1 リケジョの近況

 時を一日遡った、木曜日のことだ。

 福岡市博多区ふくおかしはかたくにある繁華街の狭いビル。その一室を借り切った事務所の中にさくらはいた。人が五人も入れば窮屈に感じるくらいの広さだ。冷房を切った部屋は蒸し暑い。不快指数は殺人的に高く、壁に取り付けられた首振り扇風機がこちらを向く時だけ人の世界に戻ったような気になる。

 目の前では初老の男が休むこと無く扇を動かしている。

(あー、運動で発生する熱と、起こした風で消える熱は等価だっけ)

 そんなことをさくらは考えた。

 ワシワシという熊蝉の声が大きく開けた窓から流れ込んで来る。二、三匹いるのかそれとも近くに止まっているのか、酷くうるさい。なのに男――株式会社山田の社長の言葉は妙に通っている。聞きたくないのに聞こえてくる。

「ごめんねぇ、さくらちゃん。今まではあんたのお父さんに遠慮して言えんかったんやけど、どうしても業績が上がらんでねぇ。得意先にもいくつか頭下げたんやけど、注文なかなか取れんでね。ここまでずるずるきとったけど、どうも人員削減せないかんごとなったんよ。変なバイトにでも手ぇ出されちゃいけんって親心は、よう分かるしね。あんたのお父さんには懇意にしてもらっとったけん、今まで預からせてもらっとったんやけど、この不況やろ? さすがに厳しくってねぇ。分かってくれんかね」

「そ、そこを卒業までなんとかしていただけませんか……!」

 縋るように言うが、社長は首を横に振る。

「悪いけどねえ……、さくらちゃんもまだ学生さんやし、親御さんに頼ればなんとかなるやろ? うちとしても優先すべきは、やっぱ社員の生活やけんねえ。路頭に迷わせるわけにはいかんとよ」

 大学生が遊ぶ金までは出してやれない。そんな含みを感じ取って、さくらは懇願を引っ込める。社員の命を持ちだされたら、さすがに黙るしかないと思った。

「また業績上がったら声掛けるけん、……ごめんなぁ」




「……くび……かぁ。これから、どうしよ……」

 賑やかになりつつある街をさくらはとぼとぼと歩く。コンビニで求人情報の載った無料のペーパーを貰うと、半分に畳んで鞄に突っ込んだ。


 さくら――片桐かたぎりさくらは二十一歳。春に研究室に配属されて、現在〝ミドリムシ〟という単細胞生物を使って光合成の研究を行う大学四年生――理系の女子大生だ。

 ミドリムシとは体の中に葉緑体を持つ単細胞動物だ。顕微鏡で見ると、楕円形の体に鞭毛がついていて、スライドグラスとカバーグラスの間を元気よく動き回る。光を当てると光合成をして栄養分を自ら作り蓄え、分裂して増える小さいのにエネルギッシュでとても可愛い生き物だ。動物なのに植物である不思議な生物の魅力を、思う存分語りたいところだけれど、これ以上を説明すると長くなるし、大抵の人間が退屈して嫌な顔をするので、以下略。

 ともかく今のさくらの生活は、ミドリムシを中心に回っている。培養の日程をスケジュール帳に細かく書き込んで、それに合わせて行動している。バイトだってそうだ。

 その点山田での仕事は都合が良かった。小さなデザイン会社は、ピクトサインの印刷を主に行っていた。ピクトサインと言うのはいわゆるトイレのマークのようなサインのこと。それをプラスチックなどのプレートに印刷した商品を作るわけだが、発注する前に原寸大の平面図を書いて、客先に確認を取るという作業がさくらの仕事だった。だが、この頃は注文もまばらで、ほぼ電話番だった。だから会社が傾いたのだろうが――とにかく、空き時間に出社できる、しかも自由時間も多く論文を読んだり書いたりできる、そのような職が見つかるとはどう考えても思えない。

(だからと言って、仕事をしないわけにもいかないしなぁ)

 社長はあんなふうに言ったけれど、バイトは遊ぶ金欲しさのものではない。さくらは一人暮らしをしているため、その生活費を捻出するためのものなのだ。田舎の親が健勝だから誤解されるけれど、彼らからの仕送りはとある理由により全く期待できなかった。むしろ頼んだら喜んで援助するだろう。

(あー、それだけはだめ。絶対できない……)

 もう一つの大きな問題は、なおざりにしていた就職活動だ。修士博士号なしの生物系理系女子に対する研究職の募集は皆無。だが、職種を選ばなければなんとか就職口は見つかった。現に三年の後半から活動を始めていた友人たちは次々に内定を貰っていた。山田社長の「卒業してもここで働かんね」という言葉を鵜呑みにして、自分もその仲間入りをしていたつもりだったが、話は泡と消えてしまった。

 社長と父親は旧知の仲。一応口止めして来たが、親に知られるのも時間の問題だろう。喜々とした母親から「就職駄目になったんやろ? じゃあ卒業後は家に帰って来るんよね?」と電話がかかってきそうだ。

 電話口から響く高い声を想像して頭痛を感じたさくらは、ため息をついて携帯の電源を切る。


 最寄り駅の中洲川端なかすかわばた駅周辺には夜になると屋台が並び、昼間とはまた違った顔を見せる。

 集う人の種類ががらりと変わるのだ。昼間は真面目そうな会社員が颯爽と歩いているというのに、夜は赤い顔をした酔っぱらいが千鳥足でフラフラしている。

 さくらは大学の帰りにここで途中下車して仕事に向かっていた。そうして通学の交通費も賄えるからこそ、大学から少し離れたところに家を借りたのだ。

 つまりバイトも生活の一部になっていた。

(あーあ。ここ通るのも今日が最後かも?)

 アーケードを通らずふらふらと川沿いを歩く。豚骨ラーメンの匂いが鼻をくすぐるが、ぐっと堪える。たまの贅沢と屋台を覗く事もあった。だけど、ここは観光客向けにぼったくっていることが多い。家の近所のラーメン屋の方が安くて美味しい。それより家で〝うまかっちゃん〟を食べた方がさらに安上がりだ。無職となったさくらは自分に言い聞かせる。

「ねぇちゃん、遊ばんね。おごるけん」

 酔っぱらいがさくらに声をかける。耳が「おごる」という言葉に反応しそうになるが、無視して歩くと、次の酔っぱらいが目の前に立ちふさがる。

 足払いをかけたいような衝動を堪えつつ足早に歩く。

 声をかける男には、チラシを配る若者も混じっている。普段は無視するいかがわしいチラシが目の端に散らついた。

 足元に捨てられたチラシには日給と勘違いするような額が時給として書いてある。

 顔を上げると鮮やかなピンクのネオンが顔を照らした。

「あれ? 姉さんお金困っとるん?」

 立ち止まったさくらに男が目ざとく声をかけて来る。さくらはぎん、眉を怒らせて男を振り切った。

「間に合ってます!」

 金は欲しい。だけど人には売り払ってはいけないものがある。『さくら』のように、強く美しく生きなさい。大好きだったばあちゃんの言葉が高い空から降って来て、彼女を叱咤した。

「負けるもんか」

 さくらは決心を握りしめるようにして夜の街を駆け抜けた。

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