2)誰ぞ呼ぶ声

誰ぞ呼ぶ声(1)

 次の日、壬の部屋をいつも通り圭がノックをすると返事がなかった。圭はさらに大きめにノックをした。

「壬っ、遅れるよ」

「分かってるよ!」

 はっきりとした、それでいて不機嫌そうな壬の声が返ってきた。夕べの「伊万里のパンツ、ダメ出し」事件は、あれから護やあさ美まで出てくる騒ぎにまで発展し、壬は彼女の部屋を出入り禁止になった。最後は、あのデカパンツを買い与えたあさ美と、ババアパンツだと主張する壬で親子喧嘩になっていた。

 台所に行くと、疲れきった様子の伊万里が果物を精気なく切っている。今日は、機嫌のチェックもくそもない。見たまんまだ。好きな男に下着を見られた挙げ句に、ダメ出しを食らったダメージは計り知れない。

「おはよう、姫ちゃん」

「ああ、圭。おはようございます」

 伊万里がぱっと表情を切り替えて笑顔を返す。そのあたりは、嫁としてそつがない。本当に壬にはもったいない女の子だと圭は思う。一方で、だからこそ壬にはぴったりの女の子だとも。

 しばらくして、壬が気まずそうに入ってきた。

「おはよ……」

 彼は言葉少なにテーブルに座った。

 いつもなら笑顔で挨拶する伊万里は、無言のままコーヒーとトーストをテーブルに置いた。

 壬が「いつまで怒ってんだよ」とぼそりと呟き、不機嫌そうにパンをかじる。あさ美はそんな二人の様子を見ていられないのか、すっと無言で台所を出て行った。

(何これ? リアル夫婦喧嘩??)

 まるで将来の二人の姿を見ているようだ。圭はぞっとしながら、さすがにやり過ぎたと反省した。そもそもの発端は、自分が壬をけしかけたからだ。

 彼は少しでも場を和ませようと、伊万里に話しかけた。

「そうだ。ねえ、姫ちゃん。姫ちゃんも空間を切り離したって聞いたんだけど」

 伊万里が自身もテーブルに座りながら「ええ」と頷き返した。

「結界と同じ原理です」

「あれ、結界なの?」

「うーん、ちょっと違いますが──」

 伊万里が朝食を食べながら簡単に空間切断の原理を話し始めた。

 結界とは空間と空間に境界を結ぶことで、日常的に大なり小なり誰でもしている行為だという。言ってしまえば、玄関も家の外と内を分ける結界の一つらしい。

「つまり、ここからこっちと、あっちとでは違いますよっていう線引きをする行為なので、これをそのまま応用すれば空間を切り離すことができます」

「……ふーん」

 分かったような分からないような。が、なんとなくイメージはついた。

 圭は伊万里に言った。

「結界を張れるようになれば、出来るってことか。俺にも教えて欲しい。できると便利そうだし」

「私で良ければ基本的なことなら。それに、ちょうどよかったです」

 伊万里が答えた。

「次郎さまには怒られそうですが、私もお手伝いをしたいと思っていたところです。お務めはかなりの負担となりますので」

「そっか。じゃあ、週末からでもいいかな」

「もちろん。あっ、それと」

 伊万里がはっと思い出したように言った。

「昨日、森カフェで木戸さんとモモさんに会ったのですが、木戸さんが私たちに相談にのって欲しいことがあると」

「木戸が?」

「はい。なんでもモモさんの家を見て欲しいと。詳しいことは、学校でとのことなので、きっと私たちに会いに来ると思います。わざわざ私たちに相談ということなので、おそらく物の怪の類いの話ではないかと」

「分かったよ。木戸なら気兼ねなく話せるし。なあ、壬」

 圭はあえて壬に話しかけた。

 そろそろ機嫌を直して欲しい。一緒にいるこっちまで息が詰まりそうだ。

 しかし、壬はそっけなく頷き返すだけだった。伊万里がつまらなさそうに立ち上がり、流し台の後片付けを始める。

(まったく──。世話の焼ける)

 圭は残りのコーヒーを一気に飲み干した。そして、まだ不機嫌そうな壬にそっと耳打ちした。

「ほら、二人きりにしてやるから、仲直りしろよ」

「ん」

 壬がうるさそうに口を尖らせる。

「じゃあ、いつもの時間に出るからね」

 圭はそう言って立ち上がった。同時に壬も立ち上がる。

 去り際、圭はちらりと二人の様子を窺った。すると、背後から伊万里の顔を覗き込んで声をかける壬の姿が見えた。


 あれだけ険悪だった二人だが、家を出る頃には伊万里の機嫌もほぼ回復していた。圭はほっとしながら壬に尋ねた。

「何したの?」

「別に。謝っただけ」

「ふーん」

 伊万里のうって変わった機嫌の良さから、謝罪以外にも何かした気がする。しかし、圭はしつこく聞かないことにした。

 御前みさきのバス停に着くと、千尋がすでに待っていた。圭の気持ちがふわっと嬉しくなる。

「千尋、おはよう」

「圭ちゃん、おはよう。あっ、イマ!」

 しかし、千尋は伊万里の姿を見ると、圭をそっちのけでぱっと彼女に駆け寄った。

「ね、昨日のことなんだけど……」

 言いながら千尋は伊万里を引っ張り、圭や壬と距離を取る。伊万里は伊万里で千尋に抱きついた。

「千尋っ、聞いてください──!!」

 そして、二人は男子からさらに距離を取って小声で話し始めた。

 それを見て、壬が身震いする真似をした。

「やだやだ、感じわりぃっ! 女はこれだから……」

 一瞬、千尋たちがぴたりと話すのをやめ壬を見る。しかし、彼女たちはそれをなかったことにして、再び話し始めた。

 壬があきれ顔で鼻を鳴らす。そして小声で圭に言った。

「きっと昨日のパンツ事件を話してんだぜ」

「壬、本当に斬られるよ?」

 圭が忠告する。それで壬もむすっと押し黙った。

 この調子だと、今日はバスでも千尋と話せそうにない。圭はほんの少しつまらない気持ちになった。


 その日の昼休み、木戸が一人で圭たちの教室にやって来た。そして、教室でする話ではないからと、圭たちは屋上で話をすることになった。

「モモさんには何か言ってきたんですか?」

 伊万里が木戸に尋ねた。屋上の適当な場所に、木戸を囲んで四人が座り込む。

「いいえ。皆さんの事情を大橋は知らないので、まだ何も言っていません。とりあえず、相談してからと思って」

「で、相談したいことってなんだ?」

 壬がさっそく本題に入る。木戸が軽く頷き返した。

「はい。大橋が家で女の子の声が聞こえたと、ひどく怖がって──」

「女の子の声?」

 四人は顔を見合わせた。

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