第8話
「逃げなさい」
遠く、声が届く。
その声は、とても懐かしい。幼いアーシェは倒れたまま、追いかける様に声の主を探した。
「アーシェ」
柔らかく、己の名が響き渡る。
普段は感情を滅多に表に出さぬよう努めていた人なのに、自分の前では驚くほど優しいのだ。
その人の声が、頭を撫でてくれた様な気がして、不意に熱い衝動が胸の内から込み上げてくる。
手を、伸ばしたい。
だが、願えば願うだけ、
だから、声だけでもと思ったのに、喉はひくりとも微動だにしなかった。まるで自分の体の支配権が全て奪われた様に思えて、アーシェの心が恐怖で
目の前の、優しい人。亡くなった母の分まで、たくさんたくさん愛情を注ぎ込んでくれた人。
――なあ、待って。
呼びかけながら、アーシェは
どうして、そんなに優しい顔をしているのか。
どうして、諦めた様に目を伏せる。
なあ、どうして。
――どうして、笑って。自分に、背を向けるのだ。
次から次へと溢れる疑問は形にはならない。
そして、答えて欲しい人からの返答も、永遠に返されないまま。
アーシェの視界は、一面を覆い尽くす勢いで真っ赤に弾けた。
「ま、気分転換してくれば? 勇者とオトモダチになりたいんだろ?」
夢見が悪い。
内容は覚えていないのに、アーシェの目覚めは最悪だった。
ついそれをエルミスにぼやいてしまったら、ぽんぽんと頭を撫でて話を持ち出してきたのだ。
気持ちは嬉しいが、今のアーシェは「だが」とブレーキがかかってしまう。
じいの雷が落ちた、あの後。
アーシェは釈然としないながらも、大人しく日々の作業をこなしていた。あれだけ真面目な顔で説教をされたのは久々だったので、しばらくは言うことを聞いていようと判断したためだ。
城下にお忍びをしたい。
そんな誘惑には駆られまくったが、ここで下手に動いても見つかるのがオチだ。エルミスにも迷惑がかかるかもしれないと、泣く泣く城下行きを見送っていた。
そんな涙ぐましい努力をする自分を、見るに見かねたのか。それとも、覚えてもいない夢にうなされ、蒼白だった自分を憐れに思ったのか。
仕事に一段落着いたあたりで、エルミスが堂々と悪魔の
「……どうしたのだ、エル。そんな、天使の皮さえかぶろうとせぬ、悪魔の笑顔で誘惑してくるとは」
「お前、お兄様を何だと思ってんだよ」
「優しい天才魔法使い、エルミスお兄様」
「だよなー」
持ち上げてみれば、エルミスは謙遜するでもなく肯定してきた。まあ、アーシェとしては皮肉は混じっていても本心だ。彼は、優しくて自慢の兄である。
だが、そんな自分の本音などさらりと流し、彼は悪戯っ子そのものの表情で人差し指を立ててきた。
「いやあ、あれから反抗期がぱったり止んじゃったじゃん? そんな健気な弟に心痛めちゃって? お兄様としては悪戯心、いや、面白心、あーいや、兄心がむくむくと膨らんでだなー」
「多分に本心が漏れておるぞ」
「だって事実だし」
からからと悪びれも無く言ってのける姿は、流石は兄だ。小さい頃から、率先して城内での悪行を遂行しまくっていただけはある。
しかし。
「気持ちはありがたいが……」
「なんだよ。あれだけじいさんの反対押し切って、民のためだの花見つけたいだの言ってたくせに、もう終わりかー? 所詮、お前の覚悟なんてその程度だったってわけか」
「……む」
挑発する様に肩を竦められ、押し黙る。
確かに、一世一代の決心で父の遺言を破り、エルミスまで巻き込んで城下へ繰り出したというのに、投げっぱなしにするのは責任放棄と同じだ。
じいの様子が気がかりだったが、まだ目的は何ら達成されていない。このままやらない後悔をするのはご免だ。
しかし、それは同時に、また彼に迷惑をかけてしまうということでもある。
「……本当に良いのか? 見つかったら、エルもただではすまないやも」
「今更かよ。んなの、俺だって死に物狂いで隠すに決まってんだろー。じじいの説教なんて退屈なだけだし? あくび何連発になるか分かったもんじゃない」
雷説教を「退屈」だけで終わらせてしまうあたり、エルミスらしい。アーシェは毎回かなり冷や汗ものだというのに、彼にとっては雑音でしかないのだ。神経が図太いというより、己の考え方や信念にブレが無いからかもしれない。
