第3章 水面下の攻防
1 作戦会議1
ジャージに着替えた日向は、早歩きでリビングを通り過ぎながら、一応祐理に一言かけておく。
「行ってくる」
「いってらっしゃーい」
どこに、と志乃や沙弥香が発言する暇も与えず、日向は家を出た。
早速ランニング――ジョギングのペースでは断じてない――を開始し、春日野町を疾走する。
途中、知り合いの親子から挨拶されたので、微笑と会釈を返した。会話に至ることはない。日向のオーラとペースは、談笑が始まるほど穏やかではない。
目的地たる展望公園に着いた。
ここは山を切り拓かれてつくられた、春日野町の最も高い位置にある公園で、その名のとおり眺望の良さがウリとなっている。
しかし坂と階段が多く、涼しい季節でもなければ、日中の滞在者は片手で数えられるほどだ。
広場には一組のみ。ウォーキングウェアを身にまとった老夫婦が、景色を見ながらくつろいでいる。
日向は広場をスルーし、さらに階段を上がる。
間もなく、春日野町の最高点『天空の角』に到着した。
「さて、と」
周囲に誰もいないことを耳と目で確認した後、柵を乗り越えた。
草木の点在した山肌を、足だけで軽快に上がっていく。
天空の角から見えなくなるまでおよそ三十メートル。日向なら二十秒もあれば通過できる。
そして、二十秒以内に誰かが来ることなどありえないということは、ここまでの観察結果からわかっている。
つまり誰かに見られることはない。
三十メートルを超えた先は、急激に緑の密度が増す。
木枝の網が行く手を阻んだ。山菜採りを生業とする者でも通ろうとしない、道無き道であるが、日向にとっては庭も同然だった。
事前に開拓していた通り道をくぐりつつ、新たに伸びている枝は取り除く。
かぶれる植物は迂回し、刺される虫にも触らない。
傍から見れば、ただ野性的な人間ががむしゃらに突っ込んでいるようにしか見えないが、これは日向だからこそ成せる業だ。
地面の微細な起伏、細い枝の一本、豆粒以下の虫――
周囲の空間の、その大半を把握する所業。
視野。
反射神経。
動体視力。
空間認識。
記憶力。
取捨選択の要領と勘――
幼少期から鍛えられたそれらを、軽々と総動員する。
さらに数十メートルほど進んだ先に、平坦で拓けた地形があった。
地面は岩でごつごつしている。春日野町を支える山は、このような岩肌が多い。岩であるがゆえに緑の脅威も小さく、食料と寝袋を持ち込めば一泊さえも可能だ。
日向はこれを『別荘』と呼んでいる。
別荘は、春日野町周辺だけも三十は存在する。
「ちょっと負荷が足りんな。あっちに行くべきだったか……まあいい」
どかっと腰を下ろした日向はスマホを取り出し、盗撮動画販売サイト『カミノメ』にログインする。
電波は良好。無論、ただのキャリアで繋がるはずもなく、佐藤のおかげである。
日向がここ別荘に来た理由は単純だった。
「直近の行動計画を立てるか」
考え事に集中するためだ。
日向は優れた
当然ながら集中という概念にも造形が深く、ノイズがいかに害悪であるかもわかっている。
今までは自宅で集中できていたが、今は祐理がいた。
かといって嘆いていても仕方がない。幸いにも日向にとっては、このような武者修行で自らを鍛え追い込むことは生き甲斐のようなものだ。
つまり別荘への訪問は、鍛錬と快楽も兼ねた一石二鳥、いや一石三鳥の有益な活動だった。
「……は?」
画面を見た日向が思わず漏らす。
もう一度画面を見る。
通知欄の、いつもより桁数が二桁多い数字を、まじまじと見つめる。
日向は人気の撮り師であり、コメントや高評価が来ることは珍しくないが、通知設定はかなり厳しくしてある。平均すれば一日数件以下だ。
それが今は百を超えている。
原因は一つしか考えられない。
「バズってやがる」
◆ ◆ ◆
日向の家に残った三人は軽くくつろいだ後、祐理の仕切りで『日向調べ隊』の話題へと移っていく。
「どう思った?」
塵の見当たらないフローリング上であぐらをかく祐理が二人に問う。
下校時に日向が語った大望についてだ。
志乃は椅子の上で正座しており、湯飲みに注がれたお茶を一口飲む。
対称的に沙弥香はトレーニングの疲労が抜けずに、ソファー上で仰向けになってばてている。祐理のタイトな部屋着を着ており、平均よりは大きな膨らみが少しばかりの主張を見せていた。
志乃は湯飲みを置いて、
「マニアックな話は正直ついていけませんでしたが、日向くんらしくない気がします」
「そう? いかにもオタクトレーサーって感じじゃない。何考えてるか知らないけど、大成はしないと思うわ」
