第六章 使えない二人
第六章 使えない二人
次の回。ちょっと覚悟して原田公民館に行った。
正面玄関の前に立つだけでも緊張したが、幸い松岡さんが来てくれたし、もんや爺さんも友紀君も来てくれて、そこだけはよかったと思った。松岡さんは、前回の事は気にしなくていい、皆さん普通に来るだろう、なんて言ってくれたので少しほっとした。
四人で多目的室で待っていると、少しづつメンバーさんが来てくれて、前回と全くおなじ人数ではなかったが、何とか練習出来る雰囲気になった。稲葉さんは、現れなかった。
「じゃあ、始めましょうかね。」
「お願いします。」
メンバーさんたちは指定された位置についた。
「えー、急な話ではありますが、大渕の製鉄所から、演奏を依頼されました。いわゆる慰問演奏のような感じですが、今回はとりあえず、木下牧子の鷗を中心にやっていきたいと思います。」
してやったなと思った。今日は、これを言うだけでも、頭の中は最大限に緊張している。どう言おうかさんざん悩んだが、こうして強引に持って行ってしまうほうが良いなと思ったのだ。
メンバーさんたちは動揺を隠せない様子。
「なんですか。もう、製鉄所の方々とも話は付けてきました。決まったらすぐに決行ですよ。それでいいのではないですか。」
「そうなんだけどね、先生。」
もんや爺さんが不安そうに言った。
「何がそんなに不安なのですか?」
「実現するのは、難しいものがあるよ。」
爺さんの言葉に同調するメンバーさんたち。
「この際だから、メンバーさんの意見も聞きましょう。やってみたい曲などあれば遠慮なく言ってみてください!」
「いや、そういう事じゃなくてね。」
「爺さんの言う通りですよ。何をやりたいかではなくて、それをするにはあることをクリアする必要がある。」
松岡さんもそういった。
「なんですか!もったいぶってないで言ってみてくださいよ!」
みんな、それを言うには相当勇気が必要なのか、それともあえて言いたくないのか、わからないけど、言いたそうで言わないのだ。この態度には、紀夫も困ってしまう。
「言えないんですか。」
それでも口をふさいでしまうメンバーさんたち。
「どうしてです?そんなに気にしているんですか?彼女のこと。僕から言わせてもらえば、稲葉さんなんて、大した演奏技術もあるわけではないと思いますし、なぜ奴隷みたいに彼女に従っているのか、まるでわかりませんね。」
思い切って、事実を言ってしまった。だってそうじゃないか!製鉄所にはもっとすごい人物もいるんだぜ!なんて言ってしまいたいのをぐっとこらえた。
「いや先生。みんな稲葉さんに借りがあるから、何か言われたら嫌と言えないんですよ。」一人のメンバーさんがやっとそういってくれた。
「本当はね、みんな稲葉さんの事を嫌な人だと思う人もいると思いますよ。でも、それをしたら、どうなるかもわかるから、あえてしないんですよ。」
「まあ確かに、ひどい人ではあると思います。なんだか、合唱団を自分だけのものだと勘違いしているなと思うところはある。でも、逆らおうと思ったら、ちょっと怖いところもありますよ。」
「それだけ、偉い人ですもん。彼女。」
女性のメンバーさんが口々に言いだした。それを聞いて何のことだろうかと紀夫は思ってしまう。彼女の演奏は、紀夫からしてみれば、うまくなんかないと思う。それを言うなら、水穂と比べたら、一目瞭然じゃないか。そういうわけだから、音楽的に優れているという気はしない。
「尊敬しているのですか。彼女のこと。」
思い切ってそう聞いてみる。
「彼女を、音楽的にも人格的にも優れていると思いますか?」
核心をついた質問をしてみた。
「先生。先生は都会の人間だからわからないんです。私らは、見ての通り、こういう田舎の人間でしょ。きっと都会の人たちは、ある程度個人主義がみとめられているから、合唱を習いに行くってことは、当たり前のようになっているのかもしれませんが、」
いや、松岡さん。日本はヨーロッパに比べたら個人主義どころか、まだまだ全体主義が横行しすぎている。
「そうよね。東京は、田舎が嫌で飛び出してきた若い人たちでできているところだから、ある意味無法地帯でもあるけど、自由でもあるわよね。」
一人の女性のメンバーが言った。
「きっと、医療だって充実しているし、親が倒れてもすぐ入れられる施設もあるんでしょうね。まあ、そういう事が嫌で逃げてきた人の街だから、意外に作りやすいのかな。あたしたちから見れば、その、逃げていくことができるってのはうらやましい限り。だって、あたしたちはできないんだもん。この地域は、まだ、自分の事は後回しにして、親の下僕として生きるのが一番綺麗って言われる地域でしょ。だから、歌なんかやりたいって言ったら、何馬鹿なことをやっているって袋たたきに会うのが当たり前なのよ!」
「女は、そうやって家を守り、男は外で働いて金を作る。これができなかったら、徹底的につぶされる。これが田舎なんですよ、先生。その中に歌なんてまるでご法度なんです。その中で、稲葉さんがやってきて、合唱団を作って、歌をやっていこうとおっしゃったときは、救世主が現れたのではないかと思いました。だから、稲葉さんには逆らえないんですよ。そういうわけで、彼女の言うことを通さないと、私たちは、またただの付属品に戻ってしまうんです。先生は、わからないと思いますけど。そういうもんなんですよ。」
男性のメンバーさんもそういうが、演奏技術がなく、ただ権力欲を丸出しにしている稲葉さんに逆らえないのもまた情けないと思う。これがもし、自我のまだはっきりしていない幼児の集まりであれば、そういう関係もあり得る。まあ、専門家から見れば虐待ということになるのだが、、、。でも、大の大人が、このような発言をして、絶対服従するしかしないなんて、何だろう?稲葉さんのロボット?
