6 お泊まり6
沙弥香は失念していた。
渡会日向は出かける前に何と言ったか。
それは几帳面で強引な物言いだったが、沙弥香が知る日向という人物の発言であれば決して冗談ではなかった。
兄に一蹴されてフラストレーションが溜まっていたとはいえ、うっかりしていた自分を悔いた。
不意に開いた洗面所の戸。その先にいたのは日向。
一方、沙弥香は入浴を終え、洗面台の前で体を拭いているところだった。
日向の視線が沙弥香を捉える。髪の先端からつま先まで全身を素早く舐められたのがわかった。
「意外だな。俺と一緒に入りたいのか?」
沙弥香はバスタオルで身を隠しつつ、そばにあったハンドソープのボトルを投げつける。日向は難なくキャッチしてから嘆息する。
ボトルを元の位置に置き直した。沙弥香が手に取る前と全く同じ位置だ。動作に淀みはない。裸の沙弥香など意に介さない。
「ざけんじゃないわよ」
「そりゃキャッチするだろ。当たったら痛いぞ」
「そっちじゃない! アタシの裸を見たことよ!」
「だから言ったじゃないか」
二時間後にトレーニングから戻ってくるからそれまでに風呂済ませとけって。そう言う日向のスポーツウェアは汗ばんでいて、意識した途端、汗臭さが鼻を刺した。
「どうしてくれんのよ」
「どうもしない。さっさとシャワー浴びたいから出て行ってくれ」
日向は半ば強引に洗面所の奥に進み、上着に手をかけた。
「アタシもまだ拭いてる最中なんだけど?」
沙弥香は文句をぶつけながらも、内心では身構えた。この男はアタシの目の前で服を脱ぐのだろうか。いや、脱ぎかねない、と。
しかし日向はウェアをまくしあげる手前で、動きを止めた。
「……じゃあ拭き終わったらさっさと出てくれ」
洗面所を出ようとする日向。
違和感をおぼえた沙弥香は、その手を掴もうとして
「不公平じゃない。アタシだけ裸を見られたのよ?」
「俺の忠告を忘れた方が悪い。家主は俺だ。それとも何だ? 俺の裸でも見せればいいのか?」
気味の悪い笑みを見せる日向に対し、沙弥香は間髪入れずに応える。
「ええ、そうね。それでおあいこだわ」
「……」
日向の攻撃ならぬ口撃が止む。
その瞳に警戒の色が宿る。性的なそれは相変わらず一切無い。
沙弥香は冷静だった。
元々実の兄こと新太以外の男は何とも思っておらず、裸を見られることに対する精神的ダメージは少ない。しかし、普段は派手な女子として過ごし、多くの視線を向けられているだけにプライドがあった。
性的な目で見られているかどうかは肌で分かる。学校でつるむ琢磨や誠司でさえも、体操着の沙弥香に対しては
なのに目前の同級生はそうじゃない。
その事が
「どうしたのよ。見せなさいよ。アンタ、恥ずかしがるタマじゃないわよね?」
沙弥香は日向の意図――露骨に嫌われようとする言動を見抜いていた。
そしてその背後にある目的にも見当がついている。
自分への興味を遠ざようとしていること。
日向は他人に知られたくない何かを持っている。
それはパルクールに関するもので、国内随一の実力者たる兄が執心するほどのもの。
知っているのはおそらく兄のみ。しかし兄自身も口を開こうとはしない。
何かが何であるかはわからないが、実力が絡んでいることは間違いない。
「さっきまで脱ごうとしてたじゃない。なのに、何か見落としに気付いたかのように手を止めたわね。自分の裸が見られるのを避けようとしているんじゃない? 違う?」
実力を形作るのは身体だ。日向の身体には、実力を示す何らかの特徴があると予想できる。筋肉の分布や密度か。それとも絶対的な物量か。
いずれにせよ、身体にヒントがあることは間違いない。
沙弥香が食いついてくることは想定しなかったらしく、日向は何かを誤魔化すように頬をかいた後、「とにかく早く出てくれ」それだけ言い残し、出て行った。
「これはアタリね」
ほくそ笑む沙弥香。
日向に対する苛立ちは、好奇心という形で昇華されていた。
◆ ◆ ◆
