5 女といういきもの

「かゆ……かゆ……あー、やっぱ、でちゃったか。くっそ」

 島田はネクタイをゆるめ、ワイシャツの一番上のボタンを外す。トイレの鏡を覗きこむ。プツプツプツ……と顎から鎖骨のあたりに広がるのは例の蕁麻疹。腕をまくると肘の内側も赤くなっている。軽いほうだけれど……それでも強烈に、かゆい。

 医者が言うには、ストレスが原因の一種のアレルギー反応であるらしい。しかも島田の場合は不信感に根本的な原因があるとのこと。「はっはっは、恋でもしなさい」と脳天気な指導と共に笑い飛ばされたものの、がある状態でどうやれば恋などできるのか島田にはわからなかった。

 青山美砂のを思い出し、島田はひっそりとため息を吐いた。

 〝女といういきもの〟を島田はよく理解していると自負していた。というのも、彼には二人の強烈な姉がいるからだ。彼女たちの、男を誑し込むための作戦会議を、そして互いに勝利をたたえあう女子トークを幼いころから島田はいやというほど見てきたのだった。

 しかも、世話好きでもある姉二人は、島田が将来困らないようにと、自分たち好みのイケメンになるように幼い頃から教育を施した。女子が望む行動を詳細に至るまで叩きこみ、表情や、発言の裏の裏までを読むことを強要したのだ。そのおかげで、確かに、島田は大抵の女性に高いランク付けをしてもらえた。だが、今思えば、それが悲劇の始まりだったと島田は思う。

 姉二人のスパルタ教育により、いつしか島田は、女性の仕草を見るだけで、本音が幻聴のように聞こえてしまうようになったのだった。

 便利だと羨む者もいるかもしれないが、実際そうなってしまうと、ストレス以外の何物でもない。彼女たちは、笑顔で好感度の高い発言をしながらも、心の中ではしたたかに計算をしている。

 先ほどの青山美砂がいい例だ。可愛らしさを演出するための計算づくの発言と、空耳のように響いた声――

『ちょっと頭弱そうな方が可愛く見えるでしょ、あなたたち?』

 を同時に聞くと、とうとうアレルギー反応がでてしまった。自分だけに向けられたものでないことが不幸中の幸いだ。直撃したら全身蕁麻疹は避けられなかった。安物のスーツに一昔前の眼鏡で、地味に装って来て正解だと思った。

 誘ってくれた田中の顔を立てるためだったが、やっぱり止めるべきだったかと後悔し始める。高校からの友人である田中は、家族以外では、島田の女嫌いと理由に理解がある唯一の人間で、真剣に将来を心配してくれていた。島田は家の方針で二十八までに結婚しなければならない。見合い話もちらほら届いているし、このままでは親の選んだ相手との結婚を押し付けられる。そんな危機感もあったため、『絶対今回は来たほうがいい』という言葉に載せられて顔を出したのだが……。

(そういや、田中の彼女のイチオシって聞くの忘れたな……どっちだ?)

 蕁麻疹にかゆみ止めの薬、レスタミンを塗りこみながら、島田は考える。

 彼女の藤沢さんとは面識がないし、さすがに聞きにくい。

(青山美砂だったら今すぐ帰るぞ、俺は)

 眉をしかめながら、島田は首を傾げる。合コンは三対三。女子は三人いたと思い出し、青山美砂、藤沢の顔の次に来た顔にハッとした。

(そういや、あの子、女の子だった)

 なぜか男と話しているような感覚だったが、長い髪とスカートという出で立ちはたしかに女性のもの。忘れるくらいに自然に会話をしていたことに驚く。

(あれ? めちゃくちゃ普通に会話をしてたような?)