彼は、出会った時から己の考えに基づいて行動していた。
他の誰に何を言われようともお構いなし。涼しい顔をして、己の在り方を貫いている。
――我も、そんな憧れの彼に追い付きたいし、追い越したい。
魔王になった暁には、守ってもらった分、守れる様に。胸を張って歩ける自分で在りたいと、こっそり誓いを立てているのは内緒だ。
「あ。それと、結界も一部消しといたから」
「え」
「いつでも行けるぜ。……行かねーの?」
試す様に見つめられる。
太陽に凝視される様な琥珀の瞳には、悪戯心よりも優しい兄心が見受けられた。
彼はいつも、馬鹿にする様な口調の裏で気にかけてくれていた。今回も、塞ぎ込む自分を
結界の一部を破損させておいたというサプライズまで用意して、あれよあれよという間に出発の準備をお
ここまで尽くしてもらって、無下にするなど男が
「うむ、分かった。――行ってくる」
力強く頷けば、エルミスは笑いながらぽんぽんと頭を叩いてくれる。背中を押す様な叩き方に、アーシェは満開の桜の様に笑顔を弾けさせた。
「ありがとう、エル。絶対絶対、いつかきちんと借りを返すからな!」
「はいはい。期待しないで待ってるわ」
いってこーい、という気の抜けた見送りを受けながら、アーシェは素早く部屋を出て庭に着き、結界を
城下に下りてからは、書類と向き合う時も民の顔を思い浮かべられる様になり、一層励みになった。
良い刺激にもなると己を鼓舞し、再び賑やかな街へと足を踏み入れる。
広場の入り口に辿り着くと、気持ちの良い風が肌を撫でながら吹き抜けて行った。
時折、緑の匂いや水の香りも舞い上がり、疲労に
自然に溢れた街を散歩するのも、城を抜け出した醍醐味だ。民の姿も見つけ、ぱっと笑みが華やぐ。
上機嫌のまま、アーシェは初日にお世話になったたいやき屋を目指した。じゅーっと、生地を焼いている香ばしい匂いが漂ってきて、良い具合に空腹を刺激する。
「たいやき屋!」
気軽に声をかけると、鉄板から顔を上げた主人が、親しみやすい笑みで応対してきた。
アーシェも嬉しくなって、「繁盛しているか」と声をかけようとした。
その時。
「ん? ……ああ、魔王様じゃねえですか! どうしたんです、こんなところに」
「――――――――」
片手を上げたまま、アーシェは綺麗に固まった。
あろうことか、主人が自分を認めるなりすぐに目を丸くし、居住まいを正してきたからだ。「魔王様!」と真っ直ぐに背筋を伸ばし、敬礼までしてくる。
放っておけば、ははーっと土下座までしそうな雰囲気に、アーシェは「は?」と首を傾げてしまった。てっきり「坊主!」と威勢の良い掛け声が飛んでくると思っていたのに、調子が狂う。
「えっ、と。何だ、ようやっと我を次期魔王と信じたのか?」
「信じるも何も! あれだけの魔法を見せ付けられれば、誰だって疑いませんよ。いやあ、よく来てくださいました! どうです、オレの自慢のたいやき! 食べていってくだせえ!」
「う、うむ。お前が作るたいやきの味は忘れないぞ。一つもらおう。今回は金も持っておる」
城を出る前に、貯金箱からお金を持ち出してきた。今度はあんな無様な醜態は晒さない。
初めて成立する売買に胸を張り、子供みたいに心が躍る。民には何て事の無いやり取りかもしれないが、アーシェにとっては初めての体験なのだ。
しかし。
「NOOOOOOOOOOOOOOOOO!」
「ぬおっ!?」
アーシェが誇らしげにお金を出すと、主人は奇妙な雄叫びと共に血相を変えて飛びずさった。土煙まで上げて地面を蹴り飛ばす足は無駄に力強く、熟練の戦士を連想させる。
「な、何なのだいきなり!」
「な、なななな何を仰います! お金なんていりません! 魔王様直々に足を運んでもらった上、お金など! ……HAAAAAAAAA!」
「……は?」
魂を吐き出しそうな勢いで
予想外のリアクションと鬼気迫る
「い、いや。美味いたいやきに対価を払うのは当然だろう。何故、そんなに驚く」
「た、たたたたいかああああああああっ!」