入浴を済ませた日向は歯を磨いた後、早々に就寝した。
リビングで談笑していた祐理と志乃には「疲れたから寝る」の一点張りで通したが、電気を消してから三十分以内に二度ほど来訪があった。
一度目は祐理で、ノックも無しに侵入してきた。寝顔を覗き込んだようだが、結局何もしなかったようだ。
二度目は志乃で、控えめなノックから始まったが、応答していないのにドアは開いた。踏み入れては来なかったが、何かをためらっているようだった。しばらくして「おやすみなさい」足音は遠ざかっていった。
日向はどちらにも気付かなかった。深い眠りについていた。
数時間後、枕が振動する。枕の下にスマホを忍ばせ、アラームを設定していたのだ。
ぱちりと目を開く。スマホを見ると、午前一時。
物音を立てないように着替え、水分補給と済ませた後、手ぶらで外に出た。
ニュータウンの深夜は静寂そのものだった。
所々明かりが漏れているだけで、生活音も聞こえなければ食事の匂いも立ちこめない。抑えた足音でさえも響く。
日向はウォーミングアップがてら無音で歩くことにした。
ペースは早歩きより少し速い。見た目からは伝わらないが、これもまた相当に高度な力業で、日向は間もなく汗ばむこととなる。
歩道橋。駅ビルとデパートを繋ぐ連絡通路。学習塾や美容室、カフェなどが集まった小綺麗な雑居ビル。広場に設けられたモニュメント。通路とロータリーを仕切る
日中は絶え間なく人が行き交っているが、今は人っ子一人いない。それもそのはずで、春日野町はあくまで住宅地だ。繁華街ではない。午後十時には全ての店舗が閉まる。コンビニでさえも。そういうコンセプトとしてウリに出されているほどで、この町に店舗を構える以上は、従わなくてはならない。
後方を振り返る。北側には六メートル――身長の三倍を優に超える
その東西に大通りが伸びている。西側は住宅地へと通じる車道で、日向が下りてきた道だ。反対、東側は春高生お馴染みの上り坂で、トラックも楽々通れそうなほどに歩道が広い。
「さて、始めるか」
日向は擁壁に向けて全力疾走を繰り出した。
勢いを微塵も止めることなく壁の手前で踏み切り、続く一歩で壁をスタンプする。前方向の力が及ぼす反作用が返される。これに上方向への踏み込みを加算させるイメージ。身体がふわりと浮かんだ。
その間、次の蹴り足をめいっぱい振りかぶる。地面上でやるのとはわけが違う。滞空中での動作だ。純粋な筋力と、それを無駄なく連携させる技術が必要になる。日向は難なくこなした。振りかぶった蹴り足で壁を蹴る。身体が浮く。
これをさらに二回ほど繰り返し、日向の手が壁のてっぺんに届いた。
がしりと掴み、引き上げる。
「くふふ……」
6メートルの
一般的には3メートルか、せいぜい身長の倍程度となる3.5メートルだ。よほど得意なトレーサーでも4メートル。5メートルは壁と靴の相性がよほど合わないと達成できない。6メートルにもなれば挑戦する気さえ失せる。それを日向はこなしたのだ。
間髪入れず、後ろ向きのまま後方に飛ぶ。
空中で身をよじり、向きを反転させてから地面に着地――前方に転がることで
転がった勢いを生かして素早く起き上がり、南側の駅に向かって疾走する。スポーツテストで軽々A判定を出したスピードを惜しみなく乗せた。
身長を超えるモニュメントが行く手を阻んだ。コングヴォルトで軽々と飛び越える。スピードは落ちていない。続くレールはスピードヴォルトで越えた。
もし足が引っかかるか、手が滑ろうでもするなら大怪我に繋がりかねない。陸上短距離選手がアスファルト上で派手に転倒するようなものだ。しかし日向は恐れない。
「この疾走感。いいね」
口角を上げつつ、次のターゲットに突っ込む。
駅ビルの壁を容赦無く蹴り、高く浮遊して、二階部分の連絡通路に一気に到達する。
「壁が汚れたっぽいな。環境を尊重するべきトレーサーにはあるまじき行為――でもそんなことはどうでもいい」
