第五章 使えない手伝い人

第五章 使えない手伝い人

岳南原田駅から、吉原駅までどうやって戻ってこれたのか、はっきり記憶してはいないけど、今、吉原駅にいる。

本当はこの近くに飲み屋でもあればいいのになと思ったけれど、何もない。

東京の吉原であれば、そこが違うところだ。

なんか、東京に帰るのもしんどいし、かといって富士に残るのも嫌だなあ、、、。

そんな気持ちで、岳南電車のホームをぽつりぽつりと歩くと、

「小屋敷ちゃん。」

不意に声がかかる。びっくりして後ろを振り向くと、杉三がそこにいた。

「元気かい、といいたいところだが、その顔を見ると、それどころじゃなさそうだな。」

全く、なんでわかっちゃうんだろう。普通に歩いているつもりなのに。誰も、落ち込んでいるなんて、感づいてはくれるはずないのに。

「へへ、文字が読めない分、顔の動きでなんでもわかっちゃうの。」

「やっぱり、杉ちゃんにはかないませんね。」

「馬鹿にまで敵わないと言われたらおしまいだぜ。一体何があったんよ。まあ、馬鹿に話しても意味がないと思うかもしれないけど、人間、頭が空っぽにならないと、前には進めないからねえ。」

まあ、それは確かにそうだ。でも、もう、前へ進んでも意味がないのではないか。いくら前に進んでも、必ず障壁が入ることは、火を見るよりも明らかになってしまった。

「黙ってないで言っちゃいなよ。少なくとも、誰かに聞いてもらったほうが、絶対楽になれるってもんよ。それとも商売人のほうが、よほどうまくやってくれるとでも?」

まあ、確かに話を聞く商売人に話すと、適切なアドバイスをしてくれるかもしれないが、そういう人に会うには、精神疾患を持っている人が優先されるだろうし、高額な費用が掛かる。

「杉ちゃん、今日、お宅に右城さんいますか?」

思い切ってそういってみる。

「右城?あ、水穂さんの旧姓ね。どうも僕、苗字覚えるの苦手なんだよね。苗字と称号は嫌いだからね。」

「ああしてお宅に集まることはよくあるんですか?」

話題をさらさないでもらいたいなと思いながらもう一度質問する。

「まあ、あの時は、僕が帰ってこないので、蘭が相談するために呼びだしただけ。蘭は困ったことがあると、人を呼び出すのが常なのよ。」

「じゃあ、近くに住んでいるわけではないのですか?」

「水穂さんたちは、大渕の製鉄所に住んでいら。青柳教授と、お弟子さんたちと一緒にたたら製鉄やってら。」

製鉄所?あの人がそんなところに勤めているだろうか。

「まあ、正確に言うと、職人の一人というわけではないけどね。正確には雑用係をやっている。鉄を作っているのは教授のやることで、水穂さんはその手伝い人。」

あれれ、ピアノを弾いているはずでは?

「ピアノあるにはあるけど、多分今は、ゴドフスキーは弾かないだろうな。」

少なくとも、自分にとっては、憧れの存在だった。その人物がどういういきさつで、製鉄所に住み込みで働くようになったのだろう?

「杉ちゃん、もう一回お会いできませんかね。」

「ここから製鉄所は少し遠いよ。僕、移動手段はタクシーしかないし、それもユニキャブの。」

「それでもいいですよ。タクシー代なんて足りなかったら出しますから、お願いできませんかね。」

「そうだねえ。まあ、ユニキャブであれば、何とか乗れるかなあ。じゃあ、こっちへ来てくれる?」

とりあえず、切符を駅員さんに渡して、二人は吉原駅を出た。紀夫は、以前のケースから、ユニキャブ、いわゆるみんなのタクシーを使えば、小型のタクシーと同じ料金で行けることを知ったから、普通のタクシーより少し安くなると思った。東京の人たちにこのシステムを話したら、ワゴン車なんだから、かえって高くつくように見えるので、普及はしないぞと笑っていた。

駅を出て、タクシー乗り場に行くと、杉三は通常のタクシー乗り場ではなく、一番端まで移動していった。そこに「みんなのタクシー乗り場」と書いてある看板が設置してあった。なるほど、利用したい人たちのために、普通のタクシーと分けてあったのか。一番端なんて、なんだかちょっと、人種差別に見えなくもないけど、、、。

みんなのタクシーと呼ばれるワゴン車は、ニ、三台そこに止まっていた。いろんな会社がこのタクシーを使用しているが、これほどまで普及しているのは、車両購入に、静岡県がお金を出しているとか、タクシー会社のサイトに書いてあったな。

