解ける境界(3)

 真っ暗な空間だった。空気さえ微動だにしない。

 圭はとりあえず狐火を一つ灯した。何もない空間に、ぼんやりと四角い額縁が浮かび上がる。こちらとあちらの境界線だ。

「姫ちゃんが初めて触れた時は完全拒否って感じだったのに、すんなり入れた。やっぱりすごいな」

 圭は一人呟いた。

 結界は無言の対話だ。多様な対話ができるものほど、多彩で緻密ちみつな結界が出来上がる。そして、これはそういう結界。いろいろ学んだからこそ分かる、伊東屋いとうや右玄うげんの結界のすごさ。

 すると、可愛らしい声が響いた。

「ふむ、おまえが捕らわれてしまったぞ?」

 その声に似合わない大人びた言葉。振り向くと、黒髪に赤い着物姿の女の子が圭を見上げて立っていた。つぶらな瞳にふっくらした赤い頬、小さな手に鮮やかな手毬を大事そうに抱えている。座敷わらしは、絵で見るよりもずっと愛らしかった。

「九尾の子、圭と言ったか。今日はおまえ一人か」

 言って彼女は、額縁の向こうに目を向けた。

「どうする? そこな、残してきた者が困っておる」

 額縁にモモと木戸の様子がぼんやりと映し出された。


「蛇、圭先輩を元に戻せ」

「木戸くん、どうしてそんなことを言うの? 橘千尋の大切なもの、消しただけじゃない」

 木戸がぎりっと歯ぎしりしながら蛇を睨んだ。

「大橋の口を使うな。こいつは橘先輩のこと、大好きだったんだ。口にしたことはなかったけど、いつも羨ましそうに目で追ってた」

 すると、モモの声が低い絡みつくような笑い声に変わった。

「くくく……ほんに、羨望と嫉妬は紙一重。モモがこうなったのもおまえのせい。おまえがこやつを大切にしなかったから」

 モモがすっと木戸にすり寄った。そして木戸の腕をぎゅっと握る。彼女の肩から黒蛇がゆっくり伸びてきて、木戸の耳元で囁いた。

「このままだと、こやつは壊れる。モモを助けたくはないか?」

 木戸が黙ったまま鋭く蛇を見返した。

 

わらのことはいい。早う、あれを止めてくれ。あれはわらのためにああなったようなもの」

 座敷わらしが見るに耐えないとため息まじりに目をそらした。そして彼女は責めるような目で圭を見た。

「圭とやら、何か策があって来たのだろう?」

 すると、圭が余裕のある笑みを返した。

「もともと俺は、モモちゃんのことを木戸に任せてこの結界の中に入るつもりでした。だから大丈夫、策はすべて彼に託してある」

 訝しげに首を傾げる座敷わらしに、圭はしゃがんで目線を合わせた。

「わらし様、今日はあなたに見せたいものがあって持ってきました」

「……なんぞ」

伊東屋いとうや右玄うげんの日記」

 彼は背中のショルダーバッグから右玄の日記を取り出した。座敷わらしが持っていた手毬をぽとん落とし、そのつぶらな瞳を大きく見開いた。

「日記には、彼とあやかしたちとの日々の交流が書いてありました。もちろん、わらし様とのことも」

 言って圭は、日記を座敷わらしに手渡した。


 日記には、伊東屋右玄の日常が細やかに、そして、楽しそうに綴られてあった。右玄は、どちらかと言えば孤独な少年だったようだ。神童と言えば聞こえはいいが、その霊力の高さから周囲の人間は彼を「狐の子」と揶揄やゆしていた。時は大正、欧米列強の影響を受けて文明が目覚ましく発展していく中、あやかしの存在を全く信じようとしない人間もいる。自然と右玄は人間と疎遠になり、あやかしと交流するようになった。

 そんな中、彼は座敷わらしと出会った。聞けば、とある庄屋から逃げてきたと言う。座敷わらしが一所ひとところに居続けると、家は財に恵まれるが欲が溜まりいろいろと面倒なことになっていくそうで、彼女は頃合いだということで逃げてきた。見た目だけとはいえ、同じ子供同士、二人はあっと言う間に仲良くなった。その座敷わらしはキクという名だった。

 キクは聡明で穏やかなあやかしだった。守役の白蛇を肩に乗せ、孤独な右玄の一番の理解者だった。

 そして、二人が出会い一年が経ち、右玄が十一になった頃、その事件は起きた。

 あやかしを狩る特別な力を持った人間が、右玄たちの住む村に現れた。その人間のことを右玄は日記で「鬼斬おにぎり」と呼んでいた。鬼斬と呼ばれる人間は、次々とあやかしを殺していく。そして、とうとう人間が殺された。

 小さな田舎の村での村人の不審な死。何も分からない人間たちは、真っ先に狐の子、右玄の仕業ではないかと疑いだした。自分が疑われていることはどうでも良かったが、鬼斬の手が彼の周囲のあやかし、そして何よりキクに及ぶことに右玄は危機感を抱いた。

「最期の三日間、よほど切羽詰まっていたんでしょうね。見てください。日記と言うには内容も短く、まるで殴り書きのメモだ」

 座敷わらしが最後のページをぱらりと開いた。


十月十九日

 やつは狂っている。闇に落ちた鬼斬は、もはや人間ではない。キクを守りたい。


十月二十日

 以前、キクから聞いた伏見谷と言われる九尾の谷を訪ねようと思う。


十月二十一日

 鬼斬が来ている。私が地獄へ連れて行く。ただ、キクの無事と幸せを願う。


 さらに圭が続けた。

「そして、この日記は当時の伏宮当主に拾われました。二十二日以降の記録は、伏宮当主の覚え書きです」


十月二十二日

 これを拾う。持ち主不明。昨日から谷ノ口付近にて不穏な気配あり。


十一月三日

 ふもとの村および町で十月に入り騒ぎあり。関連を調べさせる。


十一月十二日

 結界術師伊東屋右玄、行方不明。の者の記録であると推察す。鬼斬、座敷わらしの行方、同じく不明。



「百年前、いったい何があったんですか」

 座敷わらしに圭が尋ねた。彼女は小さい肩をきゅっとさらに小さくすぼめ、日記を抱きしめた。

「……恐ろしい異能の者が村に現れたのだ」

「鬼斬という人間のことですね。うちの姫ちゃん……、伊万里も言っていました。鬼さえも食われてしまうという恐ろしい人間の話を子供の頃よく聞かされたと」

「あれはもう、人間ではない。あやかしですらない。闇の淵に住まう、禍々まがまがしい存在」

 座敷わらしがうめくように言った。

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