9 攻防

 六月五日、月曜日。

 春高祭が二週間に迫っているが、授業は平常運行である。

 四時間目となる体育も例外ではない。天気は梅雨という存在を感じさせないほど良好で、ほぼ全員が半袖だった。男子はソフトボール。ペアになってキャッチボールする光景があちこちに散らばっている。


 そんな中、日向はグラウンドの隅で壁当てをしていた。格好も唯一の例外で、長袖長ズボン。

 日向は従来のキャラどおり、運動神経が皆無な不器用を演じ、キャッチボールすらままならないとの印象をつくっていた。まずは壁当てで練習しようという話になっている。いわば教師公認のぼっちだった。


 日向の不出来は既に知られている。運動に関して言えば、間違いなくカースト最底辺。女子よりも弱い、とからかわれたことも一度や二度ではない。

 しかし日向に憤慨はなかった。むしろ自賛さえしている。

 疑いもなく、そう扱われ続けているということは、裏を返せば、演技のクオリティが――もっと言えば演技を支える観察力と身体制御ボディコントロールが優れていることの証明なのだから。


 黙々と、しかし下手な投げ方を崩さないように、日向は壁当てに励む。

 周囲への警戒は怠っていない。撮り師として、逃走手段として、あるいは欲望を満たすための危機回避として、日向にとっては重要なことだ。半ば癖のようなものでもある。それほどに染みついている。


 そんな日向のセンサーが反応した。

 男子が接近しているのがわかった。

 落ち着いた足音。しかし無造作でもない。特徴的だからよく覚えている。

 途中から足音が小さくなった。抑えているつもりなのだろうが、日向は捉えていた。


 それは日向の真後ろにまで接近。

 日向は無防備に受け入れることを決める。


 それは日向がちょうどボールを拾ったところで行動してきた。


「だーれだ」


 手で目隠しをされる。声が女子のように高い。

 気付いてなければ、騙されていただろう。日向はあえて騙された。


「誰かは知らないけど、罰ゲームか何か?」

「あはは、自分を卑下するのが好きだなあ、日向ちゃんは」


 手が離れたので、振り返る。


「……佐久間か」


 案の定、佐久間琢磨だった。


「器用なんだな。女子だと思ってびっくりした」

「またまた。一ノ瀬さんで慣れてるでしょ?」

「あれは妹みたいなものだが。女子に対する慣れには含まれない」

「沙弥香とも普通に喋ってるし」

「祐理経由でな。嫌われてるけど」

「あははは、自覚はあるんだね」


 琢磨は日向の手元からボールを横取りした。

 五メートルほど距離を取る。キャッチボールにしては短い距離だが、日向に配慮してのことだろう。


「キャッチボールはしないぞ。というかできない」

「嘘でしょ。この距離でも?」

「距離は関係ない。ボールを投げるのが苦手なだけで……」

「あはは、どんだけよ日向ちゃん」


 琢磨は壁当てを始めた。

 壁からはねかえってきたボールが、バウンドして、琢磨の手元に戻ってくる。

 琢磨側にほとんど動きはない。絶妙にコントロールされた投球だと日向はすぐに見抜いた。

 日向にはできないことだ。日向は、自身の身体制御はお手の物だが、道具の扱い――というより球の扱いはさほど得意ではない。どころか嫌悪感もあった。


 ぼす、ぼす、と壁当てが続く。


「先生には言ってあるから、しばらく邪魔は来ないよ」

「言うって何を」

「日向ちゃんに投球を教えるってことになってる」

「……どおりで。でなきゃ自由行動できるはずもないしな」


 体育の先生は厳しくて有名だった。


「で、本題は?」

「教えてほしいなーと思ってさ。ゲームのこと」


 ゲーム。沙弥香と日向の関係について訊かれた時に、沙弥香がとっさについた嘘だ。


 沙弥香の兄と日向は、ゲーム――家庭用ゲーム機なのかオンラインゲームなのかまでは話していない――で仲が良いことになっている。

 本当は兄が日本随一のパルクールプレイヤー『アラタ』であり、日向はそんなアラタから認められた実力者なのだが、真実は琢磨には伝えていない。

 沙弥香もまた、自分がパルクールに取り組んでいること、また兄を愛していることを隠したがっている。後者に通じるパルクールを隠そうとすることは自然なことだ。

 琢磨がまだ知らないということは、沙弥香は上手くかわしたのだろう。


「なんのことだか」

「すっとぼけてもだめだよー。沙弥香の兄貴と遊んでるんでしょ?」

「普通にイヤなんだが」

「なんで?」

「なんでって、知り合いに知られたくないからだよ」


 日向はオンラインゲームを想像している。

 ネット上の自分とリアルの自分は別物であることが多い。リアルでは素を隠しがちだが、ネットでは素を出しがちだ。リアルの自分として接している相手に、ネットでの自分を晒したくないのは当然の心理である。断る理由としては自然だ。