 さくらという名前に何のコンプレックスがあるかは分からなかったが、ひどく困っているようだったので助け舟を出したつもりだった。だが、とたん、彼女が顔を輝かせて研究の話を始めたものだから、正直に言うと最初、島田は面食らった。

 ミドリムシなど、どう考えても合コンで話すような話題でもないのに。自分を可愛く見せるつもりならば、青山美砂のように小難しい話は絶対避けるはずなのだ。だから合コンはいつもつまらなかった。中身の無い会話は時間の無駄だったから。だが、さくらの話は男友達とするような普通の会話だし、要点を絞った回り道のない話はわかりやすく、なにより心底楽しそうに話されるとこちらにも楽しさが移ってくる。

(あれが、リケジョってやつか)

 生物専攻の理系女子大生。今まで周囲にいたことのないタイプの女子だった。

 田中の彼女に中断されたけれど、ミドリムシの話は面白かった。もうちょっと話を聞いてみたいかも――そう思っていると電話が震えた。会社の部下、上原からのメールだ。

『島田さんー、遊んでないで早く戻ってきてくれないと手が足りないんっすけど』

 上原には接待だと言ってある。島田の顧客はどこにでもいると言っていい。当然水野も田中も成りうるのだから、一応嘘ではない。トイレのそばのソファに腰掛けると、オフィスに電話をかける。

 メールの泣き言を無視して一方的に進捗を尋ねる。

「霞ビルの契約どうなってる?」

『まだ返事待ちっす』

「あ、そう。じゃあ、原稿だけ手配しておいて。返事もらったらすぐに送りたい」

『何時だと思ってるんすか。もう帰りますよ』

「気張れよ、今度ラーメンおごるから」

『いや、寿司がいいっ――』

 そんな言葉を無視し電話を切る。そして他の案件で電話をいくつかかけた。その間にもまた上原のメールが入ってくる。ため息が出る。立ち上げたばかりの会社はまだまだ人員不足。募集をかけても使える人間がなかなか入ってこないのだ。技術職だから、もっと給料出さないと誰も来ませんよと上原は言うが、いかんせん予算がない。

 ソファでため息を吐いていると、ふと視線を感じる。先ほどのリケジョ――片桐さくらが気まずそうにこちらの様子を窺っていた。こういう場合はたいてい目を見なくてもわかる。

(トイレか?)

 陣取って悪かったなと思っていると、彼女は言った。

「戻らないんですか? みんな待ってますよ」

 島田は腹の中で笑う。こんな地味な男を待つって誰がだと思う。

「俺がいなくても水野がいるし。大丈夫だよ」

 たいていこういう言葉を聞くと女はこう返す。そんなことないですよ、皆さん素敵です。と。腹の中では苦笑いをしながら、だ。

 想像しただけで痒くなって島田は発言を取り消したくなった。だが、

「あー……、たしかに水野さんわかりやすいイケメンですもんね」

 珍しい返しに島田は目を瞬かせる。さくらは苦笑しながら続けた。

「でも、しょうがないですよ。女子ってそういう生き物ですから」

 島田も同じ意見だが、なにか切り口が変だと思った。だが、他の声は聞こえてこない。ということは、つまり、口から出ている言葉が本音ということだ。

(珍しいな) 

 今度は何を言い出すんだろうと興味をひかれる。

「どういう意味?」

「人間の雌はたくさん子供を産めないから、少ない子供を守るためにも強い雄を繁殖相手に選ぶんです。現代で生き残るには力より経済力だから、本能でどうしても優秀そうな男の人を求めるんですよ。もっと言っちゃうとお金持ちを。どの動物もですけど、雄が子孫を残すには強さを示さないといけないから大変ですよねえ」

 淡々と説明されて島田は口をぽかんと開けた。

(今、雌とか雄とか繁殖とかさらっと言わなかったかこの子)

 というか、人間に対しては雄とか雌とか普通は言わない。さくらは難しい顔をすると更に続ける。

「でも優秀な雄にはたくさん雌が寄ってくるし、雄は子孫をたくさん残すために本能で浮気しますからね。メリットとデメリットで相殺されるとも思うんですけどね」

 過激な言葉に返す言葉が見つからず絶句していると、

「あ――! すみません、つい!」

 あたふたと慌てるさくらの心の声がダダ漏れる。

『ぎゃあ! いつもの調子でやっちゃったよ!』

 島田は堪えきれずに噴き出した。いつもの調子って、いつもこんなことばっかり考えているのか。

「なるほどねえ……ってそういう情報どこで手に入れるの。授業? 持論?」

「いえ、あの、愛読書の動物行動学の本――っていっても雑学の部類ですけど――に書いてあって」

「どうぶつこうどうがく……?」

 まず愛読書が女子大生っぽくない。と、電話が鳴って島田は彼女から目を離した。スマホを見ると、また上原からで、霞ビルの受注FAXが来たという知らせだった。心のなかでガッツポーズを取る。