日向は悪びれもなく唾を吐いた後、連絡通路のレールをモンキーヴォルトで飛び越えた。着地先は――バス停の案内板、そのてっぺん。
日向の足裏が刺さると、案内板はぶるぶると揺れた。何度か繰り返せば折れてしまいそうだと日向は思った。
「どうでもいい……どうでもいいんだよ、ふふ、ふふふっ」
日向は動き続けた。
蹴って、跳んで、飛び降りて、転がって、飛び越えて――周辺環境を足裏で蹂躙した。中には
失敗したら怪我どころか死に直結する。それでも日向は止まらない。
笑顔になっているのが自分でもわかった。
強烈な風圧。
足裏から通じる衝撃と振動。
疲労していく筋肉、肺、心臓。
薄暗さを補うために忙しなく働く五感――
楽しい。
(やはり俺はこういうのが一番楽しい)
新太にさえも見せられない全力を発揮しながらも、日向の頭は至って冷静で、
要するに、ゾーンに入っていた。
日向は自らの意思で即座にゾーンに入ることができる。
日向は幼い頃から
パルクールを知るよりもはるか昔、物心がつく前から、こうして動き回っていた。無論、動きの質は今とは比べものにならないが、失敗すれば死ぬという制約は同じだった。
そんな経験を幼少期の時点で積み重ねていたし、自覚は無いが、より楽しみに続けるために精進し続けた。そのことだけを考えて生きてきた。行動してきた。
幼少期――それは成長と学習効率が最も著しいとされる
この時期から専門的教育と施すのは英才教育の常套手段だが、通常、生死を賭けた活動を施す親や教育者はいない。
日向は幸か不幸か、それを単独で積み重ねることができた。
要因は二つある。
一つは持って生まれた性質――言い方を変えれば障害とも言えるが――であり。
もう一つは児童養護施設『村上学校』に入る前の環境にあった。
日向は二点とも
しかし病院に行くことは考えていないし、施設以前の記憶も辿ろうとは思わない。覚えてもいなければ、興味も無い。
「楽しければそれでいいよな」
自分に言い聞かせるように呟き、
昔も、今も、自分を楽しませるために生きている。
そのために何が必要かはわかっていた。楽しいと思えることにはおおよその共通項があった。
命の担保。
盗撮に手を出したのもそのためだ。
盗撮がバレたら、社会的に死ぬ。
パルクールで身体的に。
盗撮で社会的に。
日向は今、二つのおもちゃを手にしていた。
今日、発散させているのは前者の方だ。
何も沙弥香と志乃が遊びに来た日に決行する必要など無かったが、日向は不満を溜めていた。祐理の誘惑に負けそうになったことと、日常シリーズの評価がぼろくそだったこと。成功し続けた日向にとっては大きなストレスで、晴らす必要があった。
(俺はただ楽しみ続けたいだけなんだ)
こういう生活に溺れたいと日向は思う。
理想は、この極限のスリルを浴び続けること。
しかし人間は身体的にも、社会的にもそこまで強くはない。鍛えて身体を強化し、働いて生活を整えなければならない。
日向にとっての盗撮はスリルでもあったが、後者の意味合いが強かった。カミノメという土壌のおかげもあって、去年だけで一千万円を稼いでいる。生活基盤の栄養は経済力だ。蓄えれば蓄えるほど楽できる。
後で存分に楽しみ続けるために、今は撮り師として程々に楽しみつつも、なるべく稼いでおく。
それが日向の、直近の人生プランだ。
こうして欲望を忠実に満たしてみたことで再認識する。
かねてから描いていたレールの存在を。
自分が逸れそうになっていることを。
そして、軌道修正できたことを。
もう一度四階からのドロップをこなした後、日向はその場に尻餅をついた。
「――……ふぅ」
ゾーンを切ると、残虐な疲労が全身を蝕んだ。
ゾーンには
「……もう一度だけ入っておくか」
日向が体を起こした時だった。
耳が控えめな足音を捉えた。
音源を向く。
「こんばんは」
街灯に照らされた志乃が、穏やかに微笑んだ。
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