5 最強の宗教

「――という感じなの。日向はどう思う?」


 春高祭から明けて六月十九日、月曜日の朝。

 食卓にて祐理が尋ねていた。話題は昨日の逃走犯、その正体について。


「とりあえず鬼ごっこしてみたいと思った」

「そうじゃなくて! 日向の見解を訊いてるのーっ!」

「んー、そう言われてもなぁ」


 もしゃもしゃしながら日向は胸中で苦笑する。

 無論、正体は日向自身である。

 当日は女装し、女性の動きを再現した。逃走時はマイナーな女性トレーサーのそれを模倣トレースした。

 抜群の観察力と身体感覚を持つ日向のクオリティは、沙弥香を始め万人を騙し通せている。


「正直何とも言えないな。ただ、そこらの学生や大人じゃないことは確かだろ」

「トレーサーだと思う?」

「わからん」

「手すりを走って下ったんだよ?」

「パルクールが扱うのは平らなレールだけだ。傾いたレールの上を走るという動作はパルクールのスキルセットには含まれていない。パルクールに固執しすぎだろ」

「むむぅ……」


 思案する祐理とは対称的に、日向は淡々と朝食――どんぶりに盛った炊き込みご飯を平らげていく。

 その手にはスプーン。効率的に食べるために、日向は実用性を重視する。


「早く食え。学校間に合わないぞ」


 祐理も日向の影響でスプーンである。

 自分の分をすくって、自分の口ではなく対面の日向にまで伸ばす。


「あーん」

「やめろ」

「照れてる?」

「他人の菌は間接的にも媒介するからな」


 照れをまったくにじませない真顔でそう言う日向を見て、祐理は頬を膨らませた。


「けっぺきひなた」

「潔癖で結構」

「残すともったいないよ?」

「なら食え」

「もうおなかいっぱい」


 祐理がわざとらしくお腹をさする。

 あえて胸が強調されるようにしてみた。薄手のパジャマということもあり、自分でも恥ずかしいくらいの膨らみが形成されている。

 しかし、日向の向けてきた視線に男子特有のいやらしさは乗っていなかった。

 もっとも幼なじみがこうであることは前々からわかっていることだが。


「よそいすぎだ。自分の食える量くらい、いいかげんに把握しろよ」

「だって日向見てると狂うんだもん。この食いしん坊」

「俺は毎日鍛えてるからな。燃費を食うんだよ」


 祐理は昔から日向に憧れて、色々と真似をしてきたが、真似できないことの一つがこれだった。


 日向はよく食べる。

 食欲旺盛な運動部男子の数倍くらいは食べているかもしれない。施設時代、日向が施設長に一日五食を提案していたことが記憶に新しい。

 つまみ食いや盗み食いを働いて怒られて、食事抜きにされて、それで日向は近所の山から山菜を採ってきて食べたりしていて、その中に毒草も混ざっていて――本人に食べる気は無かったようだが――こっぴどく怒られて。

 そんな日向が面白くてからかっていたら、施設長はよほど不機嫌だったのか、祐理もとばっちりで叱られて。

 そんな中でも、日向が「こいつは無関係でしょ」と言ってくれたのが嬉しくて。

 でも当時はまだ名前で呼んでくれなかったことが悔しくて――


 日向と過ごした日々はどれもよく覚えている。

 日向は当時から我が道を行っていたが、当時はまだしつこく後を追ってくる妹を気にかける優しさがあった。


 今は、どうだろう。

 黙々とぱくぱくする日向を見ながら、祐理は思う。


 まだ残ってはいる。

 けれど当時よりも減っているのは確かだし、少しずつ減っている気もする。

 無論、兄妹のような幼なじみという関係が永遠でないことくらいはわかっているし、それを維持し、発展させたいなら努力を要することも知っている。

 しかし一方で、そのような努力が、彼が望む方向とは違っていることも、なんとなくわかっている。


 かちんとスプーンが鳴った。日向のどんぶりは空になっていた。


「あ、そうだ。キスしてくれたら回復するかも」

「さてと。支度するか」

「無視するなー!」


 日向はてきぱきと食器を片付け、居間を出て行った。


 祐理がしばし炊き込みご飯と格闘し、それでも全部は食べきれなかったから一部を炊飯器に戻していたところで、玄関ドアが開く音が聞こえてきた。

 閉まる音は聞こえない。日向は静かに閉めた上で施錠するからだ。


「声掛けてくれてもいいじゃん。けち」


 祐理は手早く着替えと準備を済ませ、リビングに戻ってきた。

 スマホを手に取り、LIMEを開く。


 通話相手には『パパ』の二文字。


『日向のことで相談したいから今日の放課後寄るね』


 祐理は端的にメッセージを送った。

 施設長パパは忙しい身で、普段は既読スルーのはずだが、すぐに了承の返事が返ってきた。

 施設長が日向を気にかけているのは明らかだ。なら何かしらの打開策を提案してもらえるだろう。


 祐理は学習していた。

 自分が攻めたところで、日向が隠し持つ何かを見ることは叶わないことに。一方で追及がしつこければ、日向に開き直られる可能性があり、日向が自分ではなくそっちを選ぶであろうことも。


