6)解ける境界
解ける境界(1)
圭と伊万里は総次郎が良く使っていた縁側の部屋で話をすることにした。
「千尋が圭にひどいことを言ってしまったと、とても落ち込んでしまっていて」
部屋に入って座るなり、伊万里が話を切り出した。手にはハンカチ、何かが包まれているようだった。圭が彼女に向かい合って座る。
「いや、俺が謝らなくちゃいけなくて……。千尋が学校を休んだって、壬から聞いた。すごく……傷つけた」
「では、千尋に会いに行ってあげてくださいませ。お二人が喧嘩をしていると、私も壬も落ち着きません」
「ごめん。出かける前だっていうのに心配かけちゃって」
圭が神妙な様子で目を伏せがちにして謝ると、伊万里が小さく苦笑した。しかし彼女はすぐさま真顔に戻り、「それともう一つ、」と言葉を続けた。
「わらし様の件でお伝えしたいことが。千尋が、圭の体に黒い汚れのようなものが付いていたと話しておりました。モモさんが触ったところにだそうです。自分だけ見えることが嫌だったようで、言い出せなかったらしく……」
「うん。壬ともその話をしていたところ。姫ちゃんはどう思う?」
「はい。おそらく、モモさんに蛇が憑いているのではないかと」
「……蛇、か」
圭が口をキュッと結んで考え込む。ややして、彼は顔を上げた。
「その蛇、もとはわらし様の守役だよね。できれば助けたい」
「わらし様だけでなく、蛇もですか?」
「うん。実は
「日記とは?」
伊万里が首を傾げて聞き返す。圭は小さく頷いた。
圭は、いったん部屋に戻って護から借りた
「壬にはもう見せれそうにないけど……。右玄の死ぬ直前までのことが記してある」
そう言いながら、圭は日記の内容を簡単に彼女に話した。
伊万里が日記をぱらぱらとめくりながら圭の話に何度も頷く。そして、最期のページを読んだとき、彼女は驚いた様子でゆっくりと顔を上げた。
「……最期と言うから成人までの記録なのかと思ったら、右玄はまだ子供ではないですか」
「うん。あまり記録が残っていないのも、逸話が子供の頃のものばかりなのも、きっとそのせい。十月二十一日、この日が最後の日記だ。次の日、日記は谷ノ口あたりで発見され、彼は行方不明になっていると、別の人物──、つまり、この日記をこの家に持ち帰った当時の伏宮当主によって追記されている。この時の右玄の歳は、読んでの通り十一」
「この内容が本当ならば、谷にまだ他の記録が残ってはいないのですか?」
驚く伊万里に圭は頭を小さく振った。
「そのことは父さんにも聞いたけど、何も残っていないって。この日記にしたって、本人の名前が書いてあるわけじゃない。ただ、書かれてある内容を見て、右玄のものだろうって、それだけ」
そして彼は、伏し目がちに付け加えた。
「わらし様のこと、とても大切に思っていたんじゃないかな。たぶん、子供ごころに好きだったんだと思う」
伊万里が小さく息をつきながら静かに日記を閉じた。そして圭を見て微笑んだ。
「あやかしと人間など、まるで圭と千尋のようですね」
「そう、だね」
圭も小さく笑った。そして彼は複雑な面持ちで続けた。
「このまま行くと、俺はわらし様のように残されてしまうかな。一人だけ年齢を重ねていく千尋はもっと辛いかな。そもそも──、今さらだけど、実際に千尋を伏宮の家に入れることができるのかどうかも分からないし。じゃあ、俺が谷を出て行けばいいのかもしれないけど、それって無責任すぎるし、」
「実は、千尋から預かったものが」
伊万里が日記を傍らに置いて、持っていたハンカチを広げた。中からきらりと光る水の入った小瓶が出てきた。
圭が少し戸惑った様子でそれを見た。
「これは?」
「
「千尋が?」
「はい。圭の役に少しでも立てばと。これで、かの蛇にこびり付いた穢れを祓うことができると思います」
伊万里は小瓶を圭に渡した。そして、彼女は言葉を続けた。
「千尋は、圭のそばにずっといたいと、そう思っています。彼女の居場所は、昔も今も圭の隣しかないのでは? だって、それを何よりも望んで、そうなるように仕向けたのは、圭、あなた自身でしょう?」
