九つの尾(6)
ここはどこだ?
四方を業火に取り囲まれ、壬は行き場を失いもがいていた。
逃げても払っても、燃え盛る炎が体に
(ああ、そうか。これは、俺自身の力)
そう誰かに言われ、その直後、炎に飲み込まれた。
誰に? という疑問には、なぜだか答えられない。
体が熱い。体の中を煮えたぎる熱が暴れ回り、抑えきれずに爆発する。
今、この場を支配しているのは荒れ狂う力だ。
力が足りないとずっと思っていた。だから強くなりたいとそう思っていた。
しかし、自分が求めていた力とは、こんな暴れるだけの力だっただろうか。
そのうち、あまりの熱さに意識も遠のいて
骨まで焼き尽くされそうな熱さに思考が定まらない。大切なことを忘れている気がするが、それが何かさえ分からない。
(このまま俺は消えるのか)
ぼんやりとそんな思いが脳裏をかすめ、誰かに言われた言葉を思い出す。
──このまま力に飲み込まれれば、おまえはおまえでなくなるよ。
それもいいのかな、とも思った。どうせ扱いきれない力なら飲み込まれた方が楽かも知れない。力を手に入れても自分が弱いままじゃ何も変わらないと、どうして気づかなかったのだろう。
壬は足を止め、
もう苦しい。楽になりたい。
そのままごろんと仰向けになる。ゆっくりと目を閉じる。
いっそ燃えてしまおう──。
そう思った時、誰かの声が聞こえた。
いつもそばで聞いていた声。俺の隣で小鳥がさえずるように可愛らしく。いつも聞いていたはずなのに、なぜだかとても懐かしく感じる。
俺はこの声を知っている。大好きな声だ。
この声は──、
「伊万里、」
ふと呟いて、壬は手放しかけた意識を取り戻す。
思い出した。俺の大切な存在。
再び伊万里の声が聞こえた。切り裂くような必死な声だ。
壬の瞳に伊万里の泣いている顔が映る。大粒の涙を流し、なんども自分の名前を呼んでいる。
「なんで泣いてるの。伊万里」
俺はここにいるじゃないか。泣かないで。
おまえの笑った顔が大好きなんだ。
壬は手を伸ばし宙を掴む。彼女の姿はこうして瞳に映るのに、どうしても届かない。
早く、早く、行かないと。これ以上、彼女が泣かないように。
小さい頃から何にも執着がなかった。面倒臭いが口癖で、どんなに圭が褒められていても自分には関係ないと横目で見ていた。俺はただの狐、そう思ってただ毎日をぼんやりと過ごしていた。
そう、伊万里と出会うまでは。
あの日、俺の毎日は変わったんだ。
初めて、誰かを守りたいと思った。本気で、誰かを欲しいと思った。
心の底から、強くなりたいと思った。
その笑顔をずっと見ていたいと、ただそれだけだったんだ。
俺は、こんな荒れ狂う力を手に入れたかったわけじゃない。
こんなのは力とは言わない。これは弱い奴が怯えてわめき散らしているのと同じだ。
だから見ろ、伊万里が泣いているじゃないか。
彼女の笑顔が見たいんだ。
だから鎮まれ、俺の中の弱い自分。
飲まれるな。
怯えるな。
大切なものが手からこぼれ落ちていかないように。
だから──、
「伊万里」
気がつくと、伊万里が首にしがみつき泣きじゃくっていた。いつも肩のあたりで綺麗に揺れていた黒髪は、焼け縮れてショートカットのようになっている。
「伊万里」
今度ははっきりと意識して、再び名前を呼ぶ。彼女の名前を口にするだけで体中を駆け巡っていた熱が静かに冷めていく。同時に壬は人の姿に戻った。
伊万里がびくりと体を震わせゆっくりと顔を上げた。
「泣かないで、伊万里」
「壬──!」
伊万里の目から大粒の涙がポロポロとこぼれた。そして、彼女はさらに泣き崩れそうになるのをぐっとこらえ、涙でくちゃくちゃになった顔に気丈にも笑みを浮かべた。
彼女の笑顔を見て、壬の全身の力が抜ける。同時に、二人は落下し始めた。
「え?」
とっさに伊万里を抱きかかえて見てみれば、ここは空のただ中だ。どうして浮いていたんだと壬が思う間もなく、阿丸がさっと駆け飛んで来て、二人を背中で受け止めた。そして、阿丸はそのまま二人を地上に降ろした。
伊万里は着ている白いブラウスもあちこち焼け焦げて、むき出しになった肌は火傷を負って真っ赤になっていた。そして彼女と自分の体の間、ゴツッとした物が当たり、壬はふと体を離してそれに目を向けた。