「ちょっと乗せて。」

一番前に止まっているタクシーに杉三が声をかけた。

「あ、いいよ。乗りな。」

運転手が外に出て、後部座席のドアを開け、杉三を車いすごとタクシーに乗せてくれた。紀夫も続いて後部座席に座った。いくら車いすとはいえ、こんな大きなワゴン車に二人だけしか乗らないというのはちょっと贅沢な気もする。

「どちらまで?」

「製鉄所。玄関にたたらせいてつと書いてあるから、すぐわかる。」

「ああ、あそこね。ちょっと今の時間、道路が混んでいるかもしれないから、その時は別の道を使うけどいい?」

「いいよ。頼むぜ。」

「はいよ。」

タクシーは、エンジンをかけて、道路を走り始めた。

しばらく行くと、市街地を抜けて、製紙会社が連立する中を走った。高速道路を使えば最短で行けるが、かなり混雑しているので、抜け道から行く事になった。そうなると、奥多摩などでなければ見られない風景を走り、紀夫がちょっとばかり乗り物酔いをしそうだなと思っていると、急にタクシーは止まった。

「ついたよ、この建物だ。」

「はい、毎度あり。」

運転手が手早く杉三を外へ出してくれた。紀夫もドアから外へ降りる。運転手と杉三が、帰りのことについて話している間に、紀夫は建物自体を観察する。

「あれ、製鉄所というにしてはおかしいですね。高炉もないし、古い製鉄所によくあるキューポラもない。なんだか建物は、日本旅館みたいだし。でも確かにたたらせいてつと貼り紙してある、、、。」

例えば八幡製鉄所と比べると、比べ物にならないほど違う建物で、鉄を作るという雰囲気は全く見られず、なんだか芸妓さんとか仲居さんのような綺麗な人がたくさんいそうな昭和レトロな雰囲気もある、古き良き日本家屋と言った作りだった。正門には青柳という表札と、「たたらせいてつ」という毛筆で書かれた貼り紙がある。鉄にはどうしても結びつかないと首をひねって考えていると、

「入ろうぜ。」

と、杉三が正門をぎいと開けて中へ入っていくので、急いであとについていった。

中は苔と岩と松が連なる日本庭園。それを少し歩くと玄関の戸が見える。呼び鈴はあるが、車いすの杉三には届かないので、そのまま直に戸を叩く。

「ごめんください!青柳教授いますか!」

しばらく間があったが、ガラッと戸が開いて、懍が姿を現した。

「どうしたんですか。連絡もよこさずにいきなり。」

「ごめん、忘れた。そんな話はどうでもいいや。水穂さんはどうしてる?」

「昨日から臥せていますけど。」

「起こすのは難しいかな?」

「立たせるのはどうかと。」

「あのね、小屋敷ちゃんがきているの。会って話させてもらえない?」

懍は少し考えて、

「短時間ならいいでしょう。」

とだけ言った。

「よし、許可をもらえたから、入らしてもらおう。」

平気な顔して杉三は中に入る。紀夫は、あまりにも建物が立派すぎるきがして入るのにちょっと躊躇してしまったが、懍に促されて入らせてもらった。廊下はすべて鴬張りだ。今時、こんなものが必要なんかな、と思うほど、歩くときゅきゅとなって、ちょっと気持ち悪いくらいである。

「水穂さんね、寝ているときに申し訳ないが、君のファンの一人がお会いしたいんだって。ちょっと、顔出してやってくれないかな。」

と、言いながら杉三はふすまを開けた。

ふすまを開けると、水穂が布団の上に正座で座っていた。なんだか結構やつれた、痛々しい感じだった。美形だけはまだ健在だと思われるが、どうも体のことについては、聞いてはいけないなという印象もあった。これでは無理やり訪問なんかするべきではなかったかと紀夫が考えていると、

「気にしないでくださいね。」

と結構強く言われた。

「そうですね。もうちょっと強くなければいけませんね。でも、今回は本当に参りましたよ。ああいう風にしないと、合唱団が強くはならないと思い、わざと無伴奏の曲を持って行ったんですが、、、。それが逆に人を馬鹿にしていると解釈されてしまうものなのでしょうか。あの稲葉という女性はどうも何か勘違いをしているというか、何だろう、自分の支配している国家とでも思い込んでいるのでしょうか。どうしてまたこうなってしまうのかよくわからないですけど、おかしな人がいて、それに素直に従ってしまう人たちがいて、それが当たり前だと思い込んでいる社会があって、もう、この街は東京とは違うというか、まるで政治システムの違う、外国にでも来たのかと思ってしまいました。」