「お仕事忙しいんですか?」

「うん。今さっきやっと大きな契約がとれたところ。これから忙しくなるかな」

 合コン抜けてオフィスに帰りたいな、と、うずうずした瞬間、さくらが口を開いた。

「……こんなところ、来てていいんですか?」

 島田は、周りを確認したあと小さな声で言った。

「あー、実はちょっと断りきれなくって。田中には世話になってるし。あと、あいつの会社も得意先だから接待でもあるんだ」

「接待……ってなんだかお偉いさんみたいですね」

 島田は「そうだな」と軽く流す。

「俺からも質問していい? 片桐さんはなんでここに来たの? せっかくの合コンなのに、話もせずに、」島田はそこで、目の前で瞬く間に空になる皿の数々を思い出して頬が緩む。「……食べてばっかりだ」

「わ、わかりました!?」

「そりゃあ目の前だから。みんな酒ばっかり飲んでるのに、皿が空になるの、妙に早いなって」

 さくらは『うまくやったと思ったのに!』と目を剥くと赤くなる。

「えーと……私、昨日無職になっちゃって、今日はお腹いっぱい食べて帰るつもりでして……スミマセン、おごってもらえるって聞いちゃって」

 さくらはどこまでも正直に打ち明ける。それは、姉のセオリー通りなら絶対に隠すべき情報だ。島田はどんどん愉快になりながらも彼女の漏らしたシリアスな事情が気になった。

「無職って?」

「バイトです。昨日でクビになっちゃったんです。卒業まで半年だし、短時間で高収入のところってそんなにないから」

「短時間で高収入?」

 まさか夜の仕事だろうか。それは似合わないなと笑みを消すと、さくらは少々慌てて否定する。

「あぁ、えっと、違うんです。高収入って言っても、時給九百円なんですけど。新しく探しても七百円くらいが多くて。一日三時間働くとして六百円の差は大きいです。学食だと二食分だし、自炊だったら下手したら二日くらい食べられるかも」

 焦ったせいか、またしても要らない情報まで漏らしてしまうさくらに、島田は再び吹き出していた。

「さっきから思ってたけど、片桐さんってかなり面白いよね。合コンでミドリムシについて熱弁する女の子とかはじめて見たし、動物行動学の話も、一食いくらとかもはじめて聞いた」

 島田はツボに入って我慢できずにケラケラと笑う。さくらは不本意そうに理由を口にする。

「でも食費は実際、切実なんですよ。私、奨学金とバイト代で生活してるんです」

「え? 仕送りとかないの?」

「……」

 一瞬の間の後目を逸らされる。立ち入りすぎただろうかと島田は後悔するが、さくらは小さく首を振って「親には頼りたくないんです。自立したくて」と言った。

 今時珍しい。

「ふうん……でも九百円って相場よりちょっと高いよね。何の仕事してたの」

「えーと……」

 さくらはふと壁を見て、そこにあったマークを指差す。

「こういうの、デザインしてました。一応技術職だから給料高かったんだと思います」

「…………へぇ」

 トイレのマークを指差すさくらを見て、島田は目を見開く。そしていつもの癖で首に手をやった。違和感に首を傾げる。いつの間にか蕁麻疹が消えていた。

(あれ?)

 女性とこれだけ長く話していたというのに、増えずに消えるなど今までにはないことだった。気が付くと、島田は、これはもしかしたら運命だろうかと柄にもないことを考えていた。


 *

 

 やがて合コンは散会となる。外の空気は生暖かかった。冷房の効いた店内で強ばっていた肌がとたんに緩んで行くのが分かる。最後にアイスを二人分(自分の分と甘いのが苦手と言った島田の分)食べて結構体が冷えていたため、心地よくも感じた。

 地下鉄組と徒歩組は、店の前で分かれることとなった。

 徒歩組は中央区在住の藤沢と彼女を送って行く田中。藤沢は意味ありげに「頑張って」と言ったが、さくらは軽く流す。今日の目的はもうしっかりと果たしたのだ。

 地下鉄組は店から天神てんじん駅に向かう途中、さくらと島田、ミサちゃんと水野の二列に分かれて歩いた。

 前を歩くミサちゃんと水野が互いのスマホを取り出している。お互いにスマホを振っているからLINEのアドレス交換をしているのだろう。

 それを見ても島田は携帯を取り出したりしなくて、さくらは眼中から外れたことにほっとしつつも少し寂しく思う。

 久々に教授以外の異性と話したが、島田は話しやすい男性だった。ミドリムシの話に付き合ってくれる人など今までに居なかったし、テンパったさくらに呆れもしなかった。大人な対応はさくらを安心させて余計なことまで話させたが……つまりは、楽しかったのだと思う。

