谷の跡取り(3)
(なっ──?!)
圭の心臓が止まりそうになる。彼は大きく目を見開いて、黒塗りの箱を見つめた。
狐の尻尾と鬼の角を取る行為は、人間で言うところの首を取る行為に等しい。
それが意味するところはただ一つ、「死」しかない。
(そんな、バカな──…)
膝の上に置いた手が、にわかに震えた。緊張で胸が詰まりそうになり息が乱れる。隣で千尋も真っ青になっている。
刹那、稲山の大狐が刀を片手に足音も荒々しく亜子の前に立ち、彼女を見下ろした。
「尻尾と角だと?」
言って勝二は目を
「左様にございます」
「ふざけるな!」
勝二が、瞬時に亜子に向かって真一文字に刀を振り抜く。刃が空を斬る音が部屋の静寂に飲み込まれ、次の瞬間、目の前の箱が上下真っ二つに割れた。
ゆっくりと上部がずれて、からんと畳に滑り落ちる。
中から──、短冊の形に折り畳まれた和紙が出てきた。
「手紙……?」
とりあえず尻尾と角ではなかったことに圭はほっと息をついた。千尋も大きく肩で息をした。
しかし勝二はまだ怒りが冷めやらない。彼はそのまま切っ先を亜子に向けた。
「このような茶番、何をしたい?」
亜子がちらりと勝二を見て、それから護に目を向けた。
「お二人は今まさにこのような状況であると、そういう意味にございます。我らが手の内にございますれば」
そして亜子は、次の瞬間、がばっと頭を畳にこすりつけた。
「無茶は承知、無理も承知。理不尽極まりないこと重々承知の上で、我ら篠平が次男、拓真からの書状にどうかお目通しを願います」
護が冷めた目で亜子を見る。
「亜子殿、このようなやり方、もはや脅しですぞ」
「責めは負う覚悟にございます」
「言うたな、この
頭を下げ続ける亜子に勝二が大きく刀を振り上げた。
「ならば、今すぐ斬ってくれるわ」
「なんなりと。しかし、」
亜子が顔を上げ、勝二、猿師、そして護を必死の相で見返した。
「どうか、どうか書状にお目通しを。篠平をお助けいただきたく、お頼み申す──!」
「……大叔父殿、お待ちください」
護が片手を上げて勝二を止めた。そして彼は亜子に言った。
「まずは一つ確認したい。壬と伊万里姫は無事ですかな?」
「はい。拓真の屋敷内にて過ごしております」
「……大叔父殿、書状を見せていただけるか」
護に言われ、勝二が箱の中から出てきた書状を拾い出した。そして護の元へ行き、彼に渡した。
護がざっと目を通し、猿師に渡す。猿師がひと通り読み終えると、今度は勝二がそれを読んだ。
「さて、」
護が亜子を見据えた。
「今回のこと、いろいろ腑に落ちない点が多い。いったい篠平で何が起こっているのか、それを我らに話す用意はおありか」
亜子が口をきゅっと結び直す。そして彼女は小さく頷き返した。
護は彼女の態度を確認してから、おもむろに口を開いた。
「そもそも事の始まりは次郎からの連絡であったわけだが、いくら次郎からの口添えとはいえ、
護が亜子に尋ねた。亜子が「いいえ」と正面切って否定する。
「篠平には、伏見谷に助けを乞うことは従属にあたるとし反対する者もおり、このような形となりました。意見をまとめることの出来なかった私の力不足です」
「しかし、九尾の妖刀・
すると亜子がちらりと圭を見て、それから護に視線を戻した。
「ご当主殿、もしくは同等となるご名代をお願いしたく、ここへ参じました。本来の後継である長男と跡目を争う以上、大きな後ろ盾が必要。我らが欲しているのは単なる個の力ではありません」
護が「ふむ」と小さく頷く。
「そこまでして争う理由は?」
亜子はひと呼吸おいてから、静かな口調で答えた。
「……長男、篠平祥真に何かが憑いております」
「狐に──?」
「はい。が、その何かさえ真の黒幕ではないと考えております」
「ほう。では、その真っ黒な幕の後ろで誰が動いているとお考えか」
「おそらくは、
亜子の凛とした声が静かな大座敷に響いた。
「
亜子が話を続けた。
「篠平も伏見谷同様、月夜の里とは一定の距離を保っておりました。しかし、ここ数年、鬼との強い繋がりを望む声が出てきております」
「それは、なぜ?」
「より強い力を求めて。篠平には、人間を忌み嫌い
勝二が「馬鹿な、」と呆れた様子で言った。
「排除などと、本気で考えておるのか。今の我らの生活そのものが人間のそれを模したものだというのに」
「おっしゃる通り。狐としての誇りを保ち、共に歩むことは初代篠平の教えでもある。しかし、我らの里は
「……その不安を
亜子が頷き返した。
「このままでは人間に乗っ取られると里の者の不安を
「今のあの一族が、その様な情を持ち合わせているとは思えませんな。下手をすると、人間ではなく鬼に篠平を乗っ取られますぞ」
護が言うと、亜子の瞳に怒りの色が満ちた。
「鬼の好きになど、させませぬ」
「先代は、この状況をどうお考えだったのか」
「先代は長い間病に伏せ、里の
「……殺された、とでもおっしゃるか」
亜子が黙って目を伏せる。「何の証拠もないので断言ははばかられる」という態度だったが、先代の死について疑問を持っていることは明らかだった。
護が大きなため息をついた。
「我らが
「だからこそ、」
亜子がずいっと片膝を立てて詰め寄った。
「今の月夜の伯は閉鎖的で自身の種族以外は毛嫌いしており、伏見谷とて例外ではない。篠平が月夜に従属すれば、それこそ谷にとっても脅威となる。拓真は少々やんちゃですが、
「月夜ではなく、谷につくと申されるか」
「篠平の利となる方につき申す」
護が亜子の言葉に二、三度小さく頷き返した。そして少し考え込む。
ややして、彼は圭に目を向けた。
「ここに控えているのは、私の息子、圭です。壬の双子の兄となる」
突然護から紹介され、圭は慌てて頭を下げた。亜子が親しげな笑みを返す。
「次郎殿から、ご次男同様ようく聞いております」
そう言われ、圭は取って付けたように笑い返した。
しかし、今の圭はそれどころではなかった。大人たちの話についていくのに必死だったこともあるが、それ以上に壬と自分の置かれている立場の違いと、その重さに気付き、にわかに笑顔など作れなくなっていた。
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