製の天板が乗ったもの。広々とした机の上には大型ディスプレイとタブレット。足元にはマッキントッシュ。どちらもおそらくは最新型のだろう。椅子も座り心地の良さそうな大きな背もたれの付いたもの。

(ペンタブ! 最新型! ここ、すごく仕事しやすそう)

 この分だときっとソフトも最新バージョンだ。さくらはやや興奮しながら、「失礼します」とソファに腰掛けた。

 島田らしき男(まだ確信が持てない)は履歴書にさっと目を通した後、眉をしかめた。

「職歴は?」

「アルバイトのことでしょうか」

 バイトを職歴として書くのは気が引けて、趣味特技のところにドローソフト、画像編集ソフトと書いているだけだった。

「三年ほど、株式会社山田というサインの会社でデザインの仕事をさせていただいています」

「山田さん……ね。なるほど」

「ご存知なんですか?」

 島田もどきは曖昧に首を振ると次の質問を振った。

「どのレベルかは確かめるとして……使用したことのある機種マシンは?」

「主にマックです。けどウィンドウズも多分使えます」

「なら業務上の問題はないか。あとはあっちの問題だけ……」

 彼は首のあたりに手をやって少し考えこんだあと、さくらが先ほど観察していたデスクを指差した。

「じゃ、とりあえず試用期間、一ヶ月ってことで試したいけど。いいかな?」

「え、ってことは一応採用ってことでいいんですか」

 さくらの言葉には答えない。どうやらさくらに問うたのではなく、周囲の人間に問うたらしい。

「けいちゃんが大丈夫なら、こっちはいいわよー?」

 とパーティションの後ろから高い声が一つだけ上がった。

 その声と同時に島田もどきは立ち上がる。

「じゃあ、片桐さん。うち、今人手足りなくって即戦力を求めてるんで、とりあえず今日から一ヶ月働いてもらうけど。週五日、二、三時間くらいの勤務。大学もあるだろうし、時間帯はカリキュラムに合わせて相談するとして、給料は時給九百円スタートでいいかな? こっちも能力次第で変えるつもり」

「十分です」

 一日三時間労働、九百円は前のバイトと同じだった。即答すると、島田もどきはパーティションの後ろに回り込み、さくらを呼ぶ。行って見ると、隠れていたのは小さな椅子に押込められた巨体だった。

「じゃーウエハラ、ちょっとどのくらい使えるか見てやって」

「えー」

 うんざりと振り向いた男の手にはマウス。付属の普通サイズのものなのだろうが、彼の手が大きいので妙に可愛らしいデザインに見えた。

 背も大きいが横幅もある立派な体格。百キロは越えているに違いない。

(クマ?)

 それが彼の最初の印象だった。

「島田サンー」

 クマさん――もとい、ウエハラは彼を島田だと断定する。皮を被った別人じゃないかとまだ納得いかないが、どうやら認めざるを得ないらしい。

「散々求人広告出したのに、結局合コン行ってナンパした子を採用って、正気っすか。暑さで頭やられたんじゃないんすかー?」

 雇用に反対なのを隠そうともせず彼は口を尖らせている。

(うわー、口悪い。幸先も悪い)

 さくらがひっそり顔をしかめる隣で、島田は冷たい声で応対する。

「じゃあ聞くが、馬鹿高い広告料払った求人広告で、まともなのが来た覚えがあるか? ワードエクセルはできます、パソコン得意です! って、厚顔無恥の奴らばかりだろ。使う技術が全然違うのも分かってない」

「そう言うんならもっと待遇あげてくださいって。無理ですって。非正規雇用であの給料じゃ、仕事理解できる技術者は誰も来ませんって。正社員で募集してくださいって」

「今は余裕が無い」

「だけど、とにかくナンパした女子とか困るんで」

 堂々巡りになる会話に島田は目を細めた。

「文句は、一人でも育ててから言え。お前の給料には指導料がつけてあるんだ。全額返金してもらってもいいんだからな?」

「って僕のせいですか? そもそも、人員補充しても、島田サンが冷たくするからすぐ辞めちゃうんじゃないっすか!」

 島田は僅かに怯む。

「別に冷たくしてないし」

「いやいや、自覚ないんすか」

「……だとしても、あのくらいで辞めるってのがおかしい」

 むすっとしている島田は、やはりこの間笑い続けていた男とは別人に見える。

(えっと……えっと? すぐ辞めるって……もしかしたらブラックな感じ?)

