第61話 切り捨てられる準備

「凪さん……」

 忍野おしのくんは走るわたしに追いつこうと全力で走ってきたらしく、肩で大きく息をしていた。一度立ち止まってしまったわたしの足はもう走りたくないと告げていた。


「何を神取から聞いたのか知らないけど、透の話も聞いてやってくれませんか? あいつ、神取かんどり、とんでもないこと言ったりしたりしてあちこち、引っ掻き回してて」

「……」

 とんでもないこと……。大袈裟に誇張したり、ということかな、と思う。でもその手の話はまず、元の話が無ければ膨らまない。

 透を信じたい気持ちがないわけじゃない。そうじゃないんだけど……わたしの弱い心がそうさせない。


「忍野くんは聞いた? 神取さんと透はの?」

 自分の言葉に胸がつきんと痛む。傷口をわざわざ痛めつけているかのように。

「あー」

 忍野くんは言葉を探しているようだった。たぶん、わたしがあまり傷つかないで済む言葉を用意しようと思ってくれているのだと思った。

「神取が自分は未経験だって吹聴して回ってて、上手に誘ってるって話は聞いてます。透は……友だちだからこんなこと言いたくないけど、たぶん、この前……」


「ありがとう、話してくれて。聞かなかったよりずっとよかったと思う」

「凪さんのこと、嫌いになったわけじゃないと思いますよ。そういう事ではなくて」

「うん、ありがとう。いいの、元々、不釣り合いだと思ってたから」

 そう、不釣り合い。一緒に大学生活を送れたらどんなに良かっただろう? 今まで少しずつ、少しずつ縮めてきたわたしと彼の距離が、ここで一気に手の届かない遠くに引き伸ばされる。……最初から、彼を知らなければよかったという気持ちでいっぱいになって、堪えきれなかった涙がぽろぽろと年甲斐もなく、こぼれては落ちた。




 気がつくと、電車に乗っていた。昼の電車はがらがらで、空いていた適当な席に座った。透からLINEが来ている……。


『話だけでも聞いてほしい』


 よくよく考えてみると、「話だけでも」って変な言葉だな、と思う。話以外に何を聞けと言うのだろう。彼がわたしに触れた記憶を思い出す。だった彼が恐る恐るわたしに触れたこと。あの夜を思い出す。

 話を聞かなくてもこの先に最終的にあるものは目に見えてる。まさか全てが作り話だったとか、そんな都合のいい話はないんだろうから。


「別れよう」


 その言葉を切り出されたときの、心の穴の大きさを彼は知っているのかしら? わたしはよく知っている。その穴を通り過ぎていく空虚な風も。


「別れよう」


 でも彼はわたしからそう言えば楽になるかもしれない。忍野くんはああ言っていたけど、噂話はあてにならない。神取さんは透と並ぶとお似合いだと思った。

 それとも、だんまりを決めこんで、彼から言ってくるのを待つか……。


 スマホの画面とにらみ合って答えを探す。国語の教師だったのに、上手い言葉が見つからない。

 別れるにしても、話を聞くにしても、許すにしても。……わたしの心の辞書には、今のわたしの心を上手く伝えてくれる言葉が見つからなかった。

 自分はどうしたいんだろう?

 そんなことはすぐにはわからない。胸の痛みが、考えようとする度にぎゅっとわたしを縛りつけて頭の中の扉を閉めてしまう。


 情けない……。


 家にいても、透が会いに来てくれるのを待ってしまう自分が嫌だった。LINEの返事もしてないのに、どうして会いに来てくれるというのだろう?

 今日は本当は透の授業は早くに終わっていたはずだから、わたしに「会いたい」と心から思ってくれれば、いくらでも会えたはずなのに……なんで?


 彼はもう、わたしのものではなくなったんだ。

 今頃は神取さんとふたりで……ホテルで? それとも彼女の部屋で? 楽しい時間を過ごしているんだろう。


 そっか。

 別にこういうことは初めてではなかった。「大人しい」というのは「つまらない」と紙一重らしく、わたしは今までの彼氏に切り捨てられてきた。

 つまり、そういうことなのかな?

 不思議なことに受け入れる準備が少しずつ胸の内でできてくる。それは簡単なことではなくて、身を刻むような行為だ。

 だってそうでしょう? バカげているけど、彼がすきだから。わたしは透がすきで、すきだから、彼が彼女としたことを許せないんだ。


 ……どうして今日は自転車で駆けてきてくれないの? 「会えない」けど、こんなに「会いたい」のに。ぎゅうって、胸の痛みがわからなくなるくらい痛く抱きしめてくれたら……。

 彼の顔が見たい。

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