泣き虫の一歩ー2
リュイシンさんが手配してくださった生徒さんは薬に詳しい薬剤師で熱を下げる特効薬を調合し月舘先輩の高熱を見事に下げてくれた。
人間の体温を上昇させる薬はリーシェイの国では古来からある薬で、本来は寒い季節の冷え切った体に栄養剤として使用するそうだ。
しかし風邪などの高熱時に服用すれば体調を悪化させ、命を落とす程の熱を与える劇薬になる。
月舘先輩は元々解熱剤を飲んでいたので最悪の事態にはならなかったものの、処方が合わず熱の急上昇を抑えるまでにしか至らなかった。
正しく調合された薬を飲み、横になって休めば熱は下がり平熱とまではいかなかったけれど呼吸は落ち着いた。
けれど、注射器の謎の液体が注入されたことによって現れた心臓の痛みは薬剤師でも治すことができなかった。
液体の正体が分からない以上、どのような薬を処方すれば最善かが判断できないらしい。
月舘先輩は「熱が下がっただけでも充分だ」と言っていたが動きはが鈍く、時折強い痛みが来るのか胸を押さえていた。
何度も私達に謝罪したリュイシンさんは、リンメイさんをこれ以上好き勝手にはさせないと約束し、控室を出て行った。
あと30分もしないうちにデジタルフロンティアの準決勝が始まってしまう。
控えの選手を頼むなら今が最後のチャンスだ。
なのに月舘先輩は尚も自分が出場する気でいるし、私は代わりを申請できずに居た。
私がリンメイさんを警戒できていれば、先輩に胸の苦しみまでは出なかった。
そもそもリンメイさんを控室に連れて行かなければこんなことにはならなかった。
どうして彼女の嘘を見抜けなかったのだろう。自分の至らなさが情けない。
ただでさえ私はリレーレースで迷惑をかけているのに、更に先輩へ負担をかけてしまった。
自分の判断に自信を持てなくなる。
私が間違った判断をしなければ…でも何が正しいか分からない。
先輩の意志は尊重したい。でも無理はしてほしくない。
私の考えがまた誰かの迷惑になってしまったら?そう思うと怖くて踏み出せない。
「……また余計なことを考えてるだろ」
「え、あ、その…それは」
上手く答えられない自分がもどかしい。
本当はもっとはっきりと返事がしたいのに。
曖昧な態度は月舘先輩を怒らせてしまうだろうか。
「先に言っておくが怒ってはいないからな」
「そうですか…?」
すると先輩は大きなため息をついた。
ここは聞き返すのではなく素直に受け入れるところだったのか。
どうにも正しい答えを見つけられない。
「いや、今のも怒ったわけではなく……苦手だ」
「すみません、私がしっかりしていないから」
「謝る必要はない。お前は何も悪いことをしていないし、気にする必要がないんだ。だから、その…そういう顔をするな」
そういう顔。とはどういう顔だろうか。見当がつかない。
私は思わず両手を頬に当てどうしたものかと考える。
先輩の求めている正解の顔はどんな顔だろう。
「笑えばいい」
笑う?この状況で?
私は申し訳なくてとても笑う気分ではないけれど、先輩がそう言うのであれば。
ぎこちなくはあるが何とか笑って見せる。
「…それでいい」
「私笑ってていいんですか?」
「ああ、そのほうが安心する」
「…そうなんですか?」
「そうだ。お前はずっと笑ってろ。悲しむ顔は見たくない」
先輩の言うことはどうにも腑に落ちない。
けれど、きっと先輩は人の悲しむ姿を見たくない。
そういう意味で言ったんだと思う。
私がどんな失敗をしても責めない、優しい先輩らしい考えだ。
だったら私は少しでも先輩の希望に添えるよう頑張ろう。
突然外から大勢の走る音が聞こえ、何事だろうと思えば勢いよく扉が開かれた。
「佳祐!無事なの!?」
花宮先輩を先頭に風祭先輩や愛美ちゃん、古屋君も居た。
「あ、ああ。大丈夫だ」
「よかった…心配させないでよ!」
今にも泣きだしそうな花宮先輩の姿はいつもの上品な女性というより、ただの女の子だった。
「リュイシンさんから話を聞かされてさ、そうしたら奏の奴、血相変えて飛び出しちゃって」
「だって、瀕死状態なんて言われたら…!」
「千沙ちゃんは怪我してないし、佳祐も容態は落ち着いて回復傾向にあるってリュイシンさんが説明してただろ。話を最後まで聞かずに居なくなるから」
「べつにいいでしょ!」
「…すまなかった、心配かけて」
「ほ、本当よ!」
月舘先輩が謝ると怒っているのに、どこか嬉しそうに見える花宮先輩。
人の感情はやっぱり難しい。
「千沙ちゃんは本当にどこも怪我してない?辛くない?」
「私は平気だよ」
「それならよかった!」
瞳に涙を溜めて私に抱き着いてきた愛美ちゃんを見ていたら、不謹慎ながらも嬉しいと思ってしまった。
私のことをこんなにも心配してくれる友達が居る。それだけで心が救われた気持ちになった。
ずっと俯いて暗い表情をしている古屋君を見ると、震えた口を一生懸命に動かし始めた。
「…僕知ってたんだ、リンメイさんのこと。鷹取君が同じように薬を投与されてたみたいだから。でも確証が無くて…選手である皆さんにも伝えておくべきだった。そうすればこんなことには…本当にごめんなさい」
「そんな、謝らないで。悪いのは古屋君じゃないんだから」
この時少しだけ月舘先輩の気持ちが分かった気がした。
何も考えることなく言葉が出た。
古屋君を責める気になんてならないし、彼の落ち込む姿を見たくはなかったからだ。
「こちらに居ましたか。天沢さん、そろそろ搭乗席に移動してください」
各校一室ずつ充てられていた控室も、準決勝になれば出場選手は四人なので個人に一室与えられる。
私が月舘先輩の控室に居たせいで運営委員の人に探す手間をかけさせてしまった。
心配して駆けつけてくれた皆も私達に声援を送ると控室を出て行ってしまう。
控室を出る直前にもう一度月舘先輩の様子を窺う。
気にする必要は無いと言われようがやはり先輩の体調だけはどうしても気がかりだ。
「人の心配より自分の試合に集中しろ」
「…すみません」
私の考えなどお見通しなのだろうか。
私が声を掛けるより前に呆れた表情で注意される。
ところがその後、先輩が何か言葉を探すかのように頭をかいていた。
「気にしなくていいんだ。お前は試合に全力を出せ。皆も…その、俺もお前の試合を楽しみにしている」
「…分かりました。行って来ます…!」
「ああ」
楽しみにしている。そんなこと、初めて言われた。
それも実力のある月舘先輩に言われるなんて驚きだ。
試合自体は好きだし、あの高揚感は一度覚えたら病みつきである。
私は全力の試合をすればいいんだ。そう思えるだけで心が軽くなった気がした。
今の私に出来ることなんて試合で勝つことくらいだ。
ぐずぐず悩んだってしょうがない。
気持ちを切り替えてリングへと向かう。
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