 会話が不穏で不安になったところで、奥のデスクでさくらを見つめてニヤニヤしていた女性が「あたし、ちょっと知りたいなあ。けいちゃんがこの子連れてきた理由」と突如口を挟んだ。

 島田が「あー……あれ、やるのかよ」と小さく呻くが、全く意に介さない様子で女性は言った。

「ねぇ、片桐――さくらちゃん?」

「は、はい!?」

「飲み会で会って次の日に即来るなんて、あなた、名刺に釣られたの? 御曹司かと思って期待した? ガッカリしたでしょ?」

 にたり、と赤い口紅の塗られた綺麗な唇が歪んだ。

 悪友たちとの会話をなぞられて、思わずぎくりとするが、辛うじて「いいえ」と答えた。

「正直に言っていいのよぉ? 仕事はハードだし、上司もこんな感じで冷酷だし。今のうちに『やっぱり辞めます』って言った方があなたのためだしー?」

 甘ったるい口調の中に、ちくちくとした女独特の悪意を感じ、ムッとする。

『御曹司の名刺に釣られてやって来た夢見がちな女』、そんな女だと思われるということが、まず悔しい。真剣に働こうとしている人間に対して失礼だ。

(こっちは生活かかっててそれどころじゃないんだよ! っていうか、そういうやらしい発想に至るってことはあんたもそう思ってるんじゃないの!?)

 島田をちらりと見るが、彼はフォローを入れるでも無く黙ってさくらを観察している。口元は僅かに上がり面白そうだった。興味津々といった様子にさくらはかっとなる。

(うわ、ムカツク!)

 さくらはきっぱりと言った。

「いえ、私、失職したばかりでお金に困っているのです。未熟者ですけど何でもやりますし、どうか働かせてください」

 とりあえずさくらは本来の自分の目的さえ果たせれば良い。なんとか無事に大学を卒業したいのだ。一時の感情に振り回されて、チャンスを無駄にはしたくない。

(時給九百円!!!!)

 心中で叫びながらぺこりと勢い良く頭を下げると、島田が「合格だな」とどこかほっとしたように小さく息をつく。

「彼女は河野真由美こうのまゆみ。女性は二人だし、喧嘩せずに仲良くやってくれ」

「よろしくねぇ?」

 河野はにっこりと笑う。先ほどの毒はどこへ行ったのやらというような爽やかな笑みだった。

(あれ?)

 拍子抜けしたさくらは河野の笑顔に何か既視感を感じて、記憶を探る。目鼻立ちが整っていて、十人が十人美人だと言うタイプの女性。栗色に染められた髪は項で切りそろえられたショートボブ。きりっとした体にあったグレーのスーツを着ている。年齢は不詳。外見だけならば二十代に見えるけれど、なんだか醸しだす迫力が確定を邪魔する。

(うーん……どこかで見たことあったような気がしたけど)

 やはり彼女とは初対面のはずだ。こういう印象的な美人を忘れるわけは無い。気のせいだろう。

 そんな風に思っていると、島田にデスクを指差される。先ほど見とれていた綺麗な机だ。

「片桐さんの席はそこ」

 と、隣に先ほどのクマさんが召還される。

「そして、こいつは上原良平うえはらりょうへい。デザインとウェブサイト担当だ。あとは、」

 そこで島田は一度言葉を切ると、「知ってるかもしれないが」と僅かに気まずそうに自己紹介をした。

「俺は島田啓介。営業担当だ。ってわけで、ここは三人の社員で回してる」

「え、三人ですか」

 予想以上の規模の小ささだ。それに――

(一人足りなくない? それから、私って何するワケ?)

 今になって根本的な疑問が湧いて来た自分に、さくらは呆れた。

(ま、いっか。なんでも)

 もともと職種にこだわりなど無い。大学に入った時点で、そして山田を辞めた時点で、将来の夢を完全に諦めてしまったから。

「会社起こしたばかりなんでね。バイトの片桐さんが四人目。デザインの補佐を頼む。言っとくけど、かなり厳しく指導するつもりだ。河野が言うように辞めるなら今のうちだけど」

 島田は河野をちらりと見ながら最終確認をした。

 しかし、

(デザイン!? それって)

 その言葉にさくらは飛び上がりそうになり、

「いえ、やります。やらせてください!」

 思わず大きな声でそう言うと、島田が怪訝そうにさくらを見つめた。興奮してしまったことに慌ててさくらは話題を変える。先ほど気になったことがあったのだ。

「あ、えっと、副社長は島田さんなんですよね? で、社員は三人って――じゃ、じゃあ……社長はどちらに?」

 すると、ふ、と島田が奥を見る。

「あたしよ? さっきは酷いこと言っちゃってごめんなさいね」

 にっこりと手を挙げたのは河野だった。

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