紀夫は思いっきり、自分の中にため込んだものを言ってしまった。

「いったい何をやったんだ?」

杉三に聞かれて、やっと木下牧子の鷗を歌わせてみたということができた。確かに比較的歌いやすい曲の一つである。基本的に、伴奏はつかないで歌われることが多い。

「もしかしたら、歌詞に反発したのかもしれないですよね。作曲者は意識してないと思うんですけど、あの歌詞はもともと社会主義を尊ぶ歌詞ですから、知っている人は大いに嫌うと思いますので。」

時代背景的に言ったらそうなるが、今は、そんなことは一切無視して多くの合唱団が歌っている曲である。特に共産党系で歌われるという曲でもない。

「それに、作詞者が、精神的な問題があったのもありますよね。」

そうか、そういう事もあったか。もうちょっと調べておくべきだったか。

「しかし、そういう事をなんで一々気にしなければならないんでしょうか。他の合唱団では平気で歌われていますよ。演奏会なんかで取り上げることも多い曲ですよ。」

「いや、こだわる人もいますから。特に、田舎とはそういうものです。それに、その稲葉という人は、おそらくこれまで合唱団を引っ張ってきた実績もあると思いますし、便乗して鼻が高くなれば、誰でも自然に権力欲というものは出ますよ。そこを抑えるのはある意味難しいと思いますね。」

「そうですか。やっぱり失敗だったかな、、、。皆さんこれから集まってくれるようになりますかね。」

紀夫は正直に言ってみる。

「まあ、それは指導者の腕次第ということもあるよね。」

杉三の一言で、さらに小さくなってしまう紀夫。やっぱり自分はだめだとより強く言われているようだ。

「いずれにしても、人員は大幅に減る可能性は避けられないでしょうね。特に女性はそうなりやすいでしょう。それを回避するにはある程度、正面衝突は避けられないと思いますよ。」

ここで、初めて会った時に、杉三にいわれた言葉を思いだす。恐ろしく下手だけど、怒鳴らないでやって、と。なんか、そういうよりも、一度怒鳴ったほうが、従ってくれるような気がする。

「少なくとも、声を立てるとか怒鳴るとか、そういうやり方はするべきではないですよ。それが通用するのは、世の中を知らない若い人だけですよ。年配者は感情で動かそうとすると、蔑視すると思いますから。そういう事に対しては、非常に強力な免疫を有しています。」

では、稲葉さんはどうなるのか。

「そういうのができるかできないかが、男と女の違いだよ。」

不意に杉三がそんなことを言った。

「男なら、感情で伸し上げるということはできないよ。おそらく田舎では、音楽家って女ってなっているだろうから、それをけ破るのは難しいよ。」

そうだよな、水穂さんもその被害者の一人ともいえるだろう。

やっぱり、音楽をやっていくと、何を理解するのも楽じゃないなと紀夫は思った。

「しかし、なんで君みたいな人がこんな辺鄙なところに来たの?だって、そういうところならいてもいなくても意味ないんじゃないの?優秀な音楽家を呼んでも。」

杉三の言い方そのものは下品かもしれないが、結構的を突いた質問である。

「うーん、富士の合唱連盟の委嘱なんですけどね。まあ、多分建て直しのためですかね。自分でもよくわからないですよ。代表の松岡さんが、合唱連盟に頼み込んでお願いしたと聞きましたよ。」

「しかし、やる気がないのを動かすのは、本当に至難の業で、動かされる側より、動かす側のほうが傷つくぞ。」

そうかもしれない。部外者は特にそうなりやすい。

「なんか、発表の場があったほうがいいとは確かに思いますね。それは持つべきだと思いますよ。あるのとないのとでは、偉い違いですし。」

「そうですね、右城さんの言うとおりだとは思うんですが。皆さん恐ろしく自信を無くしておりますので、どうかな。右城さんのような人に手伝ってもらえたらとも思うのですが。」

思わず、本心を切り出した。稲葉さんではなくて、水穂のほうが、ピアニズムもあり、人格的に彼女より優れているのではないだろうか。そうなれば、もうちょっとやる気を出してくれるかな。紀夫は、一瞬生唾を飲み込む。

「いや、それは無理ですね。ちょっと体力的に。使えなくてすみません。」

水穂が出した答えはこれだった。偉い人に謝られると、なんだかつらいものもある。

「そこまでお悪いんですか?」

思わず素っ頓狂に聞いてみると、

「はい。」

あっさりと肯定した。

そう言われたら、本当なんだろうな、と紀夫もあきらめざるを得なかった。しかし、紀夫にとって、彼はまぎれもなく、憧れの人物だ。いくらやつれて痛々しい感じであっても、だ。