「先生。稲葉さん、呼び戻したほうがいいのではないですかね。彼女の言うとおりにしないと、何をしていいのかわからなくなりますので。」
「いいえ。松岡さん。彼女なしで鷗を歌ってやりましょう。そうしたほうが、私たちは自信が付きますよ!いいですか、皆さん、彼女に騙されてます!彼女は、言ってしまえば音楽大学に行ってもよい成績なんぞ取れないと思いますよ。現に、これから訪問しようとする製鉄所には、もっとピアノがうまい方だっているんですからね!」
もうやけくそになってそう言ってしまった。
「まあ、確かに、音楽は専門的な知識が必要なのかもしれないけど、それは権力のためにあるのではありませんから!そういう事はね、教えて行けば自然に身につくものですよ。今は、こうして集まって、誰でも気軽に音楽に触れられるんだ!稲葉さんはかえってその邪魔なんだ!」
「いえ、先生。一つだけ間違えてますね。」
もんや爺さんが重い口調で言った。
「決して、誰でも気軽というものではありません!」
「そうですよ、先生。昔は音楽なんて、権力者と聖職者だけのものだったでしょ。」
友紀君までそんなことを言う。あれれ、この二人、なぜこのようなセリフを言うのだろう。前回、鷗の譜面を見せた時、一番よろこんだのは、もんや爺さんと友紀君だったじゃないか。
それなのに、なぜ、今は音楽を否定するようなセリフを口にするのだろうか。
「先生、わしらはもともと音楽ができる身分じゃなかったんだ、それなのに、こうして音楽させてもらうだけでも幸せだと思わなきゃ。これだけやらせてもらえるだけでも、十分だと思わなきゃ。それを忘れずにいないと、罰が当たる気がしてならんのです。だからわしらは、一歩も前に進めないと思うのです。」
そんな、音楽はお偉いさんの独占するものではない。もっと、いろんな人の心を豊かにするためにあるのではないか。そして、音楽に救ってもらったという事例は結構ある。
「先生、僕みたいに音楽を目指したせいでこうして傷ついた人間もいるんです。さんざん傷ついたから、もう嫌だとも思いましたけれども、それでもやりたくさせるのが音楽の魔力です。僕らは、もし、もっと上を目指そうと思えば、かならず、ある問題にぶち当たる。それを乗り越えようとするには、ものすごく傷つくし、苦しいものです。だから、本当に稲葉さんが提供してくれる範囲だけで十分なんですよ。それに、それを超えようとして、本当にさんざん苦しい思いをしてきましたから、もう、そんな思いはしたくありませんよ。」
友紀君、それは、本当に真実を言っているの?
「そうですよ。先生。士農工商は撤廃されたというけれど、見えない部分でそれは存在して、そこを乗り越えようとしたら、ものすごい傷ついて、中には二度と立ち直れない人もいるんですよ。」
もんや爺さんが静かに言った。メンバーさんたちは、もんや爺さんに感謝するという目つきをしている。
この二人、一番やる気がある人たちではなかったのかな。
本当にがっかりした。でも、一度起こした意思だもの!潰すわけにはいかない!
