2 アンカー

 午前九時前。

 春高体育祭では最初の競技『クラス対抗リレー』が始まろうとしていた。


 グラウンドには700を超える全校生徒が一堂に介している。

 レーンは一本。実質無いに等しいレーンレス

 ここに各チームが各学年単位で並び、計18の列が形成されていた。


 二年A組の先頭走者は祐理こと一ノ瀬祐理だ。

 他の走者がいかにも速そうな男子で固められている中、紅一点であり、生徒から観客まで注目を一手に引き受けている。


 祐理の次には沙弥香、誠司、琢磨と運動神経のトップクラスが続く。

 A組チームの作戦は単純で、序盤のうちにリードしてレーン内側をキープするというもの。


(俺だけアンカーか)


 日向は最後尾で待機していた。

 走力だけでなく状況判断も優れているとのことで、内側をキープしているとは限らない終盤での挽回を期待されているのだが、無論、そんなことはどうでも良かった。


 ぱん、と発砲音が鳴り響く。

 慌ただしい足音に、巻き起こる砂煙すなけむり――。

 しかし日向の視線は走者ではなく、あちこちに散っていた。

 不確定要素イレギュラーを検出するためだ。

 既に日向は今日の盗撮作戦を念入りに仕上げているが、いつどこに何の不確定要素が紛れ込んでいるかはわからない。これに対処するため、観察を繰り返して違和感を探すのだ。


 ふと校舎を見上げた時だった。

 四階、二年生フロアの一室に人影が三つ。その一人と目が合った。隣の学園長と施設長は走者を見ているが、彼だけは目もくれず、不審者をマークするSPのように日向を照準しているようだった。


(新太さん……)


 サングラスで軽く変装されていたが、その立ち方ですぐにわかる。

 その新太にはジェスチャーもなければ外面の笑みさえも浮かんでいない。


 どっと歓声が湧く。

 見ると、琢磨が集団から数歩以上、躍り出ていた。スポーツテスト元一位に加え、学力から容姿まで万能な校内の有名人は伊達ではなく、器用を突き詰めるとこうなるというフォームをしている。


 それからも日向は周囲の観察を続けるが、不確定要素は見当たらなかった。


 手持ち無沙汰になった日向は、とりあえず女子の観察に充てることに。

 もっとも被写体の選定など既に済ませているが、すべての女子を調べ尽くしたわけではない。少しでも琴線に触れる要素があれば、乗り換えるべきである。

 少しでも盗撮動画の品質を上げるために。


(……やはりコイツは違うな)


 日向の視線、その先には祐理。姿勢の良い体育座りで、同じく走り終えた他学年の男子と雑談しつつ、応援に熱を入れているようだ。


 座っていても分かる、突出したプロポーション。

 そうだと期待させる、艶めかしい背面と側面。

 振りまかれる陽気と快活。

 そんな男殺しにつられる待機中の男子、他学年の男子、来客の男性――


 を被写体にすれば間違いは無い。

 特別な状況が無くとも、その多数派を刺激する圧倒的魅力だけで勝負できる。むしろ撮り師の撮り方には状況から作り出されるフェチシチュエーショナブルフェティシズムが介在しない分、品質はほぼ身体――特に胸という物理的要因で決まる。

 祐理のスタイルは、その観点で言えば間違いなくトップクラスだった。被写体にしない撮り師などいないだろう。


 祐理がこちらを向いた。一瞬で捉えられたと日向は感じた。

 手を振られる。

 日向は軽く挙げることで応えた後、目を逸らす。


(乗り換えは、しない)


 祐理だけは撮らないと決めている。

 少なくない時間を共に過ごしてきた唯一の女子――たった一人の幼なじみであり、妹のような家族なのだから。


 そんな存在をその他と同列に扱ってしまうことに、日向は不吉な臭いを感じている。

 そもそも日向はさして精神異常者でもない。特に祐理に対しては多少ではあるものの、迷いや躊躇いも感じるし、罪悪感や憐憫も抱く。


 この大勝負の舞台においても、日向は一線を越えようとは思わなかった。そんな自分に胸中で安堵し、直後、既に志乃と沙弥香を盗撮していることを思い出して苦笑した。


 そうこうしていると、


「渡会、頼むぞ」


 前で待機する男子の声。リハーサルの時に何度か話した程度の存在だ。


 日向は顔を向けつつ、一応返事を考えようとしたが、彼は既にレーンに向かっていた。

 よく見ると緊張が見て取れる。


 一方で、日向には緊張のきの字も無い。元々プレッシャーに無頓着なのに加え、昔から失敗すると死ぬ動きリーサルで遊び続けている日向にとって、この程度は負担にもならない。


