第8章 俵/父親

 どんなに温和な人でさえ、丑三つ時、藁人形に五寸釘打ちつけて呪い殺したくなる人物が生涯一人、二人は出てくるはず。高見にとって、それは俵だった。

 小五のとき同じクラスになった。高見は学生服、体操服、下着、私服、シューズ、いずれも替えが少なくて、くたくたになったものを辛抱強く使い倒していた。


「ときどき臭いんじゃ、お前」


 学校でも社会でも発言力のある奴に大勢は靡く。クラスの先導していた俵の一言は重かった。俵にレッテルを貼られれば、それは自動的にクラスの認識となった。


「高見のオイニーはサイクー」


 当時バラエティー番組で流行っていた業界用語を使われ、高見は嘲弄された。中学卒業までずっと〝オイニー高見〟と呼ばれ続けた。へらへら笑うほか、対抗する術を持たなかった。有力選手として必要とされる部活動だけが、唯一の避難所(アジール)だった。


 ある日、清掃員として働く母親を引き合いに出されて、親子二代で臭い、臭いのは世襲、などと罵られ、一度だけ殴りかかったことがあった。俵は非力だった。タッパのある高見は存分に殴りつけ、蹴り上げた。俵は床に突っ伏し、泣いて謝った。所詮口先だけの坊っちゃん、金輪際なめた真似はさせない、そんな考えをふとこった。甘かった。


 その数日後、糸鋸で顔面の皮膚を抉られた。技術の授業の後、工作台の上で取り巻きに上半身を押さえつけられ、俵に横面を繰り返し殴られた。拳骨がこめかみにめり込んだ。目を開くと、錆びた刃が眼前に迫っていた。痛みで火照るこめかみにあてがわれ、ゆっくりと擦られた。やめてくれ、と叫んでもやめてくれなかった。


 高見は本当の力を知った。

 泣いて許しを乞うた。


 一声掛ければ動いてくれる友人、小金持ちの親、教師をも引き込む人心掌握術、優秀な学業成績、すべて高見には欠けたものばかりだった。


「転んだって言え」


 恫喝され、従った。

 傷は膿んで、発熱し、表面が歪なサーモンピンクの消えぬ痕になった。


 俵は出馬を検討していた。俵の父親は県議会議員で、来春の市長選に出馬するため、県議としての後継者に息子を指名している。俵は県議選に出馬するのだ。それで地盤固めしようと、東京の公認会計士事務所を辞めて帰省している。


 母親から詳しく聞いた。地区の行事に妻子を引き連れて小まめに顔を出し、ミニ講演会みたいなこともしている。挨拶回りにも余念がないらしく、時間を作っては新興住宅地から市営住宅団地まで各戸巡っているらしい。


「たくましくなった、好青年になった」


 母親は息子との因縁について何も知らず、俵の人柄が地域の大人たちの間で好評を博していることを平然と告げてきた。


「宙ぶらりんなあんたとは大違い」


 減らず口を叩いた。せせこましい二DKはいつも酒の臭いが漂う。家を出てから一層濃度が増した気がする。アルコールの力を借り、気の大きくなったキッチンドリンカー。歪んだ視界で息子を見据えている。まともに取り合うと火傷する。


 その日、母親は普段以上に酔っ払っていた。高見は警戒した。


「あんた、父親に会う気あるか?」


「ない」


 即答した。会うわけがない。


「あんたのお父さん、もうすぐ死ぬわ」


「あっそう」


 怒気と焦燥を綯い交ぜにした感情に捉われた。


「……なんや冷たいな。一遍病室に行ってあげてよ」


「行かん。一回も会ったことない人間を父親だとは思えない」


「あのな、お父さん、肺の癌が全身に回っててもう長く生きれんらしい。死ぬ前に息子の顔が見たいって連絡があったんや。最初で最後の我が儘を聞いてあげたら」


「ごめんだね。家族捨てた奴なんかに情けはかけない」


「さっさと死ねばいい」

 高見は顔を伏せ、そう言い捨てて玄関を出た。


 勝手な言い分には反吐が出た。著しく不快だった。


 平静を装おうと努めたが、仕事も勉強も以前より集中できなくなった。

 街角に貼られる俵の父親のポスターに、高見はまだ見ぬ自分の父親を見そうになる。顔はのっぺらぼうだが、既に黒い額縁に収められている。そんなイメージが浮かぶ。今後俵本人の写真も掲示されるだろう。〝素晴らしい親子〟のポスターが地元をジャックする。高見はすべて残らず引き剥がしてやりたいと思った。

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