127、夜が更けるまで

「さっき、種がまかれているかわからない場所に延々と水を撒くのは諦めてもしょうがない、といった」


 口に出していただろうか? ともかく、そんなことを思ったのは確かだ。

 だから頷く。


 すると彼女は笑みを見せた、先ほどまでの都はまた性質が違い若干の攻撃的な感じがする。勝ち誇ったような笑み。


「耕作もされず、だれも種をまかなかった土地に、それでも、芽が出たとしたら」

「……」

「これはそういう話」


 ニコはもはや表情だけでなく、口調からすらあふれるように自分を誇っている。

 あぁ、そうなのか。と俺は認める。まだ、言葉にならない何かを、



「あ」

 口から洩れたのは、意味のない音だった。

 ただの音。しかし、音に意味がなくとも、音が漏れたことには意味がある。


 つまりは、こらえることができない何かがあふれたからだ。

 胸から……、胸に何があるのか、それはしらない。

 息を吸えば膨らむし、走れば強く早く動く。


 つまり、命のそのもののようなものが胸の中には詰まっているのだろう。

 だから、言葉も漏れるほどに胸が詰まるというのならそれはきっと。


「貴方はあの男にとって詰まらなくなった、と、それは私にとっては望ましいことで。それはつまり、私の勝利」

「何に?」


 彼女は勝った、少なくとも心の底からそう感じているとその表情とその声が示している。

 しかし、何に勝利したのか。答えは完結だ。


「神様と運命と、そして、ほんの少しの気に入らない展開に」


 随分と……ずいぶんと大仰な相手に勝利したものだ。


「私が……私が最初にした約束を覚えてる?」

「約束……」


 その言葉の響きはかわいらしい。それは言葉自体の丸さとともに、彼女がそれをとても大事なものだと感じているから出た言葉であるような、そんな感じを示しているように思った。

 つまり重要な約束だ。そして、彼女との約束といえばそれは……、


「俺が治るまで世話をしてくれるってやつか」


 一緒にいてくれるといったほうがいいのか、それは、彼女が薬師としての経験を積むためだとあの時は思ったけれど、ここまで積み重ねた彼女の言葉と行動はそんな解釈を許すほど曖昧ではなかった。

 もはや、自覚してしまえばどうしようもない。うぬぼれの暴走でなければ、そうだ。


 少なくとも彼女は俺といたいと思ってくれていて、たぶんその感情は愛というものに近いのだ。

――いや、もはや、ここにためらいを置く必要もないだろう。

 それはきっと愛だ。


「治すよ」


 ぎゅむ、と彼女はこちらの手を握る。マッサージをするように、何度も両手の親指で腕の筋肉に触れる。


 その度に痛みが走るが、その痛みはもはや鼓動の裏に消えてしまいそうに感じる。

 どくんどくんと心臓が跳ねている。


「きっとなおす」


 彼女はズボンとベッドのシーツ越しにであるが、こちらの膝に触れる。

 それ越しでも的確に膝に触れたようだが、残念ながら、こちらについては、痛いという反応すらない。


 治るのだろうか、それでも治すと言ってくれる。その事実に、そして、横顔に熱を感じる。

 彼女の情熱と、そして、自分の頬に上ってきた熱とだ。


「治すから」


 彼女が三番目に触れたのはこちらの胸だ。跳ねる鼓動の元、命のある場所。

 服の上からでも、いま彼女の手のひらには、走った時と同じくらいに暴れている鼓動が伝わっているだろう。


 それでも、彼女の表情にはゆるみがない。張りつめているというほどではないが、程よく張りがある。


「私の約束はそれだけど、続きにつけたしていい?」


 先ほどまでよりも緊張したような表情でニコはいう。

 もちろん、それを断る理由はない。


「私はあなたを治す。治すまでそばにいる」


 これは始まりの約束だ。

 ギブアンドテイクだと思って締結した。


「だから、あなたが治って私の世話を必要としなくなる時が来たら……答えはその時でいいから」


 何を言うのか、彼女の表情は赤い、

 それは緊張によるものだと思われた。


 頬にさしている赤が何にもましていとおしいと。

 そんな風にこちらの心の中に吹き荒れるものを知る由もない彼女は、

 うつむいた口から絞り出すようにして。


「その時に、必要だから以外の理由で……」


 一度言葉を止める。それは強く押し出すために一度貯めたというような力強い停止。

 うつむくことをやめた彼女は、まっすぐ、こちらの瞳の奥の奥までを透すようにして。


 浮かべたのは笑顔だ。満面の、けれど、緊張が若干頬を引きつらせている。

 だからこそ、作り物臭さのない笑みが、


「私といてくれますか?」


 緊張と鼓動と、あえぐように絞り出された言葉。

 呼吸困難になるような彼女の息。酸欠じみた状態が彼女の瞳に光をためて。

 一筋こぼれた雫が唇に寄せられるのを見て。



 俺は言葉を使わず答えを返した。

 舌にはほんのりと涙の味がした。

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