見解が割れた後、沙弥香がソファーから落ちる。さすがトレーサーだけあって、お手本のような受身を取った。
沙弥香はそのまま地面を転がり、祐理のそばにまで来て、その素足をつんつんとつく。
祐理も応酬して、じゃれあい始めた。
「アンタはどう思ってんのよ? 欲求不満なんでしょ?」
「そうなんだよねぃ。不満すぎて困っちゃう」
「胸は揉むな」
「どけちー」
祐理はにやにやしていたが、ふと手を止める。
「――ううん。それだけじゃないかな。正直言うとね、ちょっと怖いんだ」
「……怖い?」
沙弥香はピンと来ないらしく、寝転びながら器用に腕を組んで首を傾げた。
「うん。沙弥香ちゃんのオタクっぽいってのもそうだと思うし、志乃ちゃんの日向らしくないって意見も同感なんだけど、それだけじゃなくて、何かがまだ眠っている気がする。ううん、見落としているのかな。なんて言うんだろ、何か根本的な捉え違いをしているというか、ボタンの掛け違いをしているというか」
「単に片思いをこじらせてるだけじゃない?」
「そうだと良いんだけどねー……」
沙弥香はおどけて言ってみせたが、祐理は全く乗ってこなかった。
直後、祐理は雰囲気の重さを察知し、
「でも、こじらせてるのは沙弥香ちゃんもでしょ」
すかさず沙弥香をいじることで解消した。
二人がじゃれている間、志乃は律儀に湯飲みを片付けてから、同じく地面に腰を下ろす。
「祐理さん。もやもやを抱えたままでは良くないですよ。一度、はっきり言葉にしてみてはいかがでしょう。付き合いますよ」
「んー、そだねー……」
沙弥香は、正座する志乃のスカートから覗く太ももを見て、鞍替えをする。
志乃は友達の膝枕をあっさりと受け入れた。
「日向調べ隊として、状況を整理しましょう。――まず、私たちの目的は日向くんの真実を暴くことです。直近の調査対象は二つあります。一つは、彼の部屋にある大型の金庫。もう一つは、プロを目指しているとする彼の真意。ここまでは良いですか?」
「うん」
祐理が頷く一方、沙弥香は両足を祐理の太ももに乗せていた。
かなり行儀の悪い姿勢だが、疲労した日の沙弥香がこうであることを二人は知っているし、知り合って二ヶ月ではあるものの、既に気心の知れた仲だ。
シェアメイトのような、ゆったりとした空気がある。
「まずは二つ目の、プロを目指しているという点ですが、少なくとも施設では認められているのですよね?」
「うん。
「アンタはなんで許されてるのよ?」
「んー、それはねー……長くなるからまた今度ね」
「気になるわね」
一言で言えば、日向と結ばれるためである。
日向という怪物を繋ぎ止められるかもしれない唯一の異性。それが祐理であり、だからこそ祐理は日向との同居を許されているのだが、このような事情は心理的においそれと話せるものではない。
沙弥香の質疑が終わったところで、志乃が仕切り直す。
「この二つ目の真意については、いったん脇に置いておきましょう。祐理さんのお父さんがお認めになられているのですから、祐理さんがとやかく言うことはできませんし、私達が言うのも筋違いでしょう」
「気になるんだけどなー……うん、りょーかい。志乃ちゃんが正論」
――あいつには信念がある。夢がある。
二人暮らしを認められる前に施設長から言われた言葉を思い出す。
施設長に認められたということは、相応のプレゼンを成功させたということだ。
単なるパルクールバカやトレーニング
「……」
祐理は人と比べるタイプではないが、それでも稀に、日向と自分を比べては落ち込むことがある。
かたや稀有の才能と大人顔負けの自立。
かたや一方通行の恋と
日向に彼女や友達がいない理由は本人の問題だけではない。
その強さ、凄さ、高みと比較してしまうからだ。
比較して、圧倒されて、絶望する――
一緒にいることの苦しさは、並大抵ではない。
祐理はマイペースな自分の性格を気に入っていた。
そうでなければ、彼のそばにいることなど耐えられるはずがなかった。
回顧と劣等感に陥っていた祐理だったが、ふと我に返る。
慌てて顔を上げると、志乃の微笑みがあった。
「続けますか?」
「うん。お願い」
ここで沙弥香がだらだらモードを解除し、なぜか正座で座り直す。
祐理も倣い、三人とも正座で向き合う形になる。「何よこれ」沙弥香がくすりと笑い、祐理も吹き出した。
志乃はこほんと咳払いをしてみせた後、話を続けた。
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