 この関係性は失いたくない。

 しかしながら、それへの好奇心――いや猜疑心を抑えられるほど祐理は器用でもなかった。


 その先に何が待っていようとも、明らかにしたかった。

 しなければ気が済まなかった。




      ◆  ◆  ◆




 今日の登校は半日のみである。

 春高祭の翌日は後片付けデー――ただし模擬店の廃棄物など一部は昨日中に済ませる必要がある――と定められており、終わったクラスから解散しても良いことになっている。毎年どのクラスも午前中には終わり、午後は自由時間となるのが通例だ。

 二年A組は出し物が出し物なだけに、午前十時前にはホームルームまで終了していた。


 日向は祐理に呼び出され、今日一日施設に泊まる旨を聞いた。

 一緒に泊まらないかと誘われたが、日向は断った。祐理があっさりと引き下がったのが気持ち悪かったが、日向さえ気を付けておけば何も露呈することはない。いちいち疑っていたらきりがない、というわけで気にしないことにした。

 おかげで昼前には帰宅でき、昨日撮影した動画の編集作業に集中できた。


 そして翌二十日の夜、日向は盗撮動画販売サイト『カミノメ』が催すケッコン――美穴びけつコンテストに作品を提出。

 賞金三百万円の応募作品にしては編集時間が短いと言わざるを得ないが、盗撮動画はそういうものだ。ほぼ素材を並べるだけで作品になる。良い出来になるかどうかは素材で決まる。

 編集に時間をかけるのは二流の撮り師がやることだと日向は考えている。


 提出を終えて、しばし休憩をはさんだ後、日向はジンにチャットで簡単な報告と注意を――春高で撮影していることは伏せているため『権力者がカミノメにリーチするかもしれない』とだけ共有しておいた。

 返信は期待していなかったが、想像に反して、ジンからの着信。


「今一人か?」


 デリケートな話題だから人払いをしろという意。

 今現在、自宅には誰もいない。声が外に漏れることもないし、祐理が帰ってきてもすぐに気付ける。


「一人です。珍しいですね、ジンさんから通話してくるなんて」

「なあに。親切に忠告いただいたから、その返事だよ」


 電話越しにグラスを置いた音が聞こえてきた。ちょうど休憩中なのか。優雅にワインでも楽しんでいる光景が浮かんだ。


「まず日向が心配している対象だが、春日家だろう?」

「――よくわかりましたね」


 思わず感心が声に乗る。普段淡白な日向には似合わないためか、ジンが愉快そうに笑った。


「結論を言うと、心配は要らない。その程度で揺らぐカミノメではない」

「春日家ですよ?」

「日向。一つ良いことを教えてやる」


 グラスを手に取る音。こくりと流し込む喉の音。

 微かだが、日向の耳にはしっかりと届いた。日向の聴力もあるが、両者のいる環境が静寂であることも要因の一つに違いない。

 もう一度、グラスが置かれた。目の前で対話しているかのようだった。


「世界中の優秀な個人がタッグを組めば、財閥だろうが政府だろうが敵わねえんだ」


 日向は佐藤を思い浮かべた。

 彼もそんなことを言っていた覚えがある。

 曰く、優秀なプログラマーは平凡なそれよりも百倍効率が良い。ハッカーと呼ばれるレベルにもなればその差はさらに開く。文字通りのスーパーマン。

 そして、そういう者こそ信念を持ち、自分を持ち、組織に迎合しない――そんな話だったか。


「組めれば、でしょ」

「組めるんだよ。男に限ったことだがな」


 女だろうか、と日向は考える。


「動機は極めてシンプルでいいんだ」


 その一言で日向も答えに思い至る。


 モチベーションとは受動的なものではなく、能動的なもの。

 男のみが持つ、シンプルながらも強力なそれと言えば。


「――エロ、ですか」

「ああ」


 日向は長らく疑問だった。

 なぜカミノメのような違法も甚だしいプラットフォームが、何のお咎めも無しに存在し続けられているのか。

 警察の介入があってもおかしくはないはずなのに。

 政府の施策が施されてもおかしくはないはずなのに。


 単純なことだった。

 ジンのいう『優秀な個人』によって支えられているからであり、彼らはカミノメという二つとない楽園を守るという使命で繋がっているから。それだけの話だったのだ。


「エロはな、万国共通の宗教でもある。キリストよりも強いぞ」

冒涜ぼうとくにも程がありますね」


 それからもジンとの雑談は続いた。

 修学旅行の夜にクラスメイトの女子について語り合う男子のように、何十分も下品な話題で盛り上がっていた。

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