「お、おおっ!?」
「魔王様にお金をもらうなんて、恐れ多い! もちろんタダで差し上げますとも!」
「い、いや、しかしな」
「タダどころか! お金も差し上げます! だから、どうかお納めください、……YAAAAAAAA!」
一心不乱に首を振り始め、遂には売上まで
救いを求めて周囲に視線を走らせ――更にアーシェは固まった。
何故ならば、前回とは比べ物にならないくらい、彼ら全員でこちらに
それに。
何だか、空気が
初めてここに来た時は、頭上の空と同じく晴れ渡る様な快活さがあったのに、今では息苦しい感覚が体中に
何故だろうか。魔王と名乗るということは、二度とあの気安い間柄には戻れなくなる、ということだろうか。
だとしたら。
――
魔王を否定されなくてすんだのは喜ばしい進歩のはずなのに、一抹の寂寥感が滴の様に心の底に沈み込んだ。
だが、間違った方向へ進む民を諭すのもアーシェの役目。せめて、対価は成立させねばと縮こまる心を奮い立たせた。
「……誰にでもサービスなどしていたら、商売が成り立たぬぞ。我は、このたいやきを気に入っている。その喜びの対価として、金は受け取れ」
「ですから! 魔王様からはもらえませんってえええええEEeeeeeeee!」
「こ、恐いぞ! あ、いや、だ、だからな」
「――あら、アーシェ様?」
お礼の代わりとコインを差し出すも、主人には両手で押し戻され。
もらえ、無理です、と十回ほどくだらない押し問答を繰り広げたところで第三者が介入してきた。
ふわふわおっとりした雰囲気で割り込まれ、途端に周囲の空気が爽やかに軽くなる。一緒に気持ちも軽くなり、助かったと顔を輝かせた。
「レティか! ちょうど良かった、お前からも言ってやってくれ!」
「え? どうしたのです? 皆さん土下座していますし、アーシェ様もコインなど握り締めて……何かの即興劇ですか?」
「違う! そうじゃなくて、このたいやき屋がな」
「おう、レティ嬢ちゃん。お前さんも、坊主と一緒にたいやき食べて行くかい?」
「そう、どこのネジが吹っ飛んだのか、我のことを坊主扱いする上に……って、何?」
勢いで主人に猛反発しようとして、アーシェははたりと我に返った。マッハの速さで振り返り、主人の顔を穴だらけにする勢いで凝視する。
「あらあら、いただきますわ」
「おうよ! いっぱい食べてくんなあ!」
いつものたいやき屋の言葉にふんわりと笑いながら同意するレティに、アーシェは戸惑い気味に手を引いた。ちゃりっと申し訳なさそうに、手の中のコインが擦り合う。
おかしい。先程まで、坊主なんていう単語は口に出すのも恐れ多いという空気だったのに。
奇妙なちぐはぐ感を覚え、アーシェは遠慮がちに主人を見上げた。
「た、たいやき屋」
「何だい? 坊主もオレのたいやきの味が恋しくなったか? おうおう、遠慮すんな。いくらでも食ってけよ」
やはり、坊主呼びに戻っている。
聞き間違いではないと確信し、もしやと辺りに視線を走らせれば、人々は即座に土下座を止めていた。出会った時と同じく和やかで、先程までの張り詰めた空気は微塵も無い。
いつの間にか、感じていた空気の澱みも消え去っていた。空高く舞い上がる噴水の音も、世界を写し取るほど清らかに降り注いでいる。
迷路に引きずり込んでおきながら、出口が向こうから勝手に出現した様な異様さだ。
〝逃げなさい〟
不意に、夢の欠片が
全容は真っ白な霧で覆われていて何も覚えていないのに、その言葉だけが妙にはっきりと耳にこびり付いていた。
何故、今。
嫌なタイミングに、氷水を背中に流し込まれた様な悪寒を覚えながら、アーシェは精一杯笑みを貼り付けた。
「も、もちろんたいやきは頂くが。……なあ、たいやき屋」
「何でい?」
「お前、さっき我のこと、魔王って認めていたよな?」
恐る恐る上目遣いに問うてみれば、主人は
そして。
「何言ってんだい、坊主。お前さんのどこらへんが魔王に見えるってんでえ?」
「――――――――」
全否定された。
ざっ、とアーシェの世界にノイズが走る。
「え、……あ」
「言ったろう? 前の魔王様は、そこにいるだけで背筋が伸びたもんさ」