あーあ、これはだめか。せめて、補助的な人として来てもらいたかったな。自分では、稲葉さんに勝てるとはどうしても思えないし。このような綺麗な人であれば、女性メンバーさんも従ってくれるんじゃないのかという気持ちもないわけではなかった。結局、稲葉さんを何とかしようという作戦自体が、ダメだったのかな。

不意にふすまがさっと開く。

「そろそろ、晩御飯の時間ですけど、どうします?」

懍が、車いすに乗ってやってきた。その顔を見ると、懍も、水穂を心配しているようである。やっぱり、右城さんはお悪いんだなあと紀夫はがっかりしてしまった。

「調理係にここへ持ってこさせますか?」

「あ、いいですよ。食堂行きますよ。」

そう言いながらも軽くせき込んでしまうので、まだ完全ではないんだなということがはっきりした。しばらくたたせないほうがいいというのは本当だ。

「いいえ、無理はしてはなりませんよ。最近は暑いから、なかなか立ち直るのも難しいでしょうね。それから、ご不安であれば、うちで演奏されたらどうですか。」

あれれ、そんな言葉が出るなんて!一瞬呆然としてしまう。

「教授も耳聡いな。聞こえてた?」

「ええ、杉三さんのその声はかなり遠く離れたところからでも聞こえます。たぶんきっと、ホールを予約するとかそういう事になると、面倒な事態になってしまうと思いますので、それなら、うちの大部屋を使って、一度演奏してみればいい。」

懍は、何事もないようにさらりと言うが、紀夫にとってはありがたき天の助けだ。

「もしかしたら、製鉄をしている寮生たちも、喜ぶのではないですか。団員さんたちには、製鉄所から依頼が来たと言えばいいのです。たぶん、大渕の製鉄所と言えば通じますので。」

つまるところの、慰問演奏か。

「あ、ありがとうございます!青柳先生!そうすればうちの合唱団も、もう少しやる気を出してくれるかもしれないです!いつ頃を希望されますか?」

「いつでもいいですよ。鉄を作るというのは、恐ろしく単純な作業で、ひたすら火を焚いて、天秤鞴を動かし、三十分ごとに真砂鉄を投入するの繰り返しですから、結構意欲的というか、辛抱強くないと達成できませんのでね。音楽があればやる気を出してくれるかもしれないし。」

「だから、村下さんが鉄は待っててくれないぞ!というんだ。」

杉三が懍の話に口をはさんだ。

「杉三さん、やたらに口をはさむものではありませんよ。どうですか、引き受けてくださいますか?」

一瞬、稲葉さんのあの激怒した顔が頭に浮かぶ。あれをもう一度見るのはいやな気がするし、あれほど怒らせてしまった以上、ピアノ伴奏の協力は得られないかもしれない。そうなれば、稲葉さんより何十倍もうまい、水穂に手伝ってもらえたらいいけど、ここまで弱ってしまったら、多分無理だろう。

「そうですけどね、ピアノ伴奏者というものがないと、、、。」

「ピアノなら、大部屋に一台ありますけど?最も、譲り受けたものなので、恐ろしく古いですが。」

なんだ、あるのか!と、思うと余計に切なくなる。

「教授、今はちょっと無理なんじゃないかな。なんか、ピアノ伴奏の稲葉さんという人と、一騒動起こしてしまった後らしいからさ。そうなれば、大変なこっちゃ。合唱にピアノは欠かせないぜ。」

杉三が、紀夫の気持ちをそのまま読み取ったように、そう発言してしまった。自分で言わなければならないところだったけれど、それを言うにはなんだかものすごく躊躇してしまっていたので、かえって杉三に言ってもらったほうが、なんだか救われたような気がした。懍も、非常に言いにくいことだと気が付いてくれたらしく、そのことについて詰問はしなかった。

「そうですか。でも、伴奏がある曲が、合唱曲ばかりではないでしょう。」

「教授、でもさ、その稲葉さんという人が事実上支配者だぜ。」

「杉三さん、確かにそうかもしれませんが、これはたぶん、その松岡という方が、彼女を追放するために、小屋敷さんを呼び出したのだと思うのですがね。」

「あ、なるほど!反乱を起こすためか!」

「反乱というと大げさですが、少なくともそういう事だと思いますね。一度稲葉さんなしでやってみてごらんなさい。そうして、付いてきた人だけが、本当に合唱を愛好しているのだと思います。」

なるほど。松岡さんがそのために。

そうなると、自分の使命というものがはっきりしてきた。

「わかりました!やってみます!」

「手伝えなくてごめんね。」

紀夫の顔を見ながら、水穂が申し訳なさそうに言った。


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