 しかし、天神駅にたどり着いたところで、隣を歩いていた島田が立ち止まり、唐突に言った。

「片桐さんの携帯、ガラケーって言ってたよね」

 確かにさくらの携帯はガラケーだ。しかもかなり古い機種。そういえばさっき藤沢が話題に出して化石扱いしていたかもしれない。

 それがどうしたのだろうと思っていると、島田はおもむろに胸のポケットから名刺入れを取り出した。使い込まれた高そうな名刺入れに目が止まる。刻まれたロゴはさくらでも知っている高級ブランドのロゴ。スーツが普通なので違和感があった。これ、スーツより高いんじゃないか? と思って見つめていると、彼は手慣れた仕草で一枚選んで、さくらに差し出した。

「俺、LINEやってないし、メルアド長いし、スマホにも赤外線ついてないから」

 ああ、これは社交辞令ってヤツですか。そう思ったとたん、

「違うよ」

 と返されて、顔に出てたか? と焦ったさくらは、渡された名刺の肩書きに目を落として口をぽかんと開けた。彼は分厚い眼鏡の奥で、いたずらっ子みたいに、にっと笑うとさくらに耳打ちした。

「――――て」

「え――――?」

 子供のような笑顔と、耳元で囁かれた低く甘い声と、その内容に固まっていると、やり取りを嗅ぎ付けたミサちゃんが駆けつけた。

「あっ、島田さん、私にもください!」

「はいはい」

 ついでにって顔に出てるよ、とぼそっと小さくつぶやきつつも、彼は再び名刺を取り出した。受け取ったミサちゃんもさくらと同じく衝撃を受けたらしく目を丸くしている。

「じゃー、またね」

 島田はそのまま逃げるように颯爽と駅に下りて行く。

「し、島田サン! 待ってください! 次のお店、行きませんかぁ!?」

 ミサちゃんが慌てたように追って行くが、酔いと不安定なミュールのせいでよろよろしている。

「ええ!? ミサちゃん、俺は!?」

 あっという間に捨てられた哀れな水野が、金魚の糞みたいにミサちゃんについて行く。

 置いて行かれたさくらは、地下に流れ込む風の中で呆然と突っ立っていた。

 手の中の名刺には上部に『株式会社SHIMADA』とあり、中央に先ほど聞いた名前が書いてある。灰色の紙に黒と赤の文字の凝ったシックなデザイン。だがそんなお洒落な名刺に書かれた会社名は発音するととても地味だ。なんというか……彼本人のつかみ所の無さとよく似ている気がした。

 そんなことを考えつつも、目に飛び込むのは〝副社長〟の文字。

「ふくしゃちょーって、……きっとお偉いさんだよね」

 ぽつりと呟く。冗談で言っていたが、そういうことならば接待という響きはぴったりだ。

「さぁて……どうするかな。とりあえずは明日藤沢と広瀬に相談か」

 名刺の裏を見ると手書きの携帯番号とメールアドレス。その下にホームページのアドレスが印字されている。興味を惹かれて携帯で見ようかと一瞬思ったが、通信料を気にして結局止める。明日学校で見れば良いか。


 足元がふわふわする気がして、さくらは階段をゆっくりと下りる。


『もし片桐さんさえよければ雇ってあげるよ? 都合のいい時に履歴書もって事務所に来て』


 最初は地味で無愛想だと思っていたけれど、その印象は笑顔で弾けた。共に耳に繰り返される声は妙に甘ったるく響き、さくらの胸の音を速めた。

(って、何勘違いしてんの。仕事の依頼だって。私みたいなのを相手にする人なんかいないし、――きっと同情してくれたんだってば)

 いくら自分に言い聞かせても、心が弾む。だってこんなのは、何年ぶり? 浮ついた自分はなんだか自分らしくない。

(うん、きっと酒のせいだ。絶対そう)

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