最終章 体育祭当日 ~後編~
1 未来人
「またあったね」
中庭を北に抜けようとした日向の前に、新井新太が立っていた。
体勢にはやる気が見られない。直立こそしているものの、喫煙室で一服するリーマンのようなくつろぎっぷりだ。
足を止めた日向が、すたすたと近寄っていく。
「全員停止。ここからは僕一人でいい」
新太が告げると、ぴたりと背後の足音が止まった。
「まだ遊び足りないなら京介君のところを守備してくれ」
その有無を言わせない命令の後、どかっと尻餅をつく音が二つ。音源から見て春子と誠司だろう。
唯一耐えているであろう琢磨もギリギリらしく、爽やかな普段とは似つかない息切れがここまで届く。
「そんなことしたら逃げられないじゃないですか」
日向がどこかおどけたように言うと、新太はにたりと笑い、イヤホンを手のひらで覆い隠した。
「白々しいな。嘘ばっかり」
突然小さくなった新太の声。日向だけに届くよう、器用にコントロールされている。
メディアへの露出にも慣れた新太なら造作も無いことなのだろう。
「嘘じゃないですよ。今、だいぶピンチです」
「普通ならね。でも君は違う。君は自然環境の踏破に優れたトレーサーだ。こんなバリケードなど突破できるだろう?」
日向が隠したかった能力の一つが、突き付けられている。
新太には既に屋上への出入りも見られているし、以前は真剣勝負をした仲でもある。
もはやこの人には通じまい。
「あえて逃げなかったのはなぜだい?」
無論、撮り師としての活動経路を知られないためであったが、「わかりませんか」日向は回答の代わりに戦意で応える。
「このためですよ」
「いいね」
新太はイヤホンを包んでいた手を下ろすと、体勢を落としてきた。
構えだけじゃない。
風船に針を刺したかのように、あらゆる感情が抜けていくのを錯覚する。
間もなく最後に残ったのは一つ――
ただただ冷静で、平静で、そしてリラックスしきった
緊張という概念とは無縁のそれが、透明感溢れる重圧を放っていた。
「いつでもどうぞ」
自らの意思で
「どうも」
日向も同様の没頭に入ってみせた。
一挙手一投足がわかる。
視覚的にも、聴覚的にも、そして嗅覚的にも触覚的にも。
気配とは何か。
日向はその正体に結論を出している。
気配とは微細な臭いと空気振動である。それを無自覚の嗅覚と触覚で感じた時、気配を感じる。
人間は誰しも鋭敏な感覚を持っているが、現代社会の安住と現代文明の刺激がこれを鈍らせる。現代人が自覚するのはもはや容易いことではない。
それを自覚するための、現実的な手段の一つが超集中だ。
超集中により、鈍っていた感覚を極限まで引き出すことができる。
動物や虫のような鋭敏を手に入れる、というより思い出すことができる。
(この万能感。やはり気持ち良い)
そんな持論を持つ日向は今、周囲のすべてを掌握していた。
後方で果てている雑魚達。
一般棟三階から覗いている女生徒に、特別棟四階から見下ろしている教員。
正門近くで発進し始めている車。
敷地外から響く虫の泣き声の密度に、屋上から食い入るように見つめている二人のトレーサー――
この状態は疲れる。とても疲れる。
だからこそ動物は短命なのだとさえ思う。
目の前の獣もきっとそうなのだろう。
日向は早速仕掛けた。
逆走――新太とは反対方向に走る。
新太も既に動き出している。素人目には同時にしか見えない反応速度だった。
(0.1秒の壁を破ったか。化け物だな)
自分のことは棚に上げて、日向は
「いつでもどうぞ」
眼下の兄がそう言ったのを、沙弥香は特別棟側の屋上から聞いていた。
隣には祐理もいて、二人並んで寝そべっている格好。
「楽しそう……」
「――?」
沙弥香の呟きに、祐理が首を傾げる。
「あんなお兄ちゃんは見たことない。やっぱりあの時――」
その食い入るような横顔には、祐理の入る余地など無さそうだった。
彼女は数ヶ月前の――大阪パルクール練習会を思い出しているのだろうか。
――天下のトレーサーが人払いしてまで新技の練習をしてたんだぞ。
あの時、日向はそう弁明していたが、祐理は真実を知っている。
あの時、日向と新太は真剣勝負を行った。そうする予定だと聞かされていた。
勝負は日向が勝った。いや、新太が大敗を
だからこそ新太は天下一らしからぬ消沈を見せていたのだ。
当時居合わせた沙弥香やリイサには信じられないだろうが、祐理にとっては珍しいことでもなかった。施設時代、新太がパルクール講師として来ていた時から、日向は彼を打ち負かすことがあったのだから。
「睨み合っているわね。心理戦かしら。さっぱりわからないわ」
新太も日向も、時が止まったかのごとく微動だにしない。
しかし確かな存在感がぴりぴりと漂っている。
日向はまるで警戒する鹿だ。捕捉できる気がしない。
新太はまるで威嚇する熊だ。振り切れる気がしない。
「わたしも――」
あんな日向は見たことない、という言葉を飲み込む。
素直に鑑賞できたら嬉しかったのに。