 間もなく日向の順が回ってくる。


 前の走者が発射した。

 この時点で順位は三位。二位とは僅差で、一位とは50メートル以上引き離されている。


「頼んだぞ渡会!」

「一位取れよ!」

「渡会君ならできるよ」


 レーンに向かう日向の背中に、走り終えたA組メンバーからの期待が刺さる。


「……くくっ」


 日向はもう一度苦笑いを浮かべた。

 期待という名の矢は一ミリも響いてこない。まるで背中に背負った鉄盾に当たって弾かれているかのようだ。


 一位の走者が近づいてきた。日向の目前で、アンカーにバトンが渡される。洗練された受け渡しだ。

 走り出した走者には目を向けず、後続を目で追うと、A組は三位。二位とは数メートル差という僅差のままだ。


 両者が並ぶ。

 並んだまま近づいてきて、ほぼ同時にバトンが伸ばされる。


 先に届いたのは、接戦しているB組のバトン。

 しかし、先に握ったのは日向だった。


「え……」


 バトンを男子が一瞬、ぽかんとしているのを見た日向は、構わずスタートダッシュする。

 応援がヒートアップする中、三位との差を広げていく。


 アンカーは200メートル走ることになっているが、一位とは60メートルほど離れている。遠い背中を眺めながら、日向は内心で呟く。


 


 それでもペースは上げなかった。

 追いつくのはやりすぎだ。今は新太も見ている。新太だけでなく陸上部も。


「ひなたっ! いっけー!」


 最も聞き慣れた同居人の声だ。声量も誰よりも大きい。

 振り向きそうになったが、あえて無視をする。本気を出している風を装いたかった。


 半周を過ぎた頃には、場の空気が変わっていた。

 もう順位はひっくり返らない。


 あとは演技を維持したまま二着を切るのみ――

 そんな一段落がついたところだった。


「ざけんじゃねーよてめえ!」


 久しく聞いてなかった怒号。

 しかし、すぐに思い出す。

 当然だ。負かす度に聞かされていたのだから。


「そんなもんじゃねーだろ!」


 三熊・リー・京介。

 施設において最も手強かった存在であり、日向が唯一、一対一タイマンで退屈しなかった相手だ。


 今も鍛え続けていると聞いている。

 どんな変貌を遂げているのだろうか。


 女子の体操服とは比べものにならない興味と好奇が湧き上がってくる。

 確認するのは簡単だ。のだから。しかし――


「……我慢だ」


 日向はこらえた。


 二位でフィニッシュした。

 大きな歓声と拍手を投げられ、押しかけてきたA組の男子達に物理的に包まれる。


「速かったぜ!」

「惜しかったなー」

「あらヤダ、イイカラダしてるじゃないの」

「やめてください」


 最後のふざけた絡み方に呼応して、日向はボディタッチを拒絶するも、彼らの笑顔は消えない。

 態度は悪く無愛想だが、実力は確か――日向はそんなキャラクターに落ち着いていた。


「なんで二位なのよ。抜きなさいよ」

「渡会君も大したことあらへんなー」


 沙弥香と誠司もわざわざ来てくれたようだが、カーストトップの二人が来ても周囲には遠慮や緊張の二文字がない。どころか気さくに雑談しているまである。


 体育祭の絆か、熱か。やはり学校行事は違うんだなと日向が思っていると、「ひっなたー、おっつかれー!」祐理がタックルのように駆け寄ってきたので、これを回避する。

 ついでに、先ほど京介がいたはずの位置に目をやった。


 京介は見当たらなかったが、女子が二人ほどいた。

 一人は発育の良い大和撫子という印象で、笑顔でこちらに手を振っている。その隣には、前髪で片目が塞がっている女子。無表情だが、真似をして手を振ってきた。


「どったの日向?」


 日向は見なかったことにして、祐理に応える。


「相変わらず人が多い、とうんざりしてただけだ」

「あやしい」

「なんでだよ」

「そうね。そういうタイプじゃないくせに」


 祐理と沙弥香から同時にジト目を向けられる。


「あ、施設長パパが来てるから緊張してるんだ?」

「うるさい」


 たとえ嘘でも認めるのは癪だったが、あえて乗っかることにした日向だった。

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