第2章 文化祭三週間前
1 交換条件
放課後、日向は図書室に寄った。
志乃との待ち合わせは玄関であったが、
急な変更をしたのは祐理から逃れるためであった。「図書委員の準備がある」と言えば祐理は手出しできないし、図書室には苦手な山下先生もいる。迂闊に近づいては来ないと判断したのだ。
日向は普段の定位置、西側隅の席に座る。
志乃は間もなくやってきたが、日向の対面ではなく隣に腰掛けた。これではイチャイチャしているように見えてしまう。日向は抵抗しようとしたが、時間の無駄だと考え直し、容認した。
図書室のルールを破らないよう小声で、早速切り出す。
「この相談は誰にも言わないでほしい」
「もちろんです」
日向は山下先生――今は東側のテーブルで書類整理をしている――を注視しつつ、話を進める。
「ビブリオバトルの準備だけど、俺は出来るだけサボりたい。取り計らってもらえると嬉しい」
「潔いですね」
「褒め言葉と受け取っておくよ。それで、返答はどうかな」
「構いませんよ」
胸中で身構える間もなく、即答が返ってきた。「ただし」志乃は人差し指を立てる。
主婦のような使い込まれた質感があった。家でも積極的に家事を行っているのだろう。
「条件があります」
「聞こう」
日向の想定通りだった。
あわよくば無償で受けてくれることも期待していたが、志乃がそんなに単純ではないことは察しがついている。
「私とデートしてください」
(やはりそう来たか)
ここまでは想定通りだった。
問題は次だ。
いくら春高祭の出し物準備を減らせたからといって、交換条件の、志乃との付き合いに時間を取られてしまっては意味がない。
日向の直近の目標はあくまでケッコンであり、そのための準備時間を捻出することが課題である。学校行事だろうと、人付き合いだろうと、盗撮と無関係の過ごし方は許容できない。
「それは構わないけど……」
口ぶりの鈍くなった日向を見て、志乃は首を傾げる。
(切り出し方がわからんな……)
日向が考えているのは効率である。
デートをするにしても、いつ、どこで、何時間ほど、何をするかをはっきりと計画し、これを逸脱しないように遵守したいと考えている。
しかし、このような無味乾燥な進め方はデートらしくない。疎い日向でもその程度のことはわかっていた。
「正直に言ってほしいです。渡会くんのこと、もっと知りたいので」
志乃は何を考えているのだろうか。
日向はその双眸を見つめた。
あどけなさ。幼さ。誰が見ても童顔だと評するだろう。しかし、整ってもいた。
春高生には珍しい膝下スカートに、髪型もお下げ、と地味だから注目されていないだけで、間違いなく美人の部類。
志乃が見つめ返してきた。その瞳に力強さを見た。
「……デートだけど、具体的にどうするつもり?」
「と、言いますと?」
「俺が懸念しているのは、東雲さんとの付き合いに時間を取られては結局意味がないってことなんだよね」
「容赦ありませんね」
「正直者と言ってくれ」
志乃は前方、山下先生の方向を一瞥した後、かばんから文庫本を取り出すと、読み始めた。
「本取ってくる」
雑談ばかりしていると山下先生に怒られる、と思ったのだろう。日向も同意見だった。
文庫本コーナーから見覚えのあるタイトルを一冊選び、席に戻った。
本を開くと、志乃が口を開いた。
「お手を煩わせるつもりはありません。私は、トレーサーとしての渡会くんを邪魔するつもりはありませんから」
なら自分と付き合うのもやめてくれないか、と言いたい日向だったが、それがあまりに無粋であることはわかっている。
「トレーサー、ねぇ……」
「発音、違います?」
「いや、トレーサー以外の人からその言葉が出てくるのが、なんか新鮮だと思って」
「ちなみにですけど、トレーサーとトレイサーってどちらが正しいんですか?」
長音と「イ」を声で強調してみせた志乃。それは明快で、日向は一度聞いただけで理解できた。
「正解は無いけど、使われ始めた起源で言えば後者のトレイサーの方が古いかな。あくまでネット上の掲示板とかブログとかの過去ログを根拠にすれば、だけどね。でも今は前者のトレーサーが多い。理由はよくわからない」
「お詳しいんですね」
「新太さんの又聞きだよ」
日向自身はパルクールそのものにさほど興味はない。あくまでも自分の身体能力や視点を拡張する
しかし、手段であると同時に、趣味でもあって、パルクールになると話が弾むのが自分でもわかった。
「俺から脱線しといて悪いけど、話を戻そう。俺の手を煩わせるつもりはない。それで?」
「はい」
志乃は静かにページをめくってから、
「量よりも質を重視したいんです」
「濃厚なデート、ということ?」
日向は性的な行為を想像した。
「はい。精神的にも、身体的にも、性的にも、密度の濃い時間を過ごしたいですね」
「さらっととんでもないことを言われた気がするけど」
「本心です」
「貞操は大事にしないと」
志乃なら顔を赤らめると思ったが、横顔に変化は無かった。
さらにページをめくっている。どうやら本当に読んでいるらしい。
「大事なのは、捧げたい人に捧げることなんです」
「……やけに積極的だね」
「はい。好きですから」
「……――そりゃどうも」
志乃の静かなる迫力に、日向は少し気圧されていた。
次の言葉が出てこない。緊張や焦りがあるわけではないが、どうにもむずがゆい。頬をかきたくなったのを我慢した。
「ですから、何度もデートを強要するような、重たい女性にはなりません」
「それは助かる」
「その代わり、デートの時は私を見てください。私と一緒に過ごすことだけを考えてください」
「……わかった。そうしよう」
志乃の横顔が柔らかく微笑んだ。
日向は志乃をしばらく眺めていた。
読書している美少女の微笑。それが絵になるということを、日向ははじめて知った。
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