100、目が覚めたとき

 背筋に震え、頭蓋に鈍痛。

 目を覚ました時に鼻に届いたのは少し鼻に馴れた肉とタレの匂い。


 痛みを感じる頭に触れようとして手を動かそうと……、それが為せなかったのは、右手を握られていたからだ。祈りを捧げる乙女のように、こちらの右手を両手で抱いて、まぶたを閉じているのは、黒髪の少女。

 誰何の声など上げるまでもない。紛れもなく、それは自分の知る少女だからだ。


「ニコ」


 声は思ったよりもまともにでて、意識を落としていた時間が長くはなかったことを教えてくれる。そして、声を欠けたことで、強く握られた手は、彼女を不安にさせたことを強く意識させる。


「うぅ」


 嗚咽、泣き混じりの声には涙の湿り気があって、ごく近い距離にいる彼女は、荒くなった息をついている。

 心配させた分が、こんなにも熱い感情として帰ってきたのだ、と、そんなことを認識するとその吐息ごと、そのため息ごと、その荒い呼吸ごと抱きしめたいという衝動に駆られる。


 あ、あぁ、どうして、こんなにも、心が騒ぐ――。


「だいじょ、だいじょうぶ?」


 こちらを真っ直ぐに見た。寝台に背を預けているこちらよりも椅子に腰掛けるニコのほうが視線が高い。その視線は、真っ直ぐで、優しげで、揺れていて、涙を湛えている。


 どうして、自分はこの女の子をそんな目に合わせているのか。

 どうして、彼女の姿が……。


「ん?」


 そこまでして、ようやく、自分の視界の片方がふさがっているのがわかる。

 柔らかいそれは、包帯か何かだろう。

 そして、倒れる前に何をしていたかを思い出して……、


「わるい、今、何がどうなってるか……いや、落ち着いてからでいいから、教えてくれるか」


 状況がわからない自分は、そう言いながら状態を起こして。

 身を起こして、視線が椅子に座る彼女より高くなった瞬間に、押す力を受ける。

 いつの間にか、ニコはこちらの右手の戒めを解いていて、代わりに空いた両手を突き出すようにしていたのだ。


 つまり、俺は寝台に押し倒される形になる。胸から怪しい声が出そうだったが、あまりにもあまりなので、それはなんとか押し止めるとそれに変わってというわけでも無いだろうが、いくつもの情報があふれる。


 両腕でこちらを抱くのは不安の裏返しだろう、

 ニコが顔を押し付けた場所の熱は彼女の溢れた感情だろう。

 同じ場所に湿りを感じるのは、彼女の零れた感情だろう。

 鼻骨の尖りの少し下に感じる柔らかさの全ては、彼女の存在のそのものだろう。


 それが彼女の衝動で在れば、それに答えるべき俺の衝動はなんだろうか。

 そうだ。小さな彼女の背に、自分の動く右腕を回して距離を、空間を、隙間という隙間を潰すほどに強く抱きしめたいのが自分の衝動である。


 だが、その衝動を素直に出すには、邪魔な物があった。

 一つには、自分の心の中にあった躊躇であって、もう一つは、


「見世物じゃないんだが!」


――多分、心配して集まってくれていた孤児院の皆である。

――そんな視線の中で自分を晒す気にはならなかった。


 ただ、彼女の背に右手を回して感謝と想いを仄めかしはしたが。



 周囲のなんとも言えない視線が寝台――これは、ベンチのような長椅子を二つ合わせたものだった――の上に寝転がっている俺とニコに注いでいるが、その視線の主の中に、明らかに孤児院の子供ではないものが三人いた。


 一人はクヌートと一緒に、引率をしていたシレノワであり、彼女の視線は生暖かいものだ。もうひとりは、ニコの近くに立っていた老女で薬屋の女店主だ。彼女は優しげな瞳でこちらを見ている。


 そして、最後の一人が、


「また、しれっと紛れ込んで……」

「いやー、お久しぶりですねー、先輩」


 レアンである。


「一応、なんだ、兄ちゃんの知り合いみたいだし、あの投石してきたやつを捕まえたあとの協力をしてくれたから、来てもらったけど不味かったか?」

「不味かったかどうかは、せめて、本人のいないところで聞いてやれ……それはともかく、大丈夫だ。別にいたところで問題はない」


 そう、なら良かった、とそんな安堵をするオーリを視界の端に収めながら、何がどうなったのかを再確認することにした。

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