「これを壬に渡しに来たんです」
伊万里が手の中の物をぎゅっと握りしめる。黒に近い深い朱塗りの本体に
「これを渡して自由になりたくて」
伊万里が壬をまっすぐ見つめた。
「こんなものがなくても、壬を好きだと言いたくて」
「伊万里……」
半ば押しつけられるような形で壬は鞘を受け取る。彼は空いた手で彼女の頬に手を伸ばした。
焔の鞘を自分に渡してくれたこと、気持ちを伝えてくれたこと、そして何よりも、伊万里が生きていることが信じられず、壬は何度も彼女の柔らかい頬を撫でた。
伊万里がそんな彼の手に自分の手を重ねた。
「九尾の花嫁など、最初からどこにもいなかったのでございます。いたのは私。壬のことが大好きな、ただの私」
伊万里がまるで夢見るように呟く。刹那、壬は伊万里を力強く抱きしめた。
「伊万里、ごめん」
強く、強く、彼女を抱き締める。
「こんな、こんなに怪我をさせて。いっぱい心配させて、いっぱい苦しめて」
胸の中、伊万里が小さく首を振った。
壬は彼女を抱き締めながら自分自身に言い聞かせるように言った。
「伊万里を縛っていたのは、この鞘でも九尾の盟約でもなく、俺自身。俺が、伊万里を手に入れたくて、誰にも渡したくなくて、利用したんだ。ずっとそばにいられるならそれでいいって」
彼女は幻滅するだろうか。でも言わないといけない。今さら遅いかもしれないけれど、全部伝えないといけない。
「ちゃんと守れるくらい強くなりたくて、でもそんな簡単になれるわけなくて、いつまでたっても弱いままで。だから、盟約で縛っておかないと、伊万里は誰かのものになってしまうかもしれないから──、」
そして抱き締める手を緩め伊万里を体から離す。壬はひと呼吸おいて、伊万里の深紫の瞳をまっすぐ見つめた。
「伊万里のこと大好きだから。ずっと一緒にいたいから」
彼女の瞳に自分の顔が映っている。そのどこまでも澄んだ瞳がゆらゆらと揺れる。壬は二人の間を吹き抜ける優しい風に言葉を乗せた。
「こんな頼りない二代目だけど俺のそばにいて、伊万里」
「壬……」
二日前、お互いに自分の気持ちを口にした。でもあの時は、どちらも自分のことしか考えていなくて、自分の気持ちだけを押し付けあった。
だから、何を言っても言われても違うと思った。自分の言葉は何一つ届かないと思った。
(馬鹿だな)
二人は心の中で同時にそう思った。
ただ素直に自分の気持ちを伝えれば良かっただけなのに。ただ素直に相手の気持ちに耳を傾ければ良かっただけなのに。それだけで、こんなに満たされた気持ちになるなんて知らなかった。
壬が彼女の短くなった髪を、涙の跡がついた頬を、愛おしく何度も撫でる。
彼女は、涙で瞳をうるわせながら嬉しそうに笑った。
壬が伊万里の頭を引き寄せて、頭上の角にキスをする。いつもの「伊万里は自分のものだ」というおまじない。
それから彼は彼女の顔を覗き込み、いたずらっぽく目を細めた。
「伊万里、そばにいてくれる? 嫌とは言わせない。だって伊万里は言ってただろ? 好きも嫌いも──」
「……二代目さま以外に誰かをお慕いすることなどあり得ない」
そう答え、伊万里はおかしそうに笑った。
「今、その言葉を持ち出すのですか? そこは関係ないって言わないのですね」
「まさか。使える物はみっともなくても全部使う。今の俺、必死だから」
壬が当然とばかりの顔をする。
妙に開き直ったその様子がおかしいけれど、彼らしい。伊万里は壬の胸に飛び込んだ。
「そういう格好悪いところが好きなんです」
壬も伊万里の背中に両腕を回し抱き締め返す。愛おしい気持ちでいっぱいになる。
「好きだよ、伊万里」
伊万里が頭をもぞもぞと動かして顔を上げる。
二人の瞳が交じり合う。どちらからともなく笑みがこぼれる。
溢れる気持ちが込み上げる。
ゆっくりと目を閉じ、おそるおそる唇を重ね合う。
お互いの体温を、存在を感じ合う。
もう、離さない。離れたくない。
壬と伊万里は、お互いの存在を確かめ合うように深く唇を重ね合わせた。
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