記憶④~約束~
蛍はテレビで見たことはあるが、実際に見たことはない。昔はこの辺にもたくさん飛んでいたが、今はいないのだと、祖父が寂しげに零していた。
「うん。川がきれいだから、毎年蛍がたくさんいるって、父さんが言っていた」
「家族旅行に行くのね」
「うん。お土産、買ってくるから」
小太郎が申し訳なさそうに顔を顰める。
「ほんとうは蛍を捕まえて見せたいんだけど、兄さんが、ゲンジボタルもヘイケボタルもぜつめつきぐしゅだから、大切にしなきゃいけないよって言われたんだ。見に行くのは、ゲンジボタルみたいだけど」
「気持ちだけでうれしいよ。ここだと仲間がいないから、連れて帰るのは可哀想だし」
「そうだね。このへん、蛍いないから」
の言葉に、顰めた顔が治った。
「どうして、このへんは蛍いないんだろう。そうしたら、 と一緒に見れるのに」
残念がっている声色に、 は思わず小さく笑う。
「昔はたくさんいたって、おじいちゃんが言っていたよ」
「そうなの?」
「うん。昔と比べると、川がきれいじゃないから蛍は来ないんだと思うの」
小太郎は唸りながら、言葉を絞る。
「川がきれいになったら、蛍来るかな?」
「蛍が気に入ったら、来ると思うわ。でも、川がきれいになるまで時間がかかるって聞いたことがあるから、すぐは無理だとおもう」
「どれくらいかかる? 二ヶ月くらい?」
「う~ん。数年くらいかな?」
前観た川のドキュメンタリー番組を思い出しながら、答える。あれは十年以上掛かったといったが、公害が出たほどの川のことだ。公害が出ていないこの辺りの川だと、そこまでは掛からないだろう。
「 のおじいちゃん、蛍が見れなくてさびしくないのかな?」
「さびしそうにしていたから、きっとさびしいよ」
「なら、どうして川をきれいにしようとしないんだろうね」
「そんな余裕がないのよ」
自分のせいで、と心の中で付け加えておく。自分がいなかったら、そういう活動するかもしれない。
ふーん、と少し分からない様子で小太郎が呟く。
「 、退院はいつになりそう?」
「夏休み中は無理かな」
退院しても、精々四日だろう。体調を崩しやすいこの身体では、旅行は到底無理な話だ。
「そうか……」
落ち込む小太郎に、 は苦笑を浮かべた。
「ねぇ、 」
「なに?」
「元気になったら、蛍を見に行こう」
は、目を軽く見開く。そして、困ったように眉を八の字にした。
「約束?」
「うん」
「この前も約束したのに。そんなにたくさん約束しちゃったら、忘れちゃうよ」
美味しいタルトを食べに行く、花火を一緒に見よう、雪だるまを一緒に作ろう、お花見をしよう。
他にも色々と、約束を交わしてきた。交わせない約束を。
やんわり、と遠回しに、しないほうがいいよ、と忠告する。だが、小太郎は強く宣言した。
「忘れない。絶対に守る」
は、溜め息を吐いた。小太郎は頑固なところがある。これは絶対に折り曲げないな、と早々に観念した。
「うん、わかった。約束よ」
「うん! じゃ、指切りしよう」
小太郎が小指を差し出す。 も、小指を出して、小太郎の小指と絡めた。
小太郎が破顔する。絶対に守る気満々なのだと、その顔をみて分かった。
胸が、痛む。
は、分かっていた。全部の約束を守れる日は来ないことを。一緒に過ごす時間が残されていないことを。
分かっている。交わせない約束は、この子の柔い心を突き刺し、背負って生きていくことを。
これ以上、約束を増やしたらいけないのに。その分、この子を傷付けてしまうのに。
それでも、約束を交わしてしまうのは、少なからず も願っていることだから。純粋に自分の生を望む、この子の期待を潰してしまうことを躊躇ってしまうから。
は、大人達から心の底から生を望まれていない。死んだ方が楽になれる、死んでくれたら自分たちが楽になる、と思われている。両親は天国で望んでくれているだろうが、傍にいないのなら同じことだ。
けれど、小太郎だけは違う。 が元気になれる日を、心から望んでくれる。祖父からも死を望まれている にとって、小太郎は生きる希望だった。
(ごめんね、小太郎)
近いうち、自分はこの優しい子を残して逝ってしまう。きっと、後悔するだろう。約束を守れなかった、と。
守れないと分かっていた約束を、交わしてきた自分を恨んでもいい。ただ、幸せであってほしい。屈託のない笑顔をずっと、浮かべてほしいと、心の底から願っている。
(でも、せめて)
この無垢な瞳に抱かれながら、死んで逝きたい。
それが大きな棘を残す結果になっても、 はそんな死に方をしたかった。
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