「そうですか。でも、いくら稲葉さんがそうであっても、もうそんなことを気にする時代では到底ないのだし、彼女は立ち位置を明らかに間違えていますから、もう無視して新しい体制を作っていきましょう!では、これより、鷗の練習に入りますよ!」
とにかく怒鳴ってしまった。怒鳴らないでやってなんて、どこかに消し飛んでいった。もう本当にわけのわからない集団だと思った。きっと稲葉さんが洗脳してしまったんだ。早く何とかしてときはなってやらなければ。そんなことばかり考えながら、鷗の練習を開始させた。時折、ピアノを弾いて音もとり、時には自ら歌って模範を示した。みんな決して歌が下手ということはまずない。音だってしっかりとれているし、リズムがおかしいこともない。無伴奏であってもしっかり歌になっている。一生懸命ほめて、何とか盛り上がらせようと思ったけど、メンバーさんたちは、自信を持ってくれたとは言えなかった。
そうこうしているうちに、公民館の館長がやってきて、次の団体に明け渡す時間だと告げた。簡単に挨拶して、足早にメンバーさんたちは帰っていく。
紀夫は、さすがに例の二人に声をかける気は起こらなかったが、逆に二人のほうが、彼に近づいてきて、
「先生、今日はご指導ありがとうございました。」
「ありがとな。また来てくれな。」
なんていう。思わずぽかんと口を開けてしまう紀夫。
そうなると予想しているのか、二人は、今日はタクシーで帰ろうかなんて言いながら、そそくさと多目的室を後にしてしまった。
「先生。」
不意に松岡さんがそういった。
「今日は、どちらにお泊りですかな。」
「いつもの、吉原駅前のホテルですが?」
「なんていうところですかな?」
「ホテル西村ですが。」
「ああ、分かりました。あの通りなら、仕事でよく通っていますので、何なら今日はホテルまでお送りしますよ。」
「いいですよ、松岡さん。余計なお気遣いはしなくても。岳南原田駅までの道順は覚えました。」
わざとさらりとした顔で、紀夫はそう返したが、
「いや、今日は乗っていってくれませんかね。」
と、懇願するように言うので、これはなにかわけがあるなと思い、松岡さんのワゴン車に乗せてもらうことにした。
二人は黙ったまま公民館を出て、ワゴン車に乗り込んだ。松岡さんがいつもの優れた運転技術で狭い駐車場を脱出し、公民館を離れて大通りへ出た。
「先生。今日はずいぶん頑張っていただきまして、ありがとうございました。まあ、メンバーさんたちももう少し自信を持ってくれたらいいのですが。私が、代表としてお詫びします。」
ハンドルを握りながら、松岡さんは申し訳なさそうに言う。
「そうですね。正直言うと、僕は、あの二人がもっとやる気があるのではないかと思っていましたが、そうではなかったというのがちょっとショックでしたね。」
紀夫が正直に答えると、
「まあ、そうですね。でも、あの二人には、ああならざるを得ない理由があるんですよね。」
と、松岡さんが何か深い意味があるように言うのである。
「なんでしょうか。もしよろしければ、理由をお聞かせ願えませんか?ああ、勿論、プライバシー的な問題があると思いますので、他言は絶対にしませんから、、、。」
紀夫は思わず聞いてみた。
「そうですね。これはお伝えしたほうがいいかもしれません。まず、友紀君の事からはなしましょうかね。彼、他のメンバーに比べて、あまりにも歳が若すぎる気がするでしょう。それに、どんなに暑い日でも長袖でやってくる。」
ああ、そう言えばそうだ。確かに、声の面からでも彼は若かった。
「あれ、わけがあるんですよ。もうね、これは都会の方にはなかなか理解されにくい話だと思うんですけど。友紀君、高校時代に音楽大学へ行くのを反対されて、担任の先生からさんざんひどいことを言われてきて、気が違ってしまったそうなんです。現に彼は、高校を卒業した直後に自殺未遂をしています。彼がいつも長袖なのは、自傷した痕を隠すためで。もう、消せないほどひどいんですよ。一度、措置入院したことさえあるんです。だから、就職もまるでできなくて。だから、居場所にって、うちの合唱団に呼んでやったんですよ。きっと、そうすれば、少し楽になってくれるんじゃないかなって。だって、こんな時間に若い人が定期的にこちらに来れるはずはないでしょ。」
確かに、彼くらいの歳の人は、今頃の時間は会社へ働きに行っているか、大学などで勉強しているはずである。今まで気が付かなかったけど、そういう事だったのか。
「全くひどかったようですよ。担任教師が、音楽大学へ行かせないようにするために、毎日自殺の真似事をさせるなどして、他の生徒に馬鹿にするように仕向けて。」