純粋に勝負できたら楽しかったのに。
あれは、ただの
日向が勝てば、パンドラの箱には二度と辿り着けないだろう。
新太が勝てば、パンドラの箱が開かれてしまうだろう。
祐理は視線を日向の後方に向けた。
佐久間琢磨。普段はハイスペックだの超人だのと呼ばれている彼が、見る影もなく消耗している。爽やかで、飛び抜けて端麗で、しかし底が見せず、貼り付けたような仮面を被っていたその顔が、落胆と諦観を抱えている。
「だよね。わたしもそんなのは望んでないもん……」
屋上で日向を追い詰めた時の、琢磨のらしからぬ訴えを思い出す。
祐理も感じていることだった。いや、覚悟していたことだった。
どちらに転ぼうとも、もう――。
日向との関係は戻ってこない。
ならばせめて。
「勝って、新太さん。――わたしは、箱の中を見届けたい」
動きがあったのは、それから数秒のことだった。
コマ送りのように日向が動いていた。
新太も追いかけていた。
同じ人間とは思えない初速に、間もなく同次元の加速が乗せられる。
二人の向かう先は校舎だった。
「
ウォールランは通常、正面から壁に向かっていく助走をする。
しかし真上から見た角度は鋭角だった。あれではまともに壁を蹴れないだろう。
「ううん、一階の窓かもしれない」
祐理は窓を
「まさか突き破――」
「え――」
グンッと。日向の走る軌道が曲がるのを見て、祐理と沙弥香は同時に言葉を失った。
まるで線を引いているかのような鋭さと滑らかさ。
「あれだ……」
イヤホンからの意味深な呟き。それが春子の声だと祐理はかろうじて認識したが、以後の理解を放棄する。
目が離せなかった。
続く新太も寸分違わないタイミングで曲がっていた。強烈な踏み込みの音が響く中、日向は既に外壁に迫っており――一歩目をぶちこむ。
暴力的な打音とともに、ふわっと日向が浮いた。
身体だけではない。次に踏み出す足がサッカーボールを蹴るかのように引かれており、それも叩き込まれた。
壁を壊しかねない蹴りだ。環境は尊重すると豪語している日向らしくない。
そんな日向の身体は、既に二階を超えている。
「何それ……」
祐理が一度も見たことがない
その事実が何を意味するかは明白だった。
日向は瞬発力にはさほど優れない――長年彼を見てきた祐理の、そんな認識が、一瞬で崩れ去った。
日向は隠していたのだ。
最も近しい自分にさえ、ただの一度も見られないように。
その意味するところは祐理にはわからない。
それでも一つだけは明らかで――
目の前の光景は、どう考えても
沙弥香は。
琢磨は、誠司は、春子は。
これが歴史的瞬間であると理解しているのだろうか。
なるほどたしかに、そんな代物を人目に触れさせるわけにはいかない。
「はぁ!?」
視界の隅に沙弥香の横顔が映った。あまりの驚きに顔を突き出したのだろう。
危ないよ、と忠告することさえ放棄して、祐理は彼から視線を離さない。
三階。
計四歩を経て日向が到達した高さだった。
その手は既に窓の
浮遊感の慣性を残す日向が、ヴォルトのように身体を窓に叩き込む。窓ガラスごと破ることを錯覚したが、置いた手を素早く動かしたらしい。窓は既に開かれている。
思い出したかのように開閉音が響いてきた。
「お兄ちゃん!」
発言が追いついていない。沙弥香がそう叫んだ頃には、新太も既に窓を飛び越えていた。
日向と全く同じルートを、全く同じ動きで
窓越しに見える二人の残像は、間もなく見えなくなった。
「し、信じられない……まるで互角、じゃないの……」
身を乗り出したまま放心する沙弥香を、祐理は引き戻した。
「お兄ちゃん、ガチだったわ。いえそれ以上の……あんなの、初めて見た……」
祐理と目を合わさず、どころか焦点の合ってない眼差しのまま、沙弥香が口を動かす。
「アイツの動きと全く同じだった。あれがあの場の最適解――」
「……」
一般的に逃走における
まして今は競技――動き方をコントロールされた人工フィールド上での対戦でないのだ。
選択肢はそれこそ無限と言えた。
「あんなの、どうしろって言うのよ……」
祐理は独り言ちる沙弥香から視線を外し、対面――一般棟の校舎を眺めた。
開いている窓は、日向と新太が突破した部分だけだった。
そこが唯一の活路であることを、日向は見抜いていたのだ。
瞬発力の化け物である新太を前に、普通に逃げても瞬殺されるだけだ。日向としては技術と空間認識で勝負できるよう、障害物を経由するルートを選び、通るしかない。
たった一つの正解を、あれだけの間に見つけ出したのである。信じられない観察力だった。
日向だけじゃない。
新太もまた、日向がそのルートを選ぶことを見抜いていた。
さすがは国内随一のトレーサーであり、世界レベルの競技プレイヤーだ。
「……タイムスリップみたい」
まるで未来からやってきた未来人である、と。
祐理はそんな思考停止をすることしかできなかった。
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