「……お、おお、そう言っていたな」
「けど、お前さん相手にはそうならねえしな! 魔法の腕は一流っぽいが、魔王となるとなあ。親しみやすいのはありがてえけど」
がっはっは、と景気良い笑い声を上げて、主人は「ほらよ」と出来立てのたいやきを手渡してくれた。反射的に受け取ってしまってから、アーシェは再び思案に沈む。
話が、噛み合わない。
歯車が盛大に噛み外した感覚に胸の内がざわめいたが、周囲はのほほんと自分を置き去りにして時間を進めていく。
ひどくおかしい。ざわざわと、心の内が不安で
しかし、ここで追究しても原因は掴めないだろう。
ならば、と謎は後で解明すると割り切ることにして、今はコインを握った手を突き出した。
「受け取れ。代金だ」
「んー? って、こんなにいらねえよ。一個にしては多すぎだろ」
「前回はたらふく食べさせてもらったからな。その分も入っている。……ここのたいやきは本当に美味かった。その感謝も兼ね、お前は金を受け取るべきだ」
空腹であったことを差し引いても、ここのたいやきの味は絶品だった。エルミスにお忍びの報告をした時も、「あー、あそこの食べたら他のたいやきは無理だな」と絶賛していた。
主人は遠慮するが、それではアーシェの気は収まらない。だから、今度会った時に必ず渡そうと決めていた。
主人はアーシェの真っ直ぐな眼差しを受け、んー、と頭をぽりぽり掻く。
「……んじゃあ、ま、今回のお代だけ受け取っておくぜ」
ひょいっと、アーシェの手の平から主人はいくつか小銭を摘まんだ。まいどあり、と一旦空中に投げてから懐に仕舞う。
その鮮やかな手つきに感心してから、怪訝な顔をしてしまった。手元に残ったコインを眺めて首を傾げる。
「何故断る。赤字になるぞ」
「前のは、空腹の子供を見捨てておけなかったオレのお節介さあ。子供はな、大きくなるためにいっぱい食べなきゃなんねえんだ。腹すかせたまんまじゃ大きくなれないだろ?」
もっともらしいことを告げられ、しかしアーシェは納得がいかない。
理屈は分かるが、金を持っている者からは然るべき対価をもらうべきというのが己の信念だ。
「だがな、たいやき屋よ」
「まあ、もし、それでも気がすまないってんなら、オレから言うことは一つさ。――もしこの先、食べ物に困ってる子供がいたら、坊主がその子に何か食べさせてやってくんな」
「――」
尚も食い下がる自分の頭を、豪快に叩かれる。周りも同意する様にうんうんと頷いていた。
その言葉に、その反応に、彼らがいかに心優しい人間なのかが伝わってきて、無下に出来なくなってしまった。
ここの住人は、底抜けなまでに優しい。
風に触れるたび、足元に咲く草花を見るたび、賑やかながらも穏やかな空気に身を置くたびに感じ入る。
街の様子は、街の人々の気質と同じだ。今回ほど思い知らされたことはない。本当に良い民に恵まれた。
――我には、もったいない場所だな。
頭に
「……分かった。では、我は全ての子供達に腹をすかせぬよう、全力を尽くそう」
「おう! って、ものすごい気合いの入った宣言だな。坊主らしいぜ」
「ふふ、アーシェ様なら出来ますわ」
どん、と胸を叩いてアーシェが請け負えば、主人は豪快に笑い、隣にいたレティはのんびり同意してきた。魔王の時とは異なり、嘘偽りなく受け入れられ、こそばゆい。
――だが、悪くない気分だ。
浮かれた気持ちのままアーシェはたいやきを、はむっと頬張る。ふわりと柔らかな味わいが舌に広がる食感は、やはり美味だ。
上機嫌で頬張り続けながら、ふっと思い出す。
そういえば、この城に住む者達は勇者のことをよく知っている様だった。レティが説明した勇者のとんでもない人格には一様に頷いていたし、魔王のこともそれなりに見ている言動を取っていた。
つまり、少なくとも先代の両者に関しては確実に何か知っている。彼らの中には、曾祖父の代にも生きている人がいた様だった。
だったら、聞いてみようか。今までの魔王と勇者の関係を。
〝ラズウェル様を殺した恨み、忘れるはずもない!〟
彼らは、魔王のことをどう思っているかということを。
「なあ、二人共。少し、良いだろうか」