「しかし、高校生なら、親御さんに助けを求めることもできたのではないですか?」
「いやいや、都会と違って、男が高校を辞めたら、世間が黙っておりません。彼だけではなく、彼の両親も同時に村八分になります。友紀君は、親御さんがそうなるのは嫌だからと言って、何も言わずに一人で耐え抜いていたそうです。しかし、そんなこと、できるはずがないじゃないですか。結局、卒業する目前に、発狂して受験できなかったらしいですね。それでやっとご両親も、彼が一人で苦しんでいたことに気が付いたそうですよ。友紀君の側から見れば、自分は申し訳ない存在と思うしかできないでしょうし、親御さんの側から見れば、なんで何も言ってくれなかったで、当初は嫌悪と憎悪とのぶつかりっこだったそうです。彼が立ち直るには、まだまだ時間がかかるでしょうね。それに、やっぱり、この田舎では、仕事をしていないと悪人呼ばわりされることのほうが多いですし、田舎の人間は他人の噂話が大好きですから、本当に友紀君は生きているのがつらかったと思いますよ。道路を歩けば、たちまち悪人だと言って高笑いする人たちの集まりですからね、田舎と言いますものは。」
「せめて、他の学校へ行くとか、そういう事ができれば、、、。」
あの時、聞かされた水穂の話が頭に浮かぶ。
もし、東京であったら、こういう事は人権蹂躙で大問題にすることはできる。
でも、田舎ではまだ、若い人が助けを求めるということは罪という風潮がしっかり根付いている。そして、情報があまりにもなくて、学校が閉鎖的すぎるから、教師のいう事ばっかりが正しいと思い込んでしまうのだ。もし、彼にも教師のいうことは間違いだとしっかりと伝えてくれる大人がいれば、自殺未遂なんかしなくてもよかったと思う。でも、大人だって、きっとそういう芸術面のことは知らないだろう。そして、水穂が言う通り、そういう話は、階級が上でなければ得られない。昔であれば、経済力がなくても武士であれば武士だとはっきり主張することも可能だが、今はそういうことはない。階級が上というのは即ち金持ちということである。そして、それがなければ、こういう問題から逃れる方法というものは得られない。もし、階級の低いものが、高い者の学問をしようとすれば、こうしていじめられて、頭も体もつぶされてしまうんだろう。
「やっぱり都会の人ですな、先生は。そうやって簡単に学校をどうのと言えるんですからな。まあ、こういう気持ちは、きっとわかってはくれないでしょうな。」
松岡さんは、半分笑いながらそういっている。
「じゃあ、もんや爺さん、そうじゃなくて、鳥居さんは、、、?」
「おんなじことですよ。先生。爺さんの場合、もっとひどかったんじゃないですかね。だって、爺さんが若かったころは、戦争の真っ盛り。爺さんは、音楽を聴いていると、非国民と怒鳴られて、親に殴られたこともまれではなかったそうです。でも、嫌いになれなかったと言っていました。まあ、そのために精神異常者扱いでしたので、兵隊にとられることはなく生きられたと言っていましたが、、、。」
つまり、二人とも音楽が好きだったせいで大損をしているということになる。
裏を返せば、そんなに好きだったともいえる。
そういう人たちが、本来なら音楽をしてほしいのだが、この社会、まだそういう事は許してくれないらしい。
「まあねえ。先生にこんなことを言っては何ですが、好きこそものの上手なれではなくて、金持ちこそものの上手なれになっているんじゃないかなあ。」
「そうですね。松岡さん。」
紀夫も、そう思わざるをえなかった。
「でも、松岡さん、二人の望みを何とかして、かなえてやれるわけにはいきませんかね。二人とも今でなければ、音楽に触れられないと思うんですよね。」
「そうですな。私も、そうさせてやりたいと思いましてね。それで先生を呼ぼうという気持ちもありました。私は、ご覧の通り、音楽についてはまるで知識がありません。でも、偶然参加した合唱の講習会で、あれだけ楽しいのかと感動してしまって以来、辞めたいという気持ちは、どうしても持てないんですよ。ただのトラックの運転手が音楽に感動して、へんな奴だと思ったでしょ。」
そんなことはない。そういう人にも感動してもらえたら、音楽家にとって、本当に喜びだと思う。
「松岡さん、手伝ってもらえないでしょうかね。」
紀夫はある決断を固めたのであった。
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