 つまり自分はリアルとは違ったキャラクターでオンラインゲームを遊んでおり、ゆえにリアルの知り合いには知られたくないのだ、と。

 琢磨から疑問をぶつけられたら、そんな設定を語るつもりだったが。


「えー、日向ちゃん、そういうこと気にするタイプじゃないでしょ」


 琢磨は日向の言葉を瞬時に察し、想定を超えてくる。


 壁当てが耳に届く。

 壁に当たる音。バウンドする音。ボールを掴む音――

 間隔はほぼ一定だ。移動する足音は無い。見事なマルチタスクだった。


 もっとも琢磨のスペックは最初から知っていた。

 日向は警戒心を引き上げた。


「俺の何を知ってるんだよ。普通に気にするぞ」

「いいや、嘘だね」

「なぜそう思う?」

「日向ちゃんは、そういうことにはまるで関心がないみたいだから」


 琢磨の言うとおりだ。他人からどう思われようが、知ったことではない。

 しかし、パルクールの件はまだ隠しているし、その先には撮り師という裏の顔もある。出来るだけ知られないに越したことはない。


 いつもなら、故意に嫌われる言動をして遠ざけるだけだが、こうして琢磨がわざわざ絡みに来ている以上、通じはしまい。


 誤魔化し続ける手間も少なくないだろうし、いっそのことバラしてしまうかとも考えたが、胸中で頭を振る。別の切り口で攻めた。


「……なんか妙につっかかってくるよな。嫉妬か?」


 琢磨が「嫉妬?」と軽く首をひねる。


「彼女が俺と話してるのが気に食わないとか」

「沙弥香は彼女じゃないよ」

「そうなのか。ずいぶん気を許しているように見えるけどな」

「付き合ってた時期はあるけど、そんなんじゃないさ。彼女はオレにはなびかない――」


 過去を懐かしむような間があった。


 あの偏愛者ブラコンが誰かと付き合うイメージなど全く湧かない日向だったが、琢磨は容姿から能力までハイスペックな超人だ。並の――沙弥香が並かどうかはさておき――女子ならなびいてもおかしくはないし、何ならなびかせることもできるだろう。

 しかし、本人はなびかないと言っている。


 二人にどんな関係があったのか、またどんな意図を持って付き合っていたのか。

 日向には知る由もない。そもそも、知る必要もないことだ。

 ぼろが出ないよう、日向は気を引き締め続ける。


「むしろオレの台詞だね。日向ちゃんこそ、実は沙弥香と付き合っていたりして?」

「どうしてそうなる。佐久間でもなびかなかったのに、俺になびくわけないだろ」

「いや違うね」


 パシッとはねかえってきたボールをキャッチすると、琢磨は背後を向き、爽やかな微笑を向けた。


「知ってると思うけど、沙弥香の態度は無関心が普通デフォルトだ。嫌いという感情さえぶつけない。でも日向ちゃんは違う」

「よほど嫌いってことじゃないか」


 沙弥香は自分が愛する兄に気に入られているという理由で日向にあたっている。新太というパルクール中毒者バカを相手に、兄妹で恋愛など、二重の意味で叶うはずがないわけで、とばっちりも良いところなのだが。

 我を見失う沙弥香を思い浮かべて、日向は苦笑しそうになった。


「そういう奴なんて相手にしないんだよ、沙弥香は」

「そんなこと言われてもなあ。俺がよほど気持ち悪い人間ってことなんだろ」

「たしか日向ちゃんはキモい。でも、それ以上に、何か思うところがあるんじゃないかってオレは睨んでる」


 琢磨の手が動く。こちらに向かって。

 下手投げ。小さな子供に投げるような、控えめな腕振りだ。

 日向は普段の演技を踏襲する。

 人波以上に不器用で、女子のような、か弱い動きが特徴の運動音痴として、放たれたボールと向き合う。


 ――これは取れる。


 日向の感覚シミュレーターがそう判断した。


 おぼつかない手つきで、日向はボールを掴んだ。

 琢磨に不審を感じた様子はない。が、その口は次の言葉を発していた。


「あるいは、沙弥香が気にせざるをえないような何かを日向ちゃんが持っているのかな? ――ゲームとか」


 疑われているのは明らかだった。

 少なくとも琢磨は、沙弥香の発言を鵜呑みにはしていない。

 どころか、こうして探りにきている。


 この男はどこまで勘付いているのだろう。

 何のために、つっついてくるのだろう。


 琢磨の端正な顔立ちを眺める。

 いつも軽薄だが、今は目元も口元も一段と緩い。詰問といった雰囲気はまるで感じられず、気心知れた友達とじゃれ合うような居心地を錯覚する。


 日向は嘆息してみせた。


「ゲームで気にされる覚えはないんだがな。沙弥香に訊いてみろよ」

「それができないから日向ちゃんを攻めてるんだよ」

「攻めるのは構わないが、ゲームに関しては俺はコメントしないぞ。リアルとネットは区別したいからな」

「さっきの発言も踏まえると、ゲームとはズバリ、オンラインゲームと見た。当たりでしょ?」


 ノーコメントで押し通すこともできたが、日向はあえて応えた。


「そうだよ。でなきゃ知り合った仲間の妹がクラスのリア充だった、という悲劇は起きない」


 琢磨がオンラインゲームだと信じるのなら、日向としてもやりやすい。

 パルクールは主にインターネットを通じて交流する世界だ。あながち間違ってはいない。自然に嘘をつきやすい。


「リア充は日向ちゃんでしょ。一ノ瀬さんを独り占めしちゃってからに」

「そうだった。今の俺は校内随一のリア充だったな」

「羨ましいね」

「もらってもいいぞ。佐久間なら祐理の首を縦に振らせることくらい、簡単だろ」

「オレを何だと思ってんの……」

「マンガみたいな完璧超人」

「そこまでは酷くないでしょ。否定はしないけど」


 空虚なやりとりだったが、一瞬だけかげりが見えたのを日向は見逃さなかった。新太もそうだったし、超人には超人なりの悩みがあるのだろう。


「――それじゃ、オレはそろそろ帰るよ」

「ああ」


 遠ざかる琢磨の背中を見ながら、日向は佐久間琢磨リスクの考察を始めていた。

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