心持ち緊張しながら、至って自然に問いかけてみる。口の中はからからに乾いて、異常に水分が欲しくなった。
二人はそんなアーシェの様子に気付いているのかいないのか、それぞれたいやきを焼いたり頬張ったりしながら、こちらを向いてくる。
それが一層緊張感を誘ったが、顔には出さずに切り出した。
「二人は、えーと、……魔王と勇者が仲良くするのは、おかしいと思うだろうか」
「――」
じいは、仇のことなど聞くなと怒鳴った。魔王側からすればそうだろうが、城下の民から見たら、魔王こそが諸悪の根源のはずだ。
ならば、魔王後継者――とは
数秒の沈黙が、アーシェ達の間を裂く様に降りる。一秒が数時間に感じられるほどに重かった。「無かったことにしてくれ」と前言撤回しそうになるのを懸命に
そして、気が遠くなるほどの静寂の末。
主人は、複雑そうに顔を歪めた。
「んー、そうだなあ。悪いとは言わねえが、……勧めるのは気が引けるな」
「――――――――」
妥協を前提としているが、その実否定だ。
世界の色がさっと抜け落ちていくのを見ながら、アーシェは笑顔を振り絞って聞き返す。
「……どうしてだ?」
「んー、城の関係者の坊主に言うのは酷だが、……魔王と勇者の最期ってのを知ってるとなあ」
やっぱ、嫌なもんだよな。
そこに込められているのは、実感だ。
一度、両者の末路に立ち会った身としての切実な感想だった。
「……、あの日も。こんな綺麗な空だったなあ」
「え?」
見上げながらぽつりと
だが、主人はすぐに視線を下に戻し、「がははっ」と苦く笑うだけだった。
「ま、とにかくよ。オレはあんまり背中押すことは出来ねえなあ」
「……そうですねえ。私は、都合魔王様には三人ほど出会っておりますが。どの魔王様も結局は道を踏み外し、勇者に討たれてしまいましたしねえ」
「あー、そうだったのう……」
「……俺は、前の魔王様は良い人だったし、感謝もしているけど。正直、今魔王っていう人がいなくてホッとしていますね」
嫌なこと、聞かなくてすむし。
ベンチに座る老夫婦も、その場で仕事の休憩に入っていたらしい青年も、言いにくそうにしながらも全員が否定の匂いを含んでいた。
魔王がいないこの現状を、人々は複雑ながら安堵もしている。
実際に聞いてみると、かなりショックだ。
覚悟はしていたが、魔王は非常に難しい立場に在るのだと改めて痛感させられる。市民の常識を覆すのは、至難の業に思えた。
だが、自分まで落ち込むわけにはいかない。
「……そうか、分かった」
ありがとう。
何とか簡潔に流し、黙々とたいやきを
しかし。
――何だか、味がしないな。
さっきはあれだけ美味しかったたいやきは、今は砂を噛んでいる様に味がしない。
もこもこと、頬張る音だけが静かに鳴り響く。
気まずい空気が漂う中、一人沈黙を保っていたレティは、たいやきを飲み込んでから明るく話題転換をしてきた。
「あ、そうです、ご主人。たいやき、たくさん頂いても宜しいんですの?」
「ん? お、おうおう、そうだそうだ。ちゃんと用意しといたぜ。ガキどもによろしくな!」
流れを断ち切る申し出に、主人も渡りに船とばかりに乗りかかった。ほいよ、と両手に抱えきれないくらいの紙袋を差し出して、「しっかりな!」とエールまで送っている。
その、女性では到底一人で持ちきれないだろう殺人的な量を、しかしレティは「はい」と軽く受け止める。改めて腕力の発達した娘だと、目を遠くしたところでアーシェは首を傾げた。
「その、大量のたいやきをどうするのだ? お前、一人でそんなに食べるのか?」
肯定されたらどうしようと、内心で冷や汗を掻きながら尋ねてみる。
そんなアーシェの恐怖は露知らず、レティはきょとんと可愛らしく瞬いてから、ぱあっと桜が満開になった様に笑顔を咲かせた。
「そうですわ! アーシェ様も、一緒に行きませんこと?」
紙袋を大量に抱えたまま器用に両手を合わせるレティに、もう一度遠い目をしてから。
アーシェは、疑問符を大量に周囲に散らばせた。
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