第90章 盾

 あれは確か、チェーザレが、十を少し過ぎた頃の事だったと思う。


「兄上! どうされたのですか!」


 その傷は……という言葉を、ルクレツィアは呑み込んだ。

 兄の目の周りは大きな赤黒いアザができ、両頬も、大きく腫れあがっている。


 しかし、冷たく、意思の強い黒い相貌が、ルクレツィアに、それ以上の言葉を許さなかった。


「……なんでもない」


 兄はそう呟くと、その後一週間ほど──城からの使いがやってきて、ムニンとなにかしら難しい話をした後、その父に説得されるまで、部屋に閉じこもって出てこなかった。


 後になって、当時皇太子だった陛下ユーディン様と、双方殴り合いの大喧嘩をした──といううわさを耳にしたのだが、兄が処罰を受けることは無かったし、兄に真偽を確かめることを、ルクレツィアもしなかった。


 事実や詳細は未確認ではあるものの、兄が、何かしらの出来事で、他者への怒りを爆発させたのは、この時が最初で、最後だったような気がする──。



  ◆◇◆



「お兄ちゃんのバカー! アホ―! はなせー!!!」


 ギャン泣き状態のエロヒム・ツァバオト。


 誕生と同時にエリスを亡くしたサフィリンにとって、彼女が悪いことをした時の主なお仕置き担当は次兄モルガではなく、長兄スフェーンだったり次姉カイヤの役目ではあったが、それでも、アックスは目の前で繰り広げられる既視感見覚えのある懐かしい光景に、思わず頭を抱える。


 ……というか、割と最近まで、普通に繰り広げられてきた日常ことであった筈なのに……思えば遠くへ来たものだと、なんだか悲しくもなってきた。


 そんな時──。


「──ッ!」


 不意に、上空から五発の光線が降り注ぐ。

 うち二発がヘルメガータに、一発がアレスフィードに当たった。


『……?』 

「ったぁッ! 誰じゃぁッ!」


 当たったもののヘルメガータの分厚い装甲のおかげで平気だったらしく、モルガは小さく首を傾げた。

 が、防御力の薄いアレスフィードは、肩からバチバチと火花を散らせる。


 しかし、気が逸れたその隙に、デウスヘーラーはヘルメガータから離れ、離脱した。


「ったく、しんじらんないッ!」


 直撃させたのにーッ! と、悔しそうに通信に割って入ったのは、赤い髪の少年だった。

 目視でギリギリ見える上空に、銀色の機体がちらりと見える。


「アウイン……いや、ユディトかッ!」


 アックスがちぃッと、舌打ちをする。

 エロヒム・ツァバオトが受肉した肉体の持ち主がサフィリンであるのなら、ユディトがアウインの肉体を乗っ取ったという事実も、少しうなずける。


「うぇーん! ユディトぉー! お兄ちゃんがいじめるのー!」

『……ユディト。妹を甘やかさないで欲しい』


 離脱したデウスヘーラーが、上空の銀色のVDウラニアと合流した。

 そんな二人を見上げ、モルガが、淡々と口を開く。


 赤い瞳をかすかに細め、そして──。


『弟を、返してもらう』


 ざわり……と、風の神アックスですら、身震いするような殺気を纏い、モルガは剣を構えた。

 周囲の眼球・・が、今にも彼らに襲い掛かろうと、群がるように飛び回る。


「返してって、どうやってさ?」


 そんな殺気をものともせずに、ユディトは不敵に微笑んだ。


「一応さー、こっちも色々考えてんのよ」

「んなッ!」


 アックスが全身の目を見開いた。

 アウインユディトのその手には、繊細で華奢だが、鋭く尖ったナイフが握られ、その切っ先はアウインの首に向けられる。


「そんなわけでさ、今回は見逃してくれると嬉しいよねー。アタシもこの子、気に入ってるから、殺したくない・・・・・・し」

「ちょ……ちょっとッ! ユディト! アウイン兄ちゃん殺さないでよッ!」


 エロヒム・ツァバオトが、何故か慌ててユディトを止めた。

 ユディトは思わず吹き出して、苦笑しながら幼い彼女をなだめる。


「ハイハイ、大丈夫殺さない殺さない。お兄様方・・・・おりこうさん・・・・・・だから、きーっと、大丈夫・・・。見逃してくれるわよ。ネ!」


 そういう彼女の目は笑っておらず、氷の微笑でモルガとアックスにほほ笑んだ。


 ──かくして、アウインの体を人質に、二機の機体はいずこへと姿を消す。


「に、兄ちゃん……」

『………………』


 モルガの行き場の無い怒りが地を震わせて、デウスヘーラーに焼かれた街を追撃したのだが、アックスはとりあえず、皆には黙っておくことにした。



  ◆◇◆



 ……よ。……起きよ。


「起きよ。エロハ」


 大きな湖の浅瀬に肉体のほとんどを浸し、たゆたう波に体をあずけ、心地よさそうに眠っていたエロハは、ゆっくりと瞼を開く。


「我が、わかるか?」

「……ダァト」


 小さな声で、短く、エロハは答えた。

 警戒しているのか、それとも別の理由があるのか──それ以上口を開かぬエロハに、ダァトは小さくため息を吐く。


 世界は闇で満ちているにもかかわらず、この場はまるで、その世界中の光を集めたように、眩く、輝いていた。


 その『光の主人』は、体を起こしたものの、座ったままその場から動かず、ジッとダァトを見上げている。


「……その涙は、どうした?」

「……わかりません。止まらないのです」


 金の瞳が、ジッとダァトを見上げる。

 その目からはとめどなく、涙がこぼれ続けていた。

 そして、上から薄く、銀の鱗が覆いつつはあるが、彼の首には、一周するよう、大きな傷が残る。


(表面上……操者の魂は、残ってはおらぬ……か……)


 元の肉体の主チェーザレと対話した経験があり、その人柄を知っているが故に、ダァトはそう、確信した。

 目の前の青年は、邪気の無い、柔和な表情をたたえ、そして素直にダァトに答えた。


「エロハよ。聞きたいことがある」

「……エロヒム・ツァバオト彼女の、ことですね」


 ダァトはうなずく。エロハもエロハで解っているのか、自ら口を開いた。


「隠すつもりは、ありませんでした。ただ、目の前で消えゆく彼女を、自分は、見なかったことにすることが、できなかった。思わず、手を、差し伸べてしまった」


 ただ、それだけです──と、エロハは肩を落とした。


「そなたが受肉したのも、そういうこと・・・・・・なのか?」

「………………」


 エロハは初めて、口ごもる。


「……実は、憶えていない・・・・・・のです」

「憶えていない?」


 こくり、と、光の神は、小さくうなずく。

 相変わらず、その目から、涙をこぼしながら。


「はい。確かに、御覧の通り受肉をしましたが、どうしてそうしようと・・・・・・思ったか・・・・、何故、エロヒム・ツァバオト彼女にも、肉体を・・・与えようと・・・・・思ったか・・・・……」


 エロハは小さく、首を横に振った。

 じんわりと、首の傷から赤い血が滲み、触れた銀の鱗の指をつたって、細くしたたる。


「それだけではありません。この傷も、なかなか癒えないのです」


 エロハの言葉に、ダァトはうなずいた。


「お前はこれから、どうするつもりだ? その状態で、全てを敵に回し、戦うつもりか?」


 エロハは目を伏せ、再度、首を横に振る。


「わかりません」


 ただ……と、エロハははっきりと口にした。


「待とうと、思います」


 待つ……? 首をかしげるダァトに、エロハはやんわりとほほ笑む。


「怒れるエロヒム・ツァバオト彼女が、全てに納得するまで。そして──」


 いえ。と、エロハは口をつぐんだ。


「どうした?」

「……これも、どうしてだか、理由は解らないのですが」


 ──誰かが、自分を探しに、此処にやってくる──。


「自分はそれを……がやってくるまで待たないといけないと、何故かそう、思うのです」

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