手の平の小瓶の中で清らかな水がゆらゆらと揺れる。千尋の思いが伝わってくる。
「うん、そうだね。その通りだ。ものすごいわがままを押し通すことになるんだろうけど……」
すると伊万里がにっこり笑った。
「人の思いは、すべてわがままにございます。ならば、いっそのこと開き直ってまるっと押し通しなさいませ」
「ありがと、姫ちゃん」
彼は小瓶をぎゅっと握りしめた。
もう大丈夫。覚悟ができた。
「明日、わらし様に会ってくる。千尋のこともちゃんとする」
圭が伊万里に対し宣言するような口調で言った。その目は力強く何かを見据え、その口元は少し嬉しそうだった。
そしてその夜、壬と伊万里が篠平に向けて旅立った。
ちょうど日付が変わる頃、そろそろ出かける時間だと壬と伊万里を呼ぶあさ美の声を聞いて、圭は二人を見送りに出た。すると玄関前に、平安貴族が乗っていたような雅びな車が鎮座していた。
大きな二つの車輪に、
「これは……すごいね。牛だ」
「うん、牛だな」
思わず目を丸くする圭の隣で壬も同じように目を丸くしている。
「
伊万里がさらりと答えた。
「歴史の教科書でしか見たことがない。てか、なんで牛? 着くまでに何日かかるんだよ」
壬は青色の綿シャツに薄いグレーのチノパンで、いつもよりきちんとした服装だ。
伊万里がそんな壬に対し平然と答えた。
「朝までには着くのでは?」
壬が「いやいやいや」と牛を指さす。
「おい、これ牛だぞ、牛!」
「はい。何か問題でも?」
そう答えながら、伊万里は少し不満そうに口を尖らせた。
「私は飛行機に乗ってみたかったです」
すると、あさ美が「やあねえ」と笑った。
「空を飛んでいくのだから、牛も飛行機もそう変わらないわよ、イマちゃん」
「そうですが、あの鉄の塊に乗りたかったのです」
「……おまえら、会話が微妙におかしいぞ。牛は普通、空を飛ばねえ」
伊万里とあさ美が呆れた様子で壬を見る。
「壬、なぜそのように普通にこだわり、枠にはまるのです?」
「ほんと、わが子ながら小さいわあ」
「悪かったなあ、枠にはまった小さい奴で!」
壬が歯ぎしりしながら二人を睨む。あさ美がやれやれと笑いながら二人を追い立てた。
「さあ、いいから。乗った乗った!」
言って彼女は荷物を車の中に放り込む。そして乗り込もうとする二人に圭が歩み寄った。
「姫ちゃん、壬がめちゃくちゃしないよう頼むね」
「はい、任せてください」
「あと、」
圭はすっと伊万里に顔を寄せると、耳元で囁いた。
「壬に色じかけで迫っちゃえ。絶対にイチコロだから」
「ええっ?!」
伊万里が顔を真っ赤にする。そして彼女は、ちらりと壬を見てから逃げるように車の中に乗り込んだ。
「おい、何を言った?」
壬が怪訝な顔で伊万里の姿を目で追った。圭は軽く笑い返した。
「別に。壬と仲良くねって」
「嘘つけ」
「それより、父さんが来ないな。もう出るって言うのに」
「ああ、大丈夫。さっき話したし」
壬が言った。そして彼は、圭を真っすぐ見た。
「圭、わらし様のこと頼む。あと、大橋のことも。もしものことがあったら木戸に合わせる顔がない」
「壬も──、何が待っているか分からないから無茶するなよ」
壬が口の端に笑みを浮かべる。
その笑みが「分かった」という意味なのか、「心配するな」という意味なのか、それとも別の何かなのか、にわかに圭には分からなかった。
しかし壬はそれ以上は何も言わずに車へと乗り込んだ。
牛がぶるんと顔を振るわせてゆっくりと歩き始める。刹那、車全体がふわりと宙に浮かんだ。
二人を乗せた網代車が牛の歩みに合わせて一気に空へと舞い上がる。そしてそれは西に向かって方向を変えると、滑るように夜空の中を進み始めた。
「やっぱり……、牛は遅いわね。大丈夫かしら?」
ゆっくりと消えていく網代車を見ながら、隣であさ美が少し